表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
第1章 父様のそばだけ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/35

4、執務室の前で眠る子

扉の下から漏れる灯りは、思っていたよりもあたたかく見えた。


ほんの細い光なのに、夜の廊下ではそれだけで十分だった。冷たい石の上を這ってきた小さな身体には、その明かりがひどく近く、ひどく遠いものに思える。


リリアは息を乱したまま、なおも手を伸ばした。


後ろでは、控えの間から慌てた気配が追ってくる。抑えた声。急ぐ足音。けれど大きくは騒げない。主塔の夜だからだ。黒狼公の執務を妨げるような真似は、誰もしない。


「お嬢様、いけません」

「こちらへ……」


声が近づく。


それでもリリアは止まれなかった。


ここまで来るあいだ、喉の奥に貼りついていた甘いものが、少しずつ薄れていった。怖さは消えない。冷たい石も、腕にかかる重さも、胸を擦る布の感触も、何ひとつやさしくはない。けれど、夜の底から伸びてくる見えない手だけが、ここでは届きにくい。


それがわかってしまったから、もう戻れない。


小さな手が、ついに扉の前の敷石へ届く。


そこだけ、廊下のほかの場所と少し違っていた。人がよく通るせいか、石の角がなだらかで、冷たさの中にかすかなぬくみが残っている。扉の向こうで、誰かが長く起きている場所のぬくみだった。


リリアは扉の前でようやく止まった。


止まった途端、全身から力が抜ける。


胸を締めつけていたものが、ふっとほどけた。甘い匂いも、もうほとんどしない。


息ができる。


そのことに驚くほど、ここへ来るまでの呼吸は浅かった。


追いついた乳母役の女が、ほとんど膝をつくようにして身をかがめた。


「まあ……」


叱るより先に、呆然とした声だった。


若い侍女もすぐ横で立ち尽くす。抱き上げようとして、けれどその手を伸ばしかけたまま止めた。ここで無理に動かせば、また泣くかもしれない。戻せば今度こそ、あの得体の知れない不穏が濃くなるのではないかと、もう誰もが半ば信じてしまっている。


「どういたしましょう」

「……起こしては」


囁くような声が交わされる。


リリアはその声を遠くに聞きながら、扉の前に座り込むような格好になった。まだ身体はうまく支えられない。両手を床につき、額が扉へ寄りそうになる。黒い木の表面はひんやりしているのに、向こう側の灯りの熱がかすかに伝わってくる気がした。


中から、紙の擦れる音がした。


それだけで、胸の奥がさらに静まる。


いる。


扉の向こうに、父がいる。


書類をめくる音。

低い声。

誰かの返事。


聞き取れないほど短いそれだけで、リリアには十分だった。


怖い。


その声を知っているから怖い。あの夜、最後に聞いた声でもあるからだ。冷たく、鋭く、刃のようにまっすぐな声。


それなのに、扉の向こうにそれがある夜だけ、眠りの底が深くならない。


乳母役の女が、そっと手を差し出した。


「お嬢様、戻りましょうね」


触れる前から、リリアの喉がひくりと震えた。


甘いものは消えていない。遠くに退いているだけだ。ここから離れれば、また近づいてくる。


短い、掠れた泣き声が漏れた。


大きくはない。けれど拒むには十分な音だった。


乳母役の女が手を止める。若い侍女が息を呑んだ。


ここは執務室の前だ。幼い子が座り込んでいてよい場所ではない。まして、夜のあいだに這い出して来た赤子を、そのまま寝かせておくなど、本来なら許されることではない。


けれど、許されないからといって、引き離せるかといえば違った。


誰も決められずにいる。


扉の向こうでは、まだ紙の音が続いている。


リリアはその音を聞いているだけで、目の奥の張りつめたものがほどけていくのを感じた。冷たい廊下を進んだせいで、身体の表面は少し冷えている。なのに、扉の前だけは不思議なほど静かだった。


やがて執務室の中で椅子が引かれる音がした。


全員の動きが止まる。


次いで、足音が近づく。


扉一枚向こうの音なのに、リリアの胸ははっきりとそれを聞き分けた。重くはない。けれど迷いのない足音。近づくたび、廊下の空気まで少し張る。


来る。


そう思った瞬間、怖さが先に身体を刺した。


扉が開いてしまえば、父と目が合う。見つかる。こんな場所にいることを知られる。温室の夜のように、あの灰銀の目が自分をまっすぐ見下ろす。


逃げたい、と反射のように思う。


けれどもう遅い。ここまで来てしまった身体には、逃げる力など残っていない。


それでも、扉の向こうの気配が近づくにつれて、夜の甘いものはほとんど消えていった。


怖いのに、息は楽になる。


その矛盾が、いまはもうリリアの身体に染みついていた。


扉が開く。


廊下へ、執務室の灯りがひとすじ落ちる。

それだけで、控えていた侍女たちの肩がわずかに揺れた。


最初に見えたのは、黒い軍装の裾だった。

次いで、長い影が扉口へ伸びる。


父だ。


リリアはもう半分眠りの底にいた。けれど、その気配だけはわかる。怖いと感じるより早く、胸の奥で最後までこわばっていたものがほどける。


父は扉の前で足を止めた。


その沈黙だけで、乳母役の女も若い侍女も、いっそう身を固くする。誰も先に口を開けなかった。


父の視線が落ちてくる。


眠りに沈みかけた意識の端で、リリアはそれを感じた。あの灰銀の目が、自分を見ている。温室の最後と同じ目かもしれないと思うだけで、身体のどこかがまだ冷える。


それでも、もう泣かなかった。


執務室の前まで来てしまえば、夜の甘いものはほとんど届かない。


「……なぜここにいる」


低い声だった。


怒りはない。

驚きも、表にはほとんど出ていない。

ただ、理解できないものを前にした時の、乾いた低さだった。


乳母役の女がすぐに膝を折る。


「申し訳ございません。控えの間におりましたのですが、ほんのひと時、目を離した隙に」

「自分で出てきたのか」

「……はい」

「控えの間から、こちらまで」

「そうでございます」


父は何も言わなかった。


ただ、眠っているリリアを見下ろしている。


小さな身体だった。

冷たい廊下の石の上で、扉へ寄るように丸まっている。毛布は途中ではだけ、這ってきたせいで袖口も少し乱れていた。髪は額へ細く貼りつき、眠った頬には涙の跡が残っている。


こんなところで眠れるはずがない。


普通ならそう思うだろう。

子どもを休ませる場所ではない。執務室の前の廊下など、本来なら近づけることすらしない場所だ。


それなのに、リリアの呼吸は深かった。


苦しげな浅さではなく、ようやく辿り着いた場所でほどけたような静かな呼吸だった。


「離すと泣かれました」


乳母役の女が、恐る恐る続ける。


「控えの間からでもお休みにはなれておりましたが、今夜は少しご様子が違い……こちらへ出られてからは、その、落ち着かれて」


言葉を選びきれず、そこで止まる。


父はなおも沈黙したままだった。


やがて、わずかに息を吐く気配がある。

それから、ごく低く言った。


「起こすな」


それだけだった。


父が一歩、近づく。


眠りの縁にいたリリアの身体がかすかに震えた。怖さの名残か、気配に反応したのかは、自分でもわからない。ただ、またあの目の前にいるのだと、身体の奥だけが覚えている。


父の手が伸びる。


その手を、リリアは一度目にも見ている。

剣を握る手。

血を浴びても揺れない手。


その同じ手が、今は空のまま、眠った娘へ伸びていた。


父はすぐには触れなかった。


ほんの一拍、迷うように手が止まる。抱き上げ方がわからないというより、そうすることが自分の中にあまりにないのだと、そんな止まり方だった。


それでも、次の瞬間には指先がリリアの肩口へ触れる。


乱暴ではなかった。

慎重すぎるほどでもない。

ただ、壊さないようにという力の入れ方だった。


もう片方の腕が背へ回る。


そこで初めて、リリアの身体が床から浮いた。


抱き上げられたとわかった途端、温室の最後が一瞬だけよみがえった。剣の光、冷たい石、倒れていく感覚。


けれど次には、それより先に別のものが来た。


近い。


父の気配が、執務室の前よりさらに近い。

冷えた軍装の匂い。

革の匂い。

紙と夜の残り香。

そういうものに混じって、あの甘いものはどこにもない。


リリアは眠りの底で小さく息を吸った。


父の腕の中は、思ったより安定していた。大きくて、固くて、少しもやわらかくない。なのに床よりずっと揺れが少なく、どこにも沈まない。自分の重みが、ちゃんと受け止められているのがわかる。


こんなふうに抱かれることを、一度目の八年でほとんど知らなかった。


だから、怖い。

怖いのに、身体はもう力を抜きかけていた。


父はそのまま抱いたまま歩き出した。


軍靴が石を鳴らすたび、リリアの身体はわずかに揺れた。けれど、その揺れは怖くなかった。誰かの歩幅に乗って運ばれる揺れだったからだ。


控えの間の扉が開く。


暖炉の火が小さく鳴り、さっきまでと同じ簡素な部屋が現れる。それでも、父に抱かれたまま入ると、そこは別の場所のように思えた。


乳母役の女が急いで揺籠へ近づく。


「こちらへ……」


言いかけた女へ、父は視線だけを向けた。


「そのままでよい」


女は口を閉じる。


若い侍女も、ただ目を見開いて立ち尽くしていた。


たぶん、誰も想像していなかったのだ。

黒狼公が、自ら娘を抱いたまま部屋へ入ってくることなど。


父は暖炉から少し離れた椅子のそばで止まった。

すぐに下ろすのかと思ったが、そうしない。


腕の中のリリアは、もうほとんど完全に眠りへ沈んでいた。扉の前で眠っていた時よりも、呼吸が深い。肩の力も抜けている。小さな手は、父の軍装の合わせ目あたりへ無意識に添えられていた。


その感触に気づいたのか、父の身体がわずかに強張る。


ほんの一瞬だった。

けれど、そこで初めて、この人もまた慣れていないのだとわかる。


ただ、もう床には置かれていなかった。


それだけで十分だった。


怖いまま、眠れる。


怖い人の腕の中で。

それでも、今夜いちばん静かだった。


リリアは半分眠ったまま、父の軍装へ頬を寄せた。自分でそうしたのか、揺れのせいなのかもわからない。けれど、その位置へ落ち着くと、胸の奥の最後のこわばりまでほどけた。


小さな息が、ひとつ深く落ちる。


それは、ようやく本当に眠れた時の息だった。


父が、それを聞いたのがわかった。


何も言わない。

抱く腕の力も変わらない。

けれど、その沈黙はさっきまでとは少し違っていた。


乳母役の女も侍女も、もう声を出せなかった。

暖炉の火だけがかすかに鳴っている。


控えの間は相変わらず簡素で、やさしい部屋ではない。

父の気配も冷たく、少しも柔らかくない。


それでも、その夜のリリアにとっては、そこがいちばん静かな場所だった。


父の腕の中で、リリアはとうとう完全に眠りきった。


父は無言のまま、その小さな寝顔を見下ろしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ