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一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
第1章 父様のそばだけ

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2、主塔の夜

夜になると、主塔前の控えの間へ運ばれるのが、いつのまにか決まったことのようになっていた。


誰かがはっきりそう言ったわけではない。けれど夕方が近づくと、乳母役の女が揺籠の布を整え、侍女が毛布を一枚余計に持ってくる。日が落ちる前に、夜のための場所へ移す。それが、今のリリアには必要なのだと、もう皆が知っているのだろう。


その日も、窓辺の白さが薄れてきた頃、リリアは抱き上げられた。


産室の中はまだあたたかい。火もあり、人の気配もある。けれど、そのあたたかさは夜を退けてはくれない。灯りが濃くなるにつれて、胸の奥の冷たいものは先に目を覚ましてしまう。


また来る。


そう考えるより前に、身体がもう知っていた。


廊下の空気は、産室より冷たい。石壁に抱え込まれた夜気が、灯りの色まで少し固くしている。だが、その冷たさはいやではなかった。甘く湿ったものより、よほどましだった。


主塔へ向かう廊下では、歩く者の足音も違う。


騎士が通る。

文官らしい男が早足で横切る。

誰も声を張り上げたりはしないが、産室のまわりよりずっと張りつめている。


ここには悲しみだけではなく、仕事の気配がある。止まっていない場所の気配だ。


そのことに、リリアは少しだけ救われる。


主塔前の控えの間へ入ると、乳母役の女が小さく息をついた。


「今夜はこちらでございますよ、お嬢様」


部屋は相変わらず質素だった。飾りらしいものはほとんどなく、暖炉も産室ほど大きくない。兵か文官の控えに使う部屋なのだろう。置かれている机も椅子も、くつろぐためではなく、用のためにある形をしている。


それでも、産室よりずっと楽だった。


ここへ来るだけで、胸を撫でていたざわつきが少し薄れる。眠りの縁に立っている気配も、まだ扉の向こうへ追いやられている。


乳母役の女はリリアを揺籠へ寝かせると、毛布の端を整えた。若い侍女が灯りの向きを変え、暖炉の火を見に行く。控えの間の外では、ときおり足音が通った。


そのたび、リリアは耳を澄ませる。


父の足音かどうかまでは、まだわからない。けれど、このあたりを通る人間の気配には、もう少しずつ違いが見えはじめていた。侍女はやわらかい。騎士は重い。文官は急ぐ。父のまわりを行き来する者たちの足取りには、皆どこか張りがある。


そして、その向こうに、もっと静かな気配がある。


廊下を曲がった先の扉。

執務室。


そこに父がいると、控えの間の空気まで変わる。


まだ顔を見るのは怖い。灰銀の目が自分へ向くだけで、温室の冷たい石が肌の内側へ蘇る。だから、父そのものを求めたいわけではない。


それでも、扉の向こうに父がいる夜は違う。


書類をめくるかすかな音。

低く短い声。

誰かが出入りして扉を開けるたび、一瞬だけ濃くなる気配。


それらが控えの間まで届いているあいだ、甘いものは近づきにくい。


その夜も、最初のうちは穏やかだった。


乳母役の女は針仕事をし、若い侍女は暖炉の火を見ながら小さくあくびを噛み殺す。外では誰かが足早に通り過ぎ、執務室の向こうからはときおり父の低い声がした。


それだけで、リリアの胸の奥は少しずつほどける。


まぶたが重くなる。


眠れるかもしれない、と、そう思う夜があることがまだ不思議だった。


けれど、長くは続かなかった。


ある時から、扉の向こうが急に静かになった。


紙の音が止む。

人の出入りもなくなる。

低い声も聞こえない。


ただの静寂だった。


それなのに、その静けさはすぐに別のものを呼び寄せた。


甘い匂い。


ごく薄く、けれど確かに、部屋の隅から滲むように戻ってくる。春の花みたいな顔をしているくせに、少しも明るくない。鼻先を撫でるだけならやわらかいのに、吸い込むと喉の奥へぬめるように残る。


リリアは小さく息を詰めた。


いない。


父が、いまは扉の向こうにいない。


その事実が先にわかる。

すると、喉のあたりがひりついた。


短い声が漏れる。


乳母役の女がすぐに顔を上げる。


「まだお目を覚まされて」


言い終える前に、リリアの泣き声が重なった。


抱き上げられる。

背を撫でられる。

低い声であやされる。


けれど、違う。


ここで必要なのは、抱く手でも、やさしい声でもない。扉の向こうにいるはずの気配そのものだった。


リリアは泣いた。


強くはない。けれど止まらない。胸の底に溜まっていく冷たいものを、赤子の喉が小さな声に変えてしまう。


若い侍女が困ったように乳母役の女を見る。


「先ほどまで静かでございましたのに」

「旦那様が席を外されたのでしょうか」


その言葉を最後まで聞かなくても、わかった。


旦那様がいなくなると、お嬢様が泣く。


そんなはずはない。

怖い。顔を見るだけで体が強張る。あの剣の冷たさを、まだ忘れていない。


それでも、いないと夜が近い。


そのねじれは、誰より自分を苦しめた。


扉の向こうで足音がした。


一人ではない。複数の気配が近づき、そこで止まる。控えの間の前ではなく、もっと奥、執務室の前あたりだろうか。低い声が交わされる。


すぐには父の声が聞こえない。


リリアの泣き声が少し強くなる。


甘い匂いも、ゆっくり濃くなっていく。まだ囁きまではいかない。それでも、眠りの縁へ何かが立ち始めているのがわかる。目を閉じたくない。閉じたら、その向こうへ連れていかれそうだった。


「どうなさいました」


乳母役の女が困りきった声であやす。

侍女が毛布を直す。


けれど、扉の向こうから不意に低い声が落ちた瞬間、リリアの泣き声は一段浅くなった。


短い命令だった。

たぶん、誰かに書類を持って来させたのだろう。

それだけなのに、十分だった。


戻った。


扉の向こうへ、父が戻った。


胸の上から見えない手が少しだけ離れる。

甘い匂いが薄くなる。

呼吸が楽になる。


乳母役の女が、抱いたまま動きを止めた。

若い侍女も、はっとした顔で扉のほうを見る。


今度は誰も何も言わなかった。


言えば、認めることになるからだ。

この赤子が、あの黒狼公の気配でしか落ち着かないことを。


リリアは涙に濡れた目のまま、扉のある方向へ顔を向けた。


見えるのは壁だけだ。

それでも、向こう側に父がいるとわかっているだけで、夜の底は少し遠くなる。


紙をめくる音がする。

また低い声がする。

誰かが返事をして、足音が離れていく。


眠れるのは、主塔前だからではない。


扉の向こうに父がいるからだ。


そのことを、リリアはまだ言葉にできないまま、少しずつ身体で覚えていった。


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