1、泣き声の夜
揺籠は、思っていたよりずっと狭かった。
身体をよじろうとしても、手足は思うように動かない。指は短く、力もない。声を出そうとすれば、喉の奥から勝手に細い泣き声が漏れてしまう。
終わったはずだった。
黒玻璃温室の冷たい石も、父の剣も、血のぬるさも、たしかに覚えている。なのに今、頬に触れているのは柔らかな布で、身体の下には浅い揺れがある。
夢ではないのだと理解するまで、長くはかからなかった。
鼻先に残る匂いが、あまりにも現実だったからだ。
濃い血の匂い。
薬草を煎じた苦い匂い。
濡れた布の匂い。
押し殺した泣き声の気配。
産室だった。
リリアは目を開けた。視界はまだ滲んでいて、灯りも人影も輪郭が曖昧だ。それでもわかるものはある。天蓋の縁。揺籠の飾り布。動き回る女たちの影。遠くないところで、誰かが低い声で何かを言っている。
言葉までは聞き取れない。
けれど、空気の重さだけはわかった。
この部屋には、もう戻らない人がいる。
それが、赤子の身体でもわかってしまうのが嫌だった。
喉の奥がひくりと震え、また小さな泣き声が漏れる。泣きたかったわけではない。泣けば困らせるだけだと、一度目の八年で嫌というほど知っていた。けれど今は、泣きやもうとしても泣きやめなかった。
揺籠の外に、黒い影が差した。
身体が強張る。
見なくてもわかる。
見たくなくても、わかってしまう。
黒い軍装の裾。
夜より冷たく見える色。
高いところから落ちてくる、灰銀の視線。
父だった。
八年後より輪郭は若い。けれど近寄りがたい静けさは、あの夜に剣を向けてきた人と同じだった。揺籠を見下ろす目も、少しも近くない。
息が詰まる。
逃げたい、と反射のように思う。
けれど逃げる身体がない。
父は長く留まらなかった。揺籠を見、何かを確かめるようにひと息置き、それから誰かに短く言葉を落とす。低く、無駄のない声だった。意味はわからない。ただ、その声に部屋の空気が従うのがわかる。
すぐに、影が遠ざかった。
黒い裾が視界から消えたあとも、リリアの胸はしばらく速く上下していた。泣き声はおさまらない。止めたいのに、止まらない。自分の喉なのに、自分のものではないみたいだった。
誰かが揺籠をのぞき込む。
女の手が、布の上から小さな身体を撫でる。
あやすような声が降ってくる。
けれど、そのどれもが耳の上を滑るだけだった。
昼のあいだは、まだよかった。
明るさがある。人の出入りがある。誰かの気配が絶えない。眠って、起きて、乳を飲まされて、また眠る。その繰り返しの中にいれば、胸の奥を塞ぐものも少しだけ薄くなる。
それでも楽ではない。
何もできないことが、死ぬより怖かった。
一度目のリリアには足があった。走れなくても歩けたし、扉に手を伸ばすこともできた。間違った先へ進んだとしても、それでも選んだのは自分だった。
今は違う。
泣くことしかできない。
嫌だと伝える術もない。
怖いと訴えても、ただの夜泣きにしかならない。
日が落ちる。
窓の外の白さが消え、火の色だけが濃くなる。
その途端だった。
甘い匂いがした。
最初は、ごくかすかだった。暖炉や薬草の匂いに紛れるほどの薄さ。けれど気づいてしまえば、もう間違えない。あの夜の匂いだ。花のようでいて、どこにも明るさがない。鼻先を撫でるだけならやわらかいのに、吸い込むと喉の奥へぬるく貼りつく。
来る。
そう思った途端、胸の奥が狭くなる。
まだ声にはならない。
やさしい囁きも、はっきりとは聞こえない。
けれど、眠りの縁に何かが立っているのがわかった。目を閉じれば、その向こうへ落ちてしまいそうな感覚だけが先に来る。
揺籠の布が重い。
空気がぬるい。
息がうまく入らない。
リリアは泣いた。
違う、これじゃない、眠りたくない。そう叫んでいるつもりなのに、外へ出るのはただの赤子の泣き声だけだ。
侍女が抱き上げる。
背を叩く。
乳母役らしい女が代わる。
布を替え、揺すり、低い声であやす。
何をされても駄目だった。
匂いは少しずつ濃くなる。
視界の端で影が揺れる。
誰かが揺籠のすぐ横に立った気がしても、そこには何もいない。
また始まる。
息が乱れ、泣き声がひきつる。小さな胸が痛いほど上下しても、空気がうまく入らない。
その時、部屋の外で足音が止まった。
ざわついていた空気が、一瞬だけ張る。
扉が開く音は静かだった。
それなのに、別のものが一緒に入ってきたのがわかった。
冷たい、と最初に思った。
夜気ではない。
鉄のような、研ぎ澄まされたもの。
その気配が差し込んだ瞬間、甘い匂いがふっと後ずさる。
リリアの泣き声が、ひと息だけ途切れた。
誰かが息をのむ。
侍女が身を引く。
見上げなくてもわかる。
父だ。
黒い影が近づき、揺籠のそばで止まる。
灰銀の視線が落ちてくる気配を感じた瞬間、背筋がまた強張った。怖い。あの剣を思い出す。温室の冷たい石が、血の匂いが、喉の奥へ蘇る。
なのに。
さっきまで胸を締めつけていた圧迫が、ほんの少しだけ薄れる。
甘い匂いも遠くなる。
耳の奥でざわついていた気配が、戸口の向こうへ退くみたいに静まる。
リリアは泣きながら、それに気づいた。
父が近いと、あれが来にくい。
意味にならない呼吸の合間に、その事実だけがはっきり胸へ落ちる。
怖いままだった。
父の顔を見れば、身体はこわばる。
近づいてほしくない気持ちも、たしかにある。
けれど、父がここにいるあいだだけ、夜の底が少し遠い。
泣き声が弱くなる。
泣きやんだというより、泣く理由のいちばん深いところだけが、手の届かない場所へ引いていくのだ。残るのは疲れと、息苦しさの名残と、どうしようもない恐怖だけだった。
父は何も言わない。
伸びてくる手もない。
ただ、そこに立っているだけなのに、部屋の空気は変わっていた。
甘い匂いは、もうほとんどしない。
まぶたが重くなる。
泣き疲れたからではない。
ついさっきまで眠りの底で待っていたものが、いまは遠いからだと、リリアにはわかった。
怖いまま、目を閉じる。
父の気配は近い。
冷たいのに、夜の向こう側よりはましだった。
この人が近い夜だけ、少しだけ息ができる。
知ってしまったのは、それだった。




