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一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
鏡の中のやさしい人

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19/35

1、鏡の前の伯母

雪はまだ城の北側に残っていたが、午後の光だけは少しやわらかくなっていた。


主塔寄りの小部屋へ差しこむ明るさも、冬の盛りのように鋭くはない。白いというより、薄く溶けた銀のような色をしている。その光の中で、リリアは窓辺の椅子に座り、膝へ載せた絵本を開いたまま、ほとんど頁をめくっていなかった。


エルナが後ろで小さな引き出しを閉める音がする。


「今日は風も穏やかですね」


そう言って、卓の上の花瓶へ手を伸ばした。挿してあるのは、数日前にオルタンシアが持ってきた細い枝だった。蕾はもう固く閉じてはいない。白い花弁がひとひらふたひらとほどけ、部屋へ薄い匂いを落としている。


甘すぎない香りだった。


伯母が来るようになってから、部屋にはときどきこういう匂いが残る。暖炉の煤や薬湯とは違う、女の手のする匂いだ。


「お伯母様がお見えです」


侍女がそう告げたとき、リリアは顔を上げた。


前より早く反応した自分に、少しだけ遅れて気づく。


エルナはその変化に触れなかった。ただ「どうぞ」と侍女へ合図を返し、リリアの肩へかかる髪を指で軽く整える。


オルタンシアは、いつものように扉のところで一度立ち止まった。


今日の外套は淡い灰青で、雪の気配をそのまま身にまとってきたみたいだった。けれど襟元からのぞく布はやわらかな春の色をしている。冬の城へ、少しだけ別の季節を持ちこんでくる人だと、リリアはいつのまにか思うようになっていた。


「ごきげんよう、リリア」


「……ごきげんよう」


返事をすると、オルタンシアは微笑んだ。褒めもしないし、大げさにも喜ばない。ただ、その返事をちゃんと受け取る顔をする。


それから手にしていた細長い箱を侍女から受け取り、卓の上へ置いた。


「今日は少し、きれいにしましょうか」


その言い方が自然で、リリアは問い返すより先に箱を見た。


オルタンシアが蓋を開く。中には細い銀の櫛と、淡い色のリボンがひと筋入っていた。華やかではない。けれど、父や医師や兵のそばには決してないものだった。


「これはお母様の?」

思わず訊くと、オルタンシアは首を傾げた。


「いいえ。あなたのために持ってきたの」

少し置いてから、

「でも、こういう色はセレナもよく似合っていたわ」


母の名が出るたび、胸の内側がわずかにひらく。

知らない人の話なのに、知らないままではなくなる気がするからだろうか。


オルタンシアはそこで、すぐには櫛を取らなかった。先にリリアの目を見て、やわらかく問う。


「髪を整えてもいいかしら」


許可を取られるのは、まだ少し落ち着かない。


父は訊かない。エルナもあまり訊かない。必要なことなら、そのまま手を伸ばす。けれどオルタンシアは、最初からそういうふうには触れてこない。


リリアは少しだけ迷い、やがて頷いた。


「ありがとう」


その一言のあと、オルタンシアは椅子の後ろへ回る。

櫛が髪へ入る最初のひと筋が、驚くほど軽かった。


引っかからないように毛先から少しずつ。

絡んだところではすぐに止まり、指先でほどいてから、また梳く。

急がない。引かない。痛くない。


エルナの手は生活の手だ。眠そうな朝に、遅れないよう結ってくれる手。

伯母の手はそれとは違う。髪そのものを、きれいなものとして扱う手だった。


「もう少し伸びると、結える形が増えるわね」


鏡のない壁へ向かって、オルタンシアが言う。


その言葉に、リリアの指先が膝の上でわずかに絡んだ。


鏡。


この部屋にはないものだった。父が外させてから、ずっと。

その不在に慣れてきていたから、名前を聞いただけで首筋が冷える。


オルタンシアは、卓の上の箱から小さな手鏡を取り出した。


驚くほど自然な手つきだった。

まるで、髪を整えるなら鏡があるのが当たり前だとでも言うように。


リリアの呼吸が少し浅くなる。


鏡そのものは小さい。壁の大きな鏡台とは違う。手のひらより少し大きいくらいだ。けれど、その銀の縁を見ただけで、胸の奥に嫌な感じが広がった。


夜の暗がり。

映りこんだ影。

見たくないのに、目に入ってしまうもの。


「……いらない」


声は思ったより小さかった。


オルタンシアはそこで無理をしなかった。鏡をすぐに伏せ、背後から覗きこむようなこともせず、ただ穏やかに言う。


「そう。なら見なくていいわ」


それだけだった。


見なさい、とも。

少しだけなら、とも言わない。


「こわいものを、無理に見なくてもいいのよ」

櫛を持つ手は止めないまま、静かな声が続く。

「今日は見なくても、ちゃんときれいだから」


その言葉が胸へ落ちた瞬間、少しだけ息がしやすくなった。


一度目にも鏡はあった。

夜になると、暗い部屋がそのまま映った。

見ないようにしても、視界の端へ入るだけで胸がざわついた。


だから、見なくていいと言われるだけで、こんなに楽になるのかと、自分で驚く。


オルタンシアは、リリアが鏡を拒んだことを気にしている様子もなく、最後の毛先まで丁寧に梳き終えた。


それから、淡い色の細いリボンを一本、やわらかく結ぶ。


「できたわ」


鏡は卓の上で伏せられたままだ。


見えないのに、髪が前より少しだけ整っているのがわかる。

伯母の指が最後に耳の後ろの髪を払ったとき、オルタンシアはふっと息をついた。


「……本当に似てきたわ」


リリアは目を上げる。


「お母様に?」

「ええ」


返ってきた声には、作った響きがなかった。


「目元も少し。考えこんで黙ってしまうところも」

それから、ほんの少しだけ笑って、

「でも、頑固なところはあなたの方が強いかもしれないわね」


うれしいのか、困るのか、自分でもわからない。

母に似ていると言われれば喜ぶべきなのかもしれない。けれど、その「母」はまだ、自分の中で輪郭の薄い人のままだ。


ただ、その名を伯母が口にするときだけ、母は絵の中の遠い人ではなくなる。


そのとき、扉の外で足音が止まった。


重く、短い、聞き覚えのある足音。


部屋の空気がすっと変わる。


エルナが背を正し、侍女が一歩退く。リリアの肩も、考えるより先にこわばった。


父が入ってくる。


黒い軍装は今日も乱れなく、灰銀の目だけが部屋の中を一度で量る。

暖炉。

窓。

卓の上の箱。

オルタンシア。

そして、椅子に座るリリア。


その視線が、伏せられた手鏡の銀の縁と、整えられた髪に触れた瞬間、ほんのわずかに止まった。


長くはない。

けれど確かに、一拍。


リリアは息を詰める。


父の目はすぐに鏡から逸れた。髪の先をかすめ、肩口へ流れ、最後にまた短くリリアへ戻る。

見ようとして、うまく留められないみたいに。


オルタンシアはそれを見ていたのだろう。やわらかく微笑んだ。


「少し髪を整えていただけよ」

父は答えない。


沈黙のまま、もう一度部屋を見た。

それから低く言う。


「長くは置くな」


言葉に棘はない。けれどやわらかくもない。

オルタンシアは肩をすくめるように笑った。


「そんなに警戒なさらなくても大丈夫よ」

「時間を決めろ」

「……相変わらずね」


そのやり取りだけ聞けば、父の方がひどく感じが悪い。

けれどオルタンシアは腹を立てているようには見えなかった。最初からそういう男だと知っていて、その不器用さまで含めて笑っているような距離だった。


父はそれ以上は言わない。

ただ、リリアを一度だけ見た。

その視線は短く、まっすぐ届く前にどこかで止まる。

それでも、さっき鏡の前で息を詰めたときとは違って、今は少しだけましに呼吸ができた。


オルタンシアは椅子の背へ手を置いたまま、リリアへ向き直る。


「また来てもいいかしら」


いつもの問いだ。


リリアはすぐには答えなかった。

髪を梳かれた感触も、「見なくていい」と言われたことも、まだ胸のどこかに残っている。


少し迷ってから、小さく頷く。


「ありがとう」


伯母はそう言って、今度も無理に触れたりはしなかった。

手鏡を箱へ戻し、侍女に外套を受け取らせ、来たときと同じ静けさで部屋を出ていく。


乾いた花の匂いだけが、あとに残る。


扉が閉じると、父はまだそこに立っていた。


何か言うのかと思ったが、すぐには言わない。

ただ、整えられた髪を一度だけ見て、それから卓の上の箱へ視線を落とす。伏せられた鏡には、もう触れない。


「冷える前に戻れ」


短い声だった。


気遣いのはずなのに、やさしく聞こえにくい。

伯母ならもっと別の言い方をするのだろう。きっと「寒くなる前に温かいところへ行きましょうね」とでも言う。


けれど父の方は、そういう言葉を持っていない。


リリアは椅子から降りる。

立ち上がるとき、結ばれたリボンが肩へかすかに触れた。


父はそれを見て、ほんの一瞬だけ何か言いかけたように見えた。

けれど結局、何も言わない。


そのまま踵を返し、先に部屋を出ていく。

重い足音が廊下を遠ざかる。


リリアはしばらく動かなかった。


鏡は怖い。

母に似ていると言われるのも、まだうまく受け止められない。

それでも、「見なくていい」と言われたとき、少しだけ楽になったのは本当だった。


怖さを責めない人がいる。

それだけで、部屋の空気が少し違って見える。


でも同時に、父が鏡越しにこちらを見たあの短い沈黙も、胸のどこかへ残っていた。


エルナがそっと近づき、肩へ薄い羽織りをかける。


「よくお似合いです」


そう言われて、リリアは伏せられたままの手鏡を見た。


見なくていい。

その言葉が、まだ耳の近くにある。


だから結局、その日は最後まで鏡を表に返さなかった。

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