2、ほどける言葉
伯母が来たあとの部屋には、いつも少しだけ違う静けさが残った。
父が去ったあとの静けさは、何かがきちんと決められたあとのものだ。
扉の開き方、灯りの位置、誰が残るか。そういうものが一つずつ定まって、空気の形まで揃っていく。
伯母が帰ったあとの静けさは、それとは違う。
ほどけた糸の端が、まだどこかに垂れているような静けさだった。
リリアは窓辺の椅子に座ったまま、膝の上で指を組んだりほどいたりしていた。髪にはまだ細いリボンが残っている。鏡は伏せられたまま卓の上だ。
エルナがその視線に気づいたのか、小さく問う。
「鏡をお下げいたしましょうか」
リリアは少しだけ考え、首を振った。
見たくはない。
でも、なくしてしまうのも違う気がした。
オルタンシアに「見なくていい」と言われたことが、まだ耳の近くにある。
あれはやさしい言葉だった。
やさしいはずなのに、胸の奥のどこかでは、そのやさしさがまだ落ち着かない。
「そのままで」
答えると、エルナは頷いた。
「では、このままで」
それ以上は何も言わない。
エルナはこういうとき、理由を問わない。
問われないことに救われるときもある。
でも、今日は少しだけ違った。
理由を言葉にしてもらえたら、楽になるのかもしれない。
そんなふうに思ってしまうあたりが、もう伯母の言葉に触れたあとだった。
午後が深くなるころ、オルタンシアはまた来た。
毎日ではないはずなのに、今日は来ると、どこかでわかっていた気がする。侍女が名を告げるより先に、乾いた花の匂いが少しだけ濃くなる。
「ごきげんよう、リリア」
「……ごきげんよう」
返事は、前よりもう少し滑らかに出た。
オルタンシアはいつものように微笑み、窓辺の椅子から少し離れた位置へ腰を下ろす。近すぎない。遠すぎもしない。その距離の取り方が、この人はうまい。
「今日のお顔は、昨日よりずっとやわらかいわ」
そんなことを言われると、急に顔を伏せたくなる。
「そうかしら?」
「ええ。ちゃんと息をしている顔」
リリアは言葉に詰まった。
ちゃんと息をしている。
そんなふうに言われると、自分がいつもはどう見えているのか、考えたくない。
オルタンシアはそこを追わなかった。卓の上の手鏡に気づくと、伏せられたままのそれへ視線を置いて、小さく笑う。
「今日は見なくて済んだのね」
「……うん」
「それでいいのよ」
それでいい。
その言葉は、考えるより先に胸へ入ってくる。
父は「それでいい」とは言わない。
エルナも、そこまできっぱりとは言わない。
どちらも違うやり方で守ってくれるけれど、許してはくれないことがある。
伯母の言葉は、最初から許す。
苦手なことも、できないことも、そのままでいいと言う。
だから、少しだけ危ういのだと、どこかで思う。
でも、その危うさに気づくのは、いつも受け取ったあとだ。
「今日は何をしていたの?」
そう聞かれて、リリアは膝の上の本を見た。
「……あまり、なにも」
「そう。なら、よく休めたのね」
「やすんで、ない」
「でも、無理に何かをしていないなら、それも休みよ」
その言い方は、ずるい。
がんばっていないことを責めない。
何もしない時間に名前をつけてしまう。
そうされると、何もできなかったことまで、少しだけ悪くないものに見えてくる。
オルタンシアはリリアの指先へ目をやった。
「今日も握っているわね」
リリアははっとして手を見る。
膝の上で、指がまたきつく絡んでいた。
「ほどいてごらんなさい」
やわらかく言われて、言われた通りにしてしまう。
「そう。上手」
褒められるほどのことではない。
でも、その一言で肩の力がひとつ落ちる。
「頑張らなくていいのよ、リリア」
伯母がそう言ったとき、暖炉の火が小さく鳴った。
部屋の中にはエルナもいる。扉の外には侍女の気配もある。昼の光もまだ残っている。何も怖いものはないはずなのに、その言葉だけが夜みたいに静かに聞こえた。
「頑張るって、どういうことかわかる?」
「……わからない」
「そうね。難しいわね」
オルタンシアは笑うでもなく続ける。
「怖いのに平気な顔をすること。泣きたいのに泣かないこと。苦しいのに、まだ大丈夫だと思いこもうとすること」
「……」
「そういうのは、頑張っているのよ」
リリアは何も言えなかった。
自分がそうしているのかどうか、わからない。
でも、言われた言葉の一つ一つが胸の中のどこかに触れて、そこだけひどく熱くなる。
「こわいなら、こわいでいいの」
「……」
「泣きたいなら、泣いてもいい。逃げたいなら、逃げてもいいのよ」
その声は、ほんとうにやさしい。
責めない。
正しさを押しつけない。
ただ、こわがっている子どもの前に、毛布をもう一枚そっとかけるみたいな声だった。
だから、余計にまずい。
リリアはそう思ったのに、その理由が言葉にならない。
一度目にも、やさしい声はあった。
夜の深いところ。
みんなが寝静まって、扉の向こうの気配も遠くなったころ。
耳を塞ぎたくなるほど怖いのに、いちばん聞きたかった言葉をくれる声があった。
かわいそうに。
ひとりで耐えなくていい。
だれもわかってくれないなら、こっちへおいで。
思い出したのは言葉そのものではない。
言葉が落ちてくるときの、胸の奥がふっと緩む感覚だった。
「リリア?」
伯母の声で我に返る。
気づけば、息が少し浅くなっていた。
オルタンシアが訝しむでもなく、ただ心配そうにこちらを見る。
「つらかった?」
「……わからない」
「そう」
その答えにも、彼女は頷くだけだった。
「わからないときは、無理にわからなくていいの」
「……」
「つらいものを、すぐ言葉にしなくてもいいわ」
そのたびに、胸の中の何かがほどけていく。
ほどけて、どこへ流れていくのかがわからないのに、止められない。
エルナが茶器を持って近づいてくる。
「少しお茶を」
その声で、部屋の空気が少しだけ現実へ戻った。
オルタンシアは受け取った杯を卓へ置きながら、何でもないことのように言う。
「この子、ずっと力が入ったままなのね」
エルナが困ったように微笑む。
「まだ、夜をお怖がりですから」
「夜だけかしら」
その言い方に、エルナは答えに詰まった。
伯母は責めていない。
けれど、言葉の向け方が上手すぎて、受ける方が黙るしかなくなる。
「大事にされているのはわかるわ」
オルタンシアは続ける。
「でも、大事にされることと、楽にしてもらうことは同じではないものね」
エルナは目を伏せた。
反論できない。けれど頷ききれもしない。そんな顔だった。
リリアはその二人を見ているうちに、なぜだか胸が苦しくなった。
伯母の言っていることは、間違っていないように聞こえる。
父のそばは安全だ。
でも、楽ではない。
こわくないわけでもない。
それを言葉にしてもらえると、少しだけ救われる。
その救われ方が、どこか夜に似ている。
「お父様の近くじゃなくても、大丈夫になれたらいいのにと思う?」
不意にそう問われて、リリアは顔を上げた。
オルタンシアの目は静かだった。
問い詰める目ではない。
ただ、答えを出せないことまで最初から知っているみたいな目だ。
「……わからない」
「そうね」
伯母はすぐに引き下がる。
「でも、そう思ってしまうこと自体は悪くないわ」
「……」
「いつまでも怖いもののそばにいなくてはいけないなんて、そんなのつらいもの」
その言葉に、リリアの胸がひどく静かになった。
父は怖い。
それは本当だ。
夜に息ができるのも、父の近くだ。
それも本当だ。
その二つを、これまで誰も一緒には言わなかった。
言葉にした途端、どちらかが嘘になる気がしていたからだ。
けれど伯母は、怖いもののそばにいなくてはいけないのはつらい、と、まるごと言ってしまう。
それでよかったのかもしれない。
よくないのかもしれない。
わからないまま、ただ少しだけ楽だった。
そのとき、扉の外で足音がした。
父ではない。
兵でもない。
侍女が一礼して小さく声をかける。
「旦那様が、まもなくこちらへ」
部屋の中の空気が変わる。
エルナの背が伸び、侍女が茶器を少しだけ端へ寄せる。オルタンシアだけが、相変わらずの表情で杯を持ち上げたまま、リリアの方を見ていた。
「今日はここまでにしましょうか」
その言い方に、なぜだか名残惜しさが胸を刺した。
もっと話していたかったのかもしれない。
そんなふうに思ってしまった自分に、リリアは少し驚く。
オルタンシアは立ち上がりながら、ささやくように言う。
「無理に強くならなくていいのよ」
その声が耳に残ったまま、扉が開いた。
父が入ってくる。
黒い軍装が部屋へ入るだけで、昼の光まで少し硬くなる。
父はまずオルタンシアを見る。次にエルナ、侍女、卓上の茶器。最後にリリア。
その目はいつも通り短くて、でも逃がさない。
「……もう終わりかしら」
オルタンシアが先に言う。
父は頷きもせず、低く返した。
「時間だ」
「相変わらずきっちりしているのね」
「必要なことだ」
オルタンシアはくすりと笑う。
「この子、少し楽になったわよ」
「そうか」
「言葉にしてもらえると、人は楽になるものなの」
それに父はすぐには答えない。
答えないまま、リリアの指先を見た。
さっきまできつく握っていた指が、今はほどけている。
その事実をどう受け取ったのか、顔からはわからない。
ただ、次に落ちた声は少しだけ低かった。
「長く話しすぎるな」
「まだ昼よ」
「だからだ」
会話だけ聞けば、やはり伯母の方がやわらかく正しく見える。
父の言葉は短く、余白がなく、拒むように聞こえやすい。
けれどオルタンシアは、まるで最初からそういう男だと知っているみたいに笑った。
「わかったわ。今日は帰る」
それからリリアへ向き直る。
「また来るわね」
リリアは小さく頷いた。
父がそれを見ていたのかどうか、わからない。
ただ、伯母が部屋を出て、乾いた花の匂いだけが残ったあとも、さっきの言葉は耳から離れなかった。
無理に強くならなくていい。
その響きは、あまりにもやさしくて、夜の入口みたいだった。




