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一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
第2章 西棟の小さな変化

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1、抱かれた翌朝

目を覚ましたとき、リリアはすぐには何が違うのかわからなかった。


ただ、朝の光がやわらかい。


いつもなら窓から差しこむ白い明るさが、そのまま部屋の奥まで伸びてきて、眠りの浅い頭を刺すように揺らす。けれど今朝は、薄い布でもかかったように光が丸く、寝台の端で静かに止まっていた。


ぼんやりしたまま身じろぐと、寝台脇に立っていた侍女がすぐに気づいた。


「お目覚めですか、お嬢様」


声も、いつもより少し低い。


返事の代わりに、リリアはゆっくり視線を巡らせた。


そこでやっと、違和感の正体のひとつに気づく。


鏡がない。


いつも壁際にあった背の高い鏡台が、きれいに消えていた。そこだけ四角く、床板の色が浅い。運び出された跡だけが残っている。


思わず上半身を起こしかけて、毛布の重みに止まる。


侍女がそっと背を支えた。前なら、そんなふうに先回りして手が伸びることはなかった。


「……かがみ」


かすれた声で言うと、侍女は一瞬だけ目を伏せた。


「旦那様のご指示でございます」


それだけだった。


理由は言わない。


けれど、部屋の中を見れば、それだけでは済まないことがわかった。


夜になると影を揺らしていた燭台は、寝台から遠い位置へ移されている。窓辺に置かれていた小机もなくなっていた。扉の外には、普段より濃い人の気配がある。静かなのに、誰かがいるとわかる気配だった。


昨夜までいた年かさの侍女の姿もない。代わりに、見覚えはあるがあまり西棟では見かけない女が、水差しを持って控えている。ぎこちないほど姿勢がいい。


何もかもが、少しずつ違う。


それなのに誰も、その違いを口にしない。


リリアは指先で毛布を掴んだ。


昨夜のことを思い出そうとすると、胸の奥がきゅっと縮まる。


暗い回廊。重い扉。届かないと思った先にあった灯り。あの腕の硬さ。あの人の匂い。


こわかった。


けれど、眠れた。


それを思い出した瞬間、別の怖さがのぼってくる。自分でもわからないうちに、唇を噛んでいた。


「白湯をお持ちしました」


別の侍女が、小さな銀の盆を卓へ置いた。薄い湯気が細く立つ。


前なら、朝いちばんにそんなものは出なかった。薬でもない限り、子どもに白湯を飲ませる習慣はなかったはずだ。


リリアは湯気を見つめたまま、また小さく訊いた。


「……どうして」


今度は侍女たちが、ほんのわずかに視線を交わした。


それから最初の侍女が、やはり同じ言葉を返す。


「旦那様のご指示でございます」


やさしく言われたのに、その言葉は少しもやさしく聞こえなかった。


旦那様。


その呼び名だけで、部屋の空気がわずかに張る。


誰かの機嫌をうかがう緊張ではない。刃の向きを確かめるときに似た、固い張り方だった。


一度目も、夜はこわかった。


鏡に映る暗がりがいやで、灯りが揺れるたび胸がざわついた。けれど鏡に布がかかることはなかったし、灯りの位置が変わることもなかった。食事も、着替えも、湯浴みも、困ることは何もなかった。


ただ、自分がこわがることは、世話のうちに入っていなかった。


だから、今こうして鏡が消え、灯りが遠ざけられ、白湯が用意されていることの方が、かえって落ち着かなかった。


差し出された杯を両手で受け取る。あたたかいのに、掌はなかなかぬくもらない。


扉の外で、低い靴音が止まった。


それだけで、部屋の中の侍女たちの背筋が一斉に伸びる。


リリアの肩も強ばった。


「旦那様」


一人がそう言って、扉の脇へ下がる。


入ってきたのは、昨夜と同じ黒だった。


朝の光の下ではっきり見ても、その人はやはり怖い。黒い髪も、灰銀の目も、きれいだと思うより先に息が詰まる。軍装の硬さまでそのまま体になってしまったような男だった。


リリアは反射のように毛布を握りしめた。


父は、すぐにはリリアを見なかった。


まず部屋を見た。


鏡台のあった場所、窓、燭台、暖炉の火の強さ、控えている侍女の顔ぶれ。灰銀の視線が順に流れていく。そのどれにも無駄がない。


「夜番は」


低い声が落ちる。


「回廊にも一人置いております」


「今夜から二人に増やせ」


「はい」


「西棟に出入りする者は記録しろ。交替は固定だ」


短いやり取りが続く。


誰も逆らわない。質問も挟まない。ただ命じられたことを、そのまま受け取っていく。


それから、ようやく父の目がリリアへ落ちた。


一度だけ、まっすぐ。


けれど次の瞬間には、その視線は頬を滑って額へ移り、そこから寝台の端へ流れた。見ようとして、うまく留められないみたいに。


リリアはそのわずかな動きにさえ、喉がきゅっと縮むのを感じた。


父が一歩近づく。


体温を測るつもりなのか、額へ手を伸ばしかけたのがわかった。


その気配だけで、体が先にこわばる。


肩が上がり、息が止まり、指先が毛布の縁を痛いほど掴んだ。


父の手が止まった。


触れる寸前で、ぴたりと。


部屋の空気が、少しだけ重くなる。


侍女たちは息まで潜めていた。


やがて父は手を引いた。何も言わず、表情も変えず、ただ横に控える侍女へ視線を向ける。


「触れる前に声をかけろ」


「……はい」


「夜は同じ顔ぶれで回せ。無理に起こすな」


「かしこまりました」


父は暖炉の火を一度見やり、それから窓際へ目をやる。隙間風を確かめるみたいに、ほんのわずか眉が寄った。


「ここでは遠い」


誰にともなく落ちた声に、侍女たちの緊張がもう一段強まる。


父はためらわず続けた。


「主塔側の部屋を空けろ。今夜から移す」


リリアは意味をすぐには飲み込めなかった。


主塔側。


その言葉だけが、冷たい水みたいに胸へ落ちる。


侍女たちは即座に頭を下げた。


「承知いたしました」


もう誰も、それに疑問を挟まない。


部屋の中のものが、自分の知らないところで静かに決められていく。鏡が消えたように、今度はこの部屋そのものが消えてしまうのだと、ようやくわかった。


父はそれ以上何も言わなかった。


最後にもう一度だけリリアを見る。見た、というより、確かめたに近い短さで。


それから踵を返す。


扉が閉まると、張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。けれど緩んだのは侍女たちだけで、リリアの胸の奥ではまだ何もほどけなかった。


すぐに部屋が動き始める。


文箱が閉じられ、衣類が畳まれ、寝台脇の小物まで一つずつ箱へ移される。昨日まで壁際にあった鏡台の跡を、誰かが布で静かに拭っていた。


「お嬢様、こちらへ」


乳母のエルナが呼ぶ。西棟で長く見てきた、数少ない馴染みの顔だった。その手つきまで、今朝はどこか慎重だ。


抱き上げられはしない。けれど立たせるときには、いつもより先に袖を支えた。


部屋の外へ出ると、回廊にも人がいた。


壁際に控える兵。荷を運ぶ女たち。目を合わせまいとする下働き。皆、リリアではなく、その後ろにある何かを恐れているように見える。


昨夜のことが、もう西棟じゅうに知れているのだと、そのとき初めてわかった。


誰も口にはしない。


それでも、知っている。


黒狼公が、自分の娘を抱いたことを。


回廊の先に、小さな部屋が用意されていた。まだ主塔そのものではない。西棟と主塔をつなぐ渡り廊下に近い、小ぶりな一室だった。


前の部屋より狭い。けれど暖炉はよく手入れされ、窓は小さく、風が入りにくい。鏡は最初から置かれていなかった。寝台の位置まで、まるで誰かがあらかじめ夜の悪さを知っていたみたいに整えられている。


エルナが、用意された椅子へリリアを座らせた。


「少しずつ移しますからね」


少しずつ、という言葉にすがりたくなる。


けれど次々に運びこまれるのは、昨日まで自分のそばにあったものばかりだった。古い絵本、冬用のひざ掛け、小さな箱。自分のものが増えるたび、この部屋が自分の部屋になっていく。


「……もどる?」


ぽつりとこぼすと、エルナの手が止まる。


ほんの少しだけ困ったような顔をして、それでもやわらかく笑おうとした。


「しばらくはこちらでお過ごしになります」


しばらく。


それがどれほどの長さなのか、リリアにはわからない。


ただ、元に戻るとは言ってくれなかった。


昼を過ぎるころには、部屋の移動はほとんど終わっていた。


西棟の奥にあったものは、必要なぶんだけこちらへ移され、必要でないものは置いていかれる。前の部屋へ戻ったとき、そこはもう朝の自分の部屋ではなかった。寝台は整え直され、棚は空き、壁際は妙に広い。


誰か別の子のための部屋みたいだった。


夜、新しい部屋へ寝かされる。


暖炉の火は小さく、燭台は遠い。扉の外には人の気配が二つある。窓の隙間風もない。毛布の重さまで、昨夜より少しだけ体に合っていた。


目を閉じる。


耳を澄ますと、夜はちゃんといる。


暗がりも、冷たさも、胸の奥を撫でる甘い気配も、消えたわけではない。


けれど西棟の奥でひとりきりだった夜より、たしかに遠い。


主塔へ続く廊下の向こうに、まだ灯りがあるせいかもしれない。あの人が近くにいるせいかもしれない。理由はわからない。


わからないまま、少しだけ息がしやすい。


それが悔しかった。


眠ってしまったら、認めてしまう気がした。


だからリリアはしばらく目を閉じたまま、毛布の端を握っていた。


遠くで扉が開閉する音がして、重い靴音が一度だけ止まる。


それだけで、胸のざわめきがひどく小さくなった。


悔しいような、泣きたいような気持ちのまま、リリアは目を開けなかった。


けれどその夜、リリアは新しい部屋で、ひとりきりの西棟にいた頃より深く眠った。


それが何より、逃げようのない事実だった。

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