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第一章 再起動

第一章!

高瀬の研究の続きですね!

楽しんで!

 科学者とは、異常を前にしたとき、逃げ出す代わりに定規を持ち出す人種のことを言う。

 かつて、俺――いや、失踪した幼馴染の高瀬は、そんな風に嘯いていた。


「私は科学者じゃないから、定規なんて持ってない。だけどね、高瀬」


 ガタ、と重い段ボール箱をフローリングの床に下ろし、私は誰もいないガランとした部屋を見渡した。

 木造二階建て、築三十五年のボロアパート。その二〇二号室。

 数日前まで、警察の立ち入り禁止テープが厳重に貼られていた、高瀬の消えた部屋だ。

 警察の捜査結果は、実にあっけないものだった。

 部屋の床板が一部焦げていること、壁の裏に不自然な空隙が存在していること、そして住人である高瀬が忽然と姿を消したこと。それらの事実を並べ立てた上で、警察は「学生の自発的な夜逃げ、または精神的困窮による失踪」という退屈な結論を下した。

 事件性はない。それが公の答えだった。

 当然、私の両親も、大学の友人たちも、この部屋に引っ越そうとする私を狂人を見るような目で引き留めた。『結衣、あそこは事故物件だし、高瀬くんが消えた気味の悪い場所だよ』『文学部の女の子が一人で住むようなアパートじゃない』

 そんな正論は、今の私の耳には一文字も届かなかった。

 だって、おかしいのだ。 あの生真面目で、データ至上主義で、研究室の機材を恋人のように大切にしていた高瀬が、大事なノートPCや測定センサーをすべて部屋に置き去りにしたまま、自発的に夜逃げなんてするはずがない。


「あんたがここに何も残さず消えたなら、私も諦めたかもしれない。でも、残しちゃったでしょ。こんなにたくさん」


 私は段ボールの合わせ目をガムテープごと引き剥がし、中から一台の黒いノートPCを取り出した。

 高瀬が肌身離さず持ち歩いていた、自作のシステムが組み込まれたPCだ。大家さんに泣きつき、警察の目を盗んで、彼の『形見』として私が回収してきたものだった。

 デスクの上にPCを置き、ディスプレイを開く。

 部屋の四隅を見上げると、高瀬が設置したままになっていた、中古の軽自動車一台分はするという高精度センサーや赤外線カメラが、電源を切られたまま静かに私を見下ろしていた。

 文学部で近代文学を専攻している私にとって、これらの理系機材は、まるで未知の異星人が遺したオーバーテクノロジーの塊のように思えた。

 キーボードを叩く指が少しだけ震える。高瀬の部屋の机の引き出しから見つけた、数式と殴り書きのメモで埋め尽くされた『研究ノート』を開き、私は一文字ずつ手順を確認していった。


「えっと……メインシステムの実行ファイルはこれ、で、センサーの同期コマンドは……」


 手探りで、不慣れなコマンドを入力していく。 高瀬なら「文系の脳みそはこれだから効率が悪い」と、眼鏡の奥の目を細めて呆れたことだろう。そんな彼の憎らしい幻聴が、今の私の唯一の支えだった。


 しばらくして、カチリ、と部屋の四隅のカメラから小さな起動音が響いた。

 それと同時に、ノートPCの液晶画面が青白い光を放ち、無数のグラフや数値がリアルタイムでスクロールを始める。

 高瀬が遺した室内環境監視システムが、今、再びこの部屋で動き出した。


「ふぅ……。とりあえず、起動はできた、のかな」


 椅子に深く腰掛け、私は画面に映し出される『室内湿度:四二%』という数値を見つめた。

 外は、まだからりと晴れた日の昼下がりの午後二時だ。窓からは穏やかな陽光が差し込み、前の住人が窒息死しただの、高瀬が消えただのといったドロドロとしたオカルトの気配など、微塵も感じられない。


 だけど。


 私は、自分の首元にそっと手を当てた。

 皮膚の裏側が、じわじわと冷たくなっていくような違和感。

 私には、高瀬のような論理的な思考や、数式で世界をハックする才能はない。けれど、昔から「なんとなく嫌な予感がする」とか「ここは空気が歪んでいる」といったことを察知する、驚異的な『直感』だけはあった。


 その直感が、私の脳裏に冷酷な警告を響かせている。

 この部屋の空気は、高瀬がいた頃よりも、明らかに『変質』している。

 高瀬が消えてから、この部屋の何かが変わった。

 まるで、以前よりもずっと、怪異の濃度が濃くなっているかのように。


「……待って。何これ」


 画面をじっと眺めていた私の目が、ある奇妙な『ノイズ』を捉えた。

 高瀬の残した研究ノートによれば、この部屋の異常現象――『湿度九九%』になる臨界点は、深夜の二時四分のはずだった。それ以外の時間は、データは完全にフラットで、安定しているはずだと書かれていた。

 なのに、液晶画面の端、部屋の南側の壁際を示すグラフィックのピクセルが、パチパチと不規則に赤く明滅している。

 気流のベクトルマップを呼び出してみる。

 そこには、わずか数ミリワットの、極めて微弱な『冷たい熱源の歪み』が記録されていた。

 それは呼吸の波形ではない。

 アパートの二重壁の隙間、高瀬が最後に吸い込まれて消えたとされる、あの暗黒の奈落の奥底から、何かがこちらをじっと『観察』しているかのような、不気味なノイズの静止。


 時刻は、まだ昼の二時を過ぎたばかりだ。

 それなのに、高瀬の記録には一度も登場しなかった【新たなバグ】が、すでにこの部屋に出現している。

ご覧いただきありがとうございました。


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