4、黒い花の夜
温室へ踏み込んだ父の気配は、冬の刃そのものだった。
たった一人入ってきただけで、ぬるく澱んでいた空気が変わる。甘ったるい花の匂いが押し返され、黒い花弁がかすかに震えた。足元に絡んでいた根も、逃げるように緩み、けれど逃げきれずに石の継ぎ目へ張りつく。
父の後ろでは騎士たちが短く動き、入口を押さえる。だがリリアの目には、その先頭に立つ黒い姿しか映らなかった。
黒髪。灰銀の瞳。夜の底に立っていても、少しも輪郭を失わないひと。
来てくれた。
その思いが、何より先に胸を貫いた。
怖いとか、叱られるとか、そういうものはそのあとだった。ここへ来たことを責められてもいい。温室に入ったことを咎められてもいい。この人が手を伸ばしてくれるなら、それでよかった。
リリアは震える喉をひらいた。
「お……」
声は、息になって散った。
父はまだ、こちらを見ていなかった。
見てはいるのだと、次の瞬間にわかる。けれど見ているのはリリアではない。父の視線は、頬に絡む黒い蔓を追い、足元の根を測り、中央の大きな花の開き具合を見ていた。温室に満ちた異変を、ひとつ残らず見極めようとする目だった。
その冷たさに、胸の奥が静かに沈む。
父は一歩進んだ。軍靴が石を鳴らす。そのたび、花がざわめき、葉が身をよじる。父の気配を嫌がっているのがわかった。
低い声が落ちる。
「下がれ」
短い命令だった。騎士たちへ向けたものか、温室の異形へ向けたものか、リリアにはわからない。
ただ、その言葉は自分を守るための声には聞こえなかった。
リリアは息を吸い直す。
「おとうさま」
今度は、ちゃんと音になった。
かすれて小さかったけれど、自分の耳にははっきり届いた。
父の目が動く。
灰銀の視線が、まっすぐこちらへ来た。
その一瞬、見てもらえたと思った。
けれどすぐに、それが違うとわかってしまう。
父はリリアの顔を見ていない。瞳の奥に差した暗い色を見ている。肩に絡む蔓を、足元から立ちのぼる根を、温室の中心にいるものとしての自分を見ている。
喉が詰まった。
違うと言わなければならないのに、言葉がうまく出てこない。
「わたし……」
胸が苦しい。花の匂いのせいだけではなかった。ようやく父がこちらを向いたのに、その目は少しも近くない。
父の手が剣にかかる。
その仕草を見た瞬間、温室じゅうが息を呑んだように静まった。黒い花弁がぴたりと揺れを止め、根が石の上を擦って身を引く。
父は剣を抜く人だと、リリアは知っていた。
災厄を断つ人。呪いを斬る人。王国でいちばん強い討魔の人。
西棟で暮らしていても、そのくらいは聞こえてくる。父が帰ってくる日には、城の空気ごと張りつめる。血の匂いをまとったまま主塔へ上がっていく黒い背を、遠くから見かけたこともある。
その剣が、いま、自分の前で抜かれる。
鞘を離れる音は、思っていたより静かだった。よく研がれすぎていて、ほとんど音にならない。だからこそ怖かった。
リリアは一歩、後ろへ下がろうとした。だが踵に根が絡み、うまく動けない。中央の大きな花から漂う匂いは、ますます濃くなる。まるで温室そのものが、父とリリアのあいだをつなぎ止めようとしているみたいだった。
「おとうさま」
もう一度呼ぶ。
今度ははっきり、泣きそうな声になった。
父の表情は変わらない。怒っているわけではない。ただ、動かない。石でできているみたいに整っていて、そこへ何を投げても届かない気がする。
それでも、ほんのわずかに、父の眉が寄ったように見えた。
その一拍に、リリアは縋ってしまった。
もしかしたら、と。
いまからでも気づいてくれるかもしれない。剣を下ろしてくれるかもしれない。ここにいるのが、斬るべきものじゃないと、わかってくれるかもしれない。
希望と呼ぶには小さすぎる揺らぎだった。
けれど、八歳の胸にはそれで十分だった。
「わたし、ちが……」
最後まで言えなかった。
父が踏み込む。
黒い花が一斉にひらく音がした気がした。耳ではなく、頭の奥で。花弁のざわめきと、足元の根のうねりと、温室全体の甘い匂いが渦を巻き、リリアの身体へ絡みついてくる。
父の剣先が、まっすぐこちらを向いた。
その向こうの灰銀の目は、少しも逸れない。
見てほしかった。
ずっと、見てほしかっただけなのに。
夜に一度でも扉を開けてくれたらよかった。熱を出した時に額へ手を当ててくれたらよかった。回廊ですれ違ったあの日、名前を呼んでくれたらよかった。
そんなものが、急に胸へ押し寄せる。
それは願いというより、もう遅すぎる痛みだった。
父の視線の中に、自分はいない。
いるのは、黒い花に絡まれた何かだ。討つべきもの。断たなければならないもの。そういうものとしてしか、いまの自分は見えていない。
ああ、とリリアは思った。
やっぱり、そうなんだ。
嫌われているのかどうか、ずっとわからなかった。見てもらえないのは、近づきたくないからなのか、興味がないからなのか、それとも本当にいらないからなのか、答えはどこにもなかった。
でも、いまだけは、答えがある気がした。
父は最後まで、自分を娘として見てはくれない。
胸の奥が、すうっと冷える。
泣きたくなるような冷たさではない。とうとう答えが出てしまった時の、静かな寒さだった。
「いや……」
出た声は小さかった。
助けてとは言えなかった。言ったところで、もう間に合わないと思ってしまったからだ。
剣が振られる。
その瞬間だけ、父の動きはひどく綺麗に見えた。無駄がなく、迷いもなく、だからこそ残酷だった。温室の空気が裂け、黒い花弁が散り、蔓が悲鳴みたいにしなる。
痛みは、少し遅れてやってきた。
何が起きたのか理解するより先に、身体のどこかが熱くなる。次の瞬間、その熱は真逆の冷たさへ変わった。膝から力が抜ける。視界が傾く。石の床が近い。
黒い花の匂いが、急に遠くなる。
倒れかけた身体を、根が支えようとしたのか、引き寄せようとしたのか、それさえわからない。耳の奥で何かが騒いでいる。騎士たちの声か、花のざわめきか、自分の血の音かもわからなかった。
ただ、父の顔だけは見えた。
初めて、その表情が崩れる。
ほんのわずかだった。けれど確かに、灰銀の目が揺れた。整いきった無表情に、何かひびのようなものが走る。まるで、斬ったあとでようやく目の前のものを見た人の顔だった。
父の唇が動く。
何かを言った。
自分の名を呼ばれた気がした。
聞き間違いかもしれない。そうあってほしいという願いが、死にかけた頭に見せた幻かもしれない。それでも、その時だけ父は、初めて自分を見たように見えた。
でも、もう遅い。
どうして今なの、と責める力も残っていない。
よかった、と思うには苦しすぎたし、嬉しいと思うには遅すぎた。
石の床が頬に触れる。
冷たい。
父の靴音が近づく。騎士たちの動揺した気配もある。誰かが何かを叫んでいた。けれど言葉の形はほどけ、意味にならない。温室の黒い花は、ひとつ、またひとつとしおれていくように見えた。散った花弁が、雪ではないのに雪みたいに降る。
やっぱり私は、いらない子だった。
その思いだけが、胸の底へ静かに沈んだ。
泣きたかったのかもしれない。もう泣けないだけで。
視界の端で、父の手がのびる。
抱き上げようとしたのか、確かめようとしたのか、それもわからない。大きな手だった。ずっと触れてほしかった手だと、こんな時に思う。
その指先が届く前に、世界が暗くなる。
黒ではなかった。
もっと深い、何もない暗さだった。
終わった、とリリアは思った。
もう寒い夜は来ない。誰も来ない扉を見なくていい。冬至祭の明るさの外に立たなくていい。父の背中を遠くから探さなくていい。
そう思ったのに。
次に頬へ触れたのは、石の冷たさではなく、やわらかな布だった。
ゆれる。
身体が、ひどく小さい。
息を吸おうとして、うまくいかない。胸が弱く上下し、空気の出入りが浅くて頼りない。手を動かそうとすると、指は信じられないほど短く、力が入らない。何かを叫ぼうとしたのに、出てきたのは意味にならない泣き声だけだった。
「――っ」
ひどく高い声が、自分の口から零れる。
リリアは目を見開いた。
視界がぼやけている。輪郭が溶け、光がにじむ。けれどわかるものがある。頭の上を覆う天蓋。揺籠の縁。布の匂い。血と薬草の混じった重い空気。遠くない場所で、誰かが押し殺した声で何かを話している。
知らないはずなのに、知っていた。
この匂いも、この揺れも、この夜も。
生まれたばかりの夜だ。
理解した途端、全身が凍る。
違う。そんなはずがない。さっきまで自分は八歳で、温室にいて、父に――
泣き声がまた勝手に零れた。赤子の喉は、思うように閉じてくれない。恐怖も混乱も、全部みっともない声になって漏れていく。
揺籠の外に、影が差した。
黒い軍装の裾が見える。
視界のにじみの向こうで、若い父が立っていた。
八年後の父よりも顔立ちはわずかに若い。けれどその灰銀の目に宿る張りつめた色は、すでに知っているものだった。父は揺籠の中を見下ろしている。その視線の先に、自分がいる。
産室のどこかで、女の人が泣いている。誰かが低く名を呼ぶ。布が濡れて落ちる音がする。血の匂いが濃い。
その夜だ。
すべてが始まった夜。
どうして父があんな目で自分を見るのか、リリアは知らない。
どうしてこの城の空気が、最初から自分を遠ざけていたのかも知らない。
けれど、この夜に何かが壊れたのだとだけはわかった。
終わっていない。
終わったはずなのに、終わっていない。
リリアは息を吸い、また泣いた。泣くことしかできなかった。言葉はない。手足も思うように動かない。ただ小さな身体の奥で、さっきまでの死の痛みだけが、まだ確かに残っている。
父に剣を抜かせたくない。
そんな願いだけが、泣き声の裏でひどく鮮やかに燃えた。
揺籠がわずかに揺れる。
若い父の影が、夜の上から静かに落ちてくる。
リリアは涙に滲んだ視界のまま、その人を見上げた。




