4、執務室の前で眠る子
扉の下から漏れる灯りは、思っていたよりもあたたかく見えた。
ほんの細い光なのに、夜の廊下ではそれだけで十分だった。冷たい石の上を這ってきた小さな身体には、その明かりがひどく近く、ひどく遠いものに思える。
リリアは息を乱したまま、なおも手を伸ばした。
後ろでは、控えの間から慌てた気配が追ってくる。抑えた声。急ぐ足音。けれど大きくは騒げない。主塔の夜だからだ。黒狼公の執務を妨げるような真似は、誰もしない。
「お嬢様、いけません」
「こちらへ……」
声が近づく。
それでもリリアは止まれなかった。
ここまで来るあいだ、喉の奥に貼りついていた甘いものが、少しずつ薄れていった。怖さは消えない。冷たい石も、腕にかかる重さも、胸を擦る布の感触も、何ひとつやさしくはない。けれど、夜の底から伸びてくる見えない手だけが、ここでは届きにくい。
それがわかってしまったから、もう戻れない。
小さな手が、ついに扉の前の敷石へ届く。
そこだけ、廊下のほかの場所と少し違っていた。人がよく通るせいか、石の角がなだらかで、冷たさの中にかすかなぬくみが残っている。扉の向こうで、誰かが長く起きている場所のぬくみだった。
リリアは扉の前でようやく止まった。
止まった途端、全身から力が抜ける。
胸を締めつけていたものが、ふっとほどけた。甘い匂いも、もうほとんどしない。
息ができる。
そのことに驚くほど、ここへ来るまでの呼吸は浅かった。
追いついた乳母役の女が、ほとんど膝をつくようにして身をかがめた。
「まあ……」
叱るより先に、呆然とした声だった。
若い侍女もすぐ横で立ち尽くす。抱き上げようとして、けれどその手を伸ばしかけたまま止めた。ここで無理に動かせば、また泣くかもしれない。戻せば今度こそ、あの得体の知れない不穏が濃くなるのではないかと、もう誰もが半ば信じてしまっている。
「どういたしましょう」
「……起こしては」
囁くような声が交わされる。
リリアはその声を遠くに聞きながら、扉の前に座り込むような格好になった。まだ身体はうまく支えられない。両手を床につき、額が扉へ寄りそうになる。黒い木の表面はひんやりしているのに、向こう側の灯りの熱がかすかに伝わってくる気がした。
中から、紙の擦れる音がした。
それだけで、胸の奥がさらに静まる。
いる。
扉の向こうに、父がいる。
書類をめくる音。
低い声。
誰かの返事。
聞き取れないほど短いそれだけで、リリアには十分だった。
怖い。
その声を知っているから怖い。あの夜、最後に聞いた声でもあるからだ。冷たく、鋭く、刃のようにまっすぐな声。
それなのに、扉の向こうにそれがある夜だけ、眠りの底が深くならない。
乳母役の女が、そっと手を差し出した。
「お嬢様、戻りましょうね」
触れる前から、リリアの喉がひくりと震えた。
甘いものは消えていない。遠くに退いているだけだ。ここから離れれば、また近づいてくる。
短い、掠れた泣き声が漏れた。
大きくはない。けれど拒むには十分な音だった。
乳母役の女が手を止める。若い侍女が息を呑んだ。
ここは執務室の前だ。幼い子が座り込んでいてよい場所ではない。まして、夜のあいだに這い出して来た赤子を、そのまま寝かせておくなど、本来なら許されることではない。
けれど、許されないからといって、引き離せるかといえば違った。
誰も決められずにいる。
扉の向こうでは、まだ紙の音が続いている。
リリアはその音を聞いているだけで、目の奥の張りつめたものがほどけていくのを感じた。冷たい廊下を進んだせいで、身体の表面は少し冷えている。なのに、扉の前だけは不思議なほど静かだった。
やがて執務室の中で椅子が引かれる音がした。
全員の動きが止まる。
次いで、足音が近づく。
扉一枚向こうの音なのに、リリアの胸ははっきりとそれを聞き分けた。重くはない。けれど迷いのない足音。近づくたび、廊下の空気まで少し張る。
来る。
そう思った瞬間、怖さが先に身体を刺した。
扉が開いてしまえば、父と目が合う。見つかる。こんな場所にいることを知られる。温室の夜のように、あの灰銀の目が自分をまっすぐ見下ろす。
逃げたい、と反射のように思う。
けれどもう遅い。ここまで来てしまった身体には、逃げる力など残っていない。
それでも、扉の向こうの気配が近づくにつれて、夜の甘いものはほとんど消えていった。
怖いのに、息は楽になる。
その矛盾が、いまはもうリリアの身体に染みついていた。
扉が開く。
廊下へ、執務室の灯りがひとすじ落ちる。
それだけで、控えていた侍女たちの肩がわずかに揺れた。
最初に見えたのは、黒い軍装の裾だった。
次いで、長い影が扉口へ伸びる。
父だ。
リリアはもう半分眠りの底にいた。けれど、その気配だけはわかる。怖いと感じるより早く、胸の奥で最後までこわばっていたものがほどける。
父は扉の前で足を止めた。
その沈黙だけで、乳母役の女も若い侍女も、いっそう身を固くする。誰も先に口を開けなかった。
父の視線が落ちてくる。
眠りに沈みかけた意識の端で、リリアはそれを感じた。あの灰銀の目が、自分を見ている。温室の最後と同じ目かもしれないと思うだけで、身体のどこかがまだ冷える。
それでも、もう泣かなかった。
執務室の前まで来てしまえば、夜の甘いものはほとんど届かない。
「……なぜここにいる」
低い声だった。
怒りはない。
驚きも、表にはほとんど出ていない。
ただ、理解できないものを前にした時の、乾いた低さだった。
乳母役の女がすぐに膝を折る。
「申し訳ございません。控えの間におりましたのですが、ほんのひと時、目を離した隙に」
「自分で出てきたのか」
「……はい」
「控えの間から、こちらまで」
「そうでございます」
父は何も言わなかった。
ただ、眠っているリリアを見下ろしている。
小さな身体だった。
冷たい廊下の石の上で、扉へ寄るように丸まっている。毛布は途中ではだけ、這ってきたせいで袖口も少し乱れていた。髪は額へ細く貼りつき、眠った頬には涙の跡が残っている。
こんなところで眠れるはずがない。
普通ならそう思うだろう。
子どもを休ませる場所ではない。執務室の前の廊下など、本来なら近づけることすらしない場所だ。
それなのに、リリアの呼吸は深かった。
苦しげな浅さではなく、ようやく辿り着いた場所でほどけたような静かな呼吸だった。
「離すと泣かれました」
乳母役の女が、恐る恐る続ける。
「控えの間からでもお休みにはなれておりましたが、今夜は少しご様子が違い……こちらへ出られてからは、その、落ち着かれて」
言葉を選びきれず、そこで止まる。
父はなおも沈黙したままだった。
やがて、わずかに息を吐く気配がある。
それから、ごく低く言った。
「起こすな」
それだけだった。
父が一歩、近づく。
眠りの縁にいたリリアの身体がかすかに震えた。怖さの名残か、気配に反応したのかは、自分でもわからない。ただ、またあの目の前にいるのだと、身体の奥だけが覚えている。
父の手が伸びる。
その手を、リリアは一度目にも見ている。
剣を握る手。
血を浴びても揺れない手。
その同じ手が、今は空のまま、眠った娘へ伸びていた。
父はすぐには触れなかった。
ほんの一拍、迷うように手が止まる。抱き上げ方がわからないというより、そうすることが自分の中にあまりにないのだと、そんな止まり方だった。
それでも、次の瞬間には指先がリリアの肩口へ触れる。
乱暴ではなかった。
慎重すぎるほどでもない。
ただ、壊さないようにという力の入れ方だった。
もう片方の腕が背へ回る。
そこで初めて、リリアの身体が床から浮いた。
抱き上げられたとわかった途端、温室の最後が一瞬だけよみがえった。剣の光、冷たい石、倒れていく感覚。
けれど次には、それより先に別のものが来た。
近い。
父の気配が、執務室の前よりさらに近い。
冷えた軍装の匂い。
革の匂い。
紙と夜の残り香。
そういうものに混じって、あの甘いものはどこにもない。
リリアは眠りの底で小さく息を吸った。
父の腕の中は、思ったより安定していた。大きくて、固くて、少しもやわらかくない。なのに床よりずっと揺れが少なく、どこにも沈まない。自分の重みが、ちゃんと受け止められているのがわかる。
こんなふうに抱かれることを、一度目の八年でほとんど知らなかった。
だから、怖い。
怖いのに、身体はもう力を抜きかけていた。
父はそのまま抱いたまま歩き出した。
軍靴が石を鳴らすたび、リリアの身体はわずかに揺れた。けれど、その揺れは怖くなかった。誰かの歩幅に乗って運ばれる揺れだったからだ。
控えの間の扉が開く。
暖炉の火が小さく鳴り、さっきまでと同じ簡素な部屋が現れる。それでも、父に抱かれたまま入ると、そこは別の場所のように思えた。
乳母役の女が急いで揺籠へ近づく。
「こちらへ……」
言いかけた女へ、父は視線だけを向けた。
「そのままでよい」
女は口を閉じる。
若い侍女も、ただ目を見開いて立ち尽くしていた。
たぶん、誰も想像していなかったのだ。
黒狼公が、自ら娘を抱いたまま部屋へ入ってくることなど。
父は暖炉から少し離れた椅子のそばで止まった。
すぐに下ろすのかと思ったが、そうしない。
腕の中のリリアは、もうほとんど完全に眠りへ沈んでいた。扉の前で眠っていた時よりも、呼吸が深い。肩の力も抜けている。小さな手は、父の軍装の合わせ目あたりへ無意識に添えられていた。
その感触に気づいたのか、父の身体がわずかに強張る。
ほんの一瞬だった。
けれど、そこで初めて、この人もまた慣れていないのだとわかる。
ただ、もう床には置かれていなかった。
それだけで十分だった。
怖いまま、眠れる。
怖い人の腕の中で。
それでも、今夜いちばん静かだった。
リリアは半分眠ったまま、父の軍装へ頬を寄せた。自分でそうしたのか、揺れのせいなのかもわからない。けれど、その位置へ落ち着くと、胸の奥の最後のこわばりまでほどけた。
小さな息が、ひとつ深く落ちる。
それは、ようやく本当に眠れた時の息だった。
父が、それを聞いたのがわかった。
何も言わない。
抱く腕の力も変わらない。
けれど、その沈黙はさっきまでとは少し違っていた。
乳母役の女も侍女も、もう声を出せなかった。
暖炉の火だけがかすかに鳴っている。
控えの間は相変わらず簡素で、やさしい部屋ではない。
父の気配も冷たく、少しも柔らかくない。
それでも、その夜のリリアにとっては、そこがいちばん静かな場所だった。
父の腕の中で、リリアはとうとう完全に眠りきった。
父は無言のまま、その小さな寝顔を見下ろしていた。




