3、扉の向こう
主塔前の控えの間へ運ばれる夜に、リリアの身体は少しずつ慣れていった。
慣れる、というのは正しくないかもしれない。夜そのものには、少しも慣れない。日が傾き、灯りの色だけが濃くなりはじめると、胸の奥は今でも先に冷えていく。あの甘いものがどこからともなく滲み出してくる気配も、変わらずいやだった。
ただ、主塔前まで来れば、産室にいるよりはましだと、身体が覚えただけだった。
その夜も、控えの間へ運ばれた時にはまだ平気だった。
大事なのは、部屋の広さでも毛布のやわらかさでもない。扉の向こうに父がいるかどうか、それだけだったからだ。
父の声はする。紙をめくる音もする。人の出入りもある。
それなのに今夜は、息のしやすさが長続きしなかった。
胸の奥に残る冷たいものが、いつもより近い場所でじっとしている。
扉の向こうにいるだけでは、足りない。
そんなことを思った瞬間、自分で自分が嫌になった。
ただ近くにいてくれるだけで、あれは退く。それで十分だったはずなのに。あの父が同じ棟の、扉一枚向こうにいる。それだけでも十分すぎるほど特別なのに。
それでも、身体のほうはもう知ってしまっている。
主塔前より、扉の近くのほうが楽だ。
扉の近くより、父の気配が濃い場所のほうが、もっと楽なのではないか。
理屈ではない。
夜ごと覚えてしまったことだった。
リリアは揺籠の中で小さく身じろいだ。
最近、ほんの少しだけ動けるようになってきていた。
まだ自由にはほど遠い。座るのだって危ういし、手足も思うようには動かない。それでも、寝返りくらいなら打てる。腹這いのまま、わずかに手で床を掻くこともできるようになっていた。
そのことを知ってから、夜は前より落ち着かない。
自分で動ける。
ほんの少しでも。
その事実があるだけで、届かない場所が前より遠く思えるからだった。
扉の向こうで、父の声がまた短く落ちる。
リリアはその方向へ顔を向けた。
向いているあいだは、少しましだった。けれど、もうそれだけでは足りない。自分でも理由はわからない。ただ、もう少し近くへ行けば、この喉を掻く甘いものがもっと遠くなるような気がしてしまう。
今夜は父の声が、いつもより遠い。
会議か、別室か、あるいは執務室の奥か。音はするのに薄い。その薄さが、かえって苦しかった。
甘い匂いが、控えの間の中へ少しだけ戻ってくる。
暖炉の火がはぜる。
乳母役の女は針仕事をしていた。
若い侍女は控えめにあくびを噛み殺し、それから扉の外を一度覗いて戻ってくる。
そのわずかな隙だった。
リリアは自分でも考えるより先に、体をひねっていた。
毛布がずれる。
揺籠の縁に手がかかる。
小さな腕では自分の重さも支えきれず、胸がつかえる。
けれど止まりたくなかった。
落ちる、と思った次の瞬間には、すでに床へ転がり落ちていた。
痛い、というほどではない。けれど石の冷たさが布越しにも伝わって、息がひとつ止まる。
泣きそうになる。
でも、泣かなかった。
泣けば見つかる。
抱き上げられて、また揺籠へ戻される。
それだけはいやだった。
リリアは息を殺し、腹這いのまま顔を上げた。
床は冷たい。
灯りは低い。
部屋の出口は遠い。
揺籠から見上げるより、控えの間はずっと広く見えた。扉の向こうへ行くだけなのに、まるで別の棟へ渡るみたいに遠い。
それでも、控えの間の出口の向こうにある空気のほうが、ここより少しましに思えた。
父の気配がある。
それだけで、前へ進める気がした。
リリアは小さな手を石の床へつき、ぐ、と体を引きずった。
ほんのわずかしか進まない。
胸が擦れる。
足は思うようについてこない。
それでも、一度進めば、もう戻れなかった。
怖い。
自分で動いていることが、怖かった。
温室へ向かった一度目の夜と、どこかで重なってしまうからだ。行ってはいけないところへ、自分から近づいていく怖さを、身体が覚えている。
でも、いま向かっている先は違う。
違うはずだと、何度も胸の中で言い聞かせる。
父のいるほうへ行く。
怖い父のほうへ。
あの剣を握っていた人のほうへ。
そんなものが、どうして温室よりましなのだろう。
わからない。
わからないまま、手だけが前へ出る。
控えの間の敷居が近づく。
そこを越えれば廊下だ。
もっと冷たい石の上。
人に見つかればすぐ戻される。
それでも、越えなければ足りないと、喉の奥が知っていた。
リリアは小さく息を吸い、敷居へ手をかけた。
扉の向こうで、父の声がした。
低く短い声。
誰かに命じるだけの、ごく平坦な響き。
けれど、さっきより近い。
扉一枚ぶん近いだけで、胸を掻くものが少し薄れる。
もっと近く。
その考えが、もう言葉ではなく衝動になっていた。
リリアは敷居を越えた。
身体がもつれて、半分転がるように廊下へ出る。石はさらに冷たく、夜の空気は控えの間より澄んでいた。甘い匂いはまだ細くついてくる。けれどここまで来ると、父の気配のほうが濃い。
廊下の先に、細い灯りが見えた。
執務室の扉の下から漏れる明かりだった。
そこだ、と、理屈もなく思う。
行けばいい。
あそこまで。
そこまで行ければ、もっと楽になれる。
後ろで、椅子の脚がかすかに擦れる音がした。
乳母役の女が振り返ったのだろう。
見つかる。
そう思ったのに、リリアの手は止まらなかった。
止まれば戻される。
戻されれば、また足りない夜へ戻る。
あと少し。
あと少しだけ。
扉の下の灯りは、もう目の前にあった。




