1、鏡の前の伯母
雪はまだ城の北側に残っていたが、午後の光だけは少しやわらかくなっていた。
主塔寄りの小部屋へ差しこむ明るさも、冬の盛りのように鋭くはない。白いというより、薄く溶けた銀のような色をしている。その光の中で、リリアは窓辺の椅子に座り、膝へ載せた絵本を開いたまま、ほとんど頁をめくっていなかった。
エルナが後ろで小さな引き出しを閉める音がする。
「今日は風も穏やかですね」
そう言って、卓の上の花瓶へ手を伸ばした。挿してあるのは、数日前にオルタンシアが持ってきた細い枝だった。蕾はもう固く閉じてはいない。白い花弁がひとひらふたひらとほどけ、部屋へ薄い匂いを落としている。
甘すぎない香りだった。
伯母が来るようになってから、部屋にはときどきこういう匂いが残る。暖炉の煤や薬湯とは違う、女の手のする匂いだ。
「お伯母様がお見えです」
侍女がそう告げたとき、リリアは顔を上げた。
前より早く反応した自分に、少しだけ遅れて気づく。
エルナはその変化に触れなかった。ただ「どうぞ」と侍女へ合図を返し、リリアの肩へかかる髪を指で軽く整える。
オルタンシアは、いつものように扉のところで一度立ち止まった。
今日の外套は淡い灰青で、雪の気配をそのまま身にまとってきたみたいだった。けれど襟元からのぞく布はやわらかな春の色をしている。冬の城へ、少しだけ別の季節を持ちこんでくる人だと、リリアはいつのまにか思うようになっていた。
「ごきげんよう、リリア」
「……ごきげんよう」
返事をすると、オルタンシアは微笑んだ。褒めもしないし、大げさにも喜ばない。ただ、その返事をちゃんと受け取る顔をする。
それから手にしていた細長い箱を侍女から受け取り、卓の上へ置いた。
「今日は少し、きれいにしましょうか」
その言い方が自然で、リリアは問い返すより先に箱を見た。
オルタンシアが蓋を開く。中には細い銀の櫛と、淡い色のリボンがひと筋入っていた。華やかではない。けれど、父や医師や兵のそばには決してないものだった。
「これはお母様の?」
思わず訊くと、オルタンシアは首を傾げた。
「いいえ。あなたのために持ってきたの」
少し置いてから、
「でも、こういう色はセレナもよく似合っていたわ」
母の名が出るたび、胸の内側がわずかにひらく。
知らない人の話なのに、知らないままではなくなる気がするからだろうか。
オルタンシアはそこで、すぐには櫛を取らなかった。先にリリアの目を見て、やわらかく問う。
「髪を整えてもいいかしら」
許可を取られるのは、まだ少し落ち着かない。
父は訊かない。エルナもあまり訊かない。必要なことなら、そのまま手を伸ばす。けれどオルタンシアは、最初からそういうふうには触れてこない。
リリアは少しだけ迷い、やがて頷いた。
「ありがとう」
その一言のあと、オルタンシアは椅子の後ろへ回る。
櫛が髪へ入る最初のひと筋が、驚くほど軽かった。
引っかからないように毛先から少しずつ。
絡んだところではすぐに止まり、指先でほどいてから、また梳く。
急がない。引かない。痛くない。
エルナの手は生活の手だ。眠そうな朝に、遅れないよう結ってくれる手。
伯母の手はそれとは違う。髪そのものを、きれいなものとして扱う手だった。
「もう少し伸びると、結える形が増えるわね」
鏡のない壁へ向かって、オルタンシアが言う。
その言葉に、リリアの指先が膝の上でわずかに絡んだ。
鏡。
この部屋にはないものだった。父が外させてから、ずっと。
その不在に慣れてきていたから、名前を聞いただけで首筋が冷える。
オルタンシアは、卓の上の箱から小さな手鏡を取り出した。
驚くほど自然な手つきだった。
まるで、髪を整えるなら鏡があるのが当たり前だとでも言うように。
リリアの呼吸が少し浅くなる。
鏡そのものは小さい。壁の大きな鏡台とは違う。手のひらより少し大きいくらいだ。けれど、その銀の縁を見ただけで、胸の奥に嫌な感じが広がった。
夜の暗がり。
映りこんだ影。
見たくないのに、目に入ってしまうもの。
「……いらない」
声は思ったより小さかった。
オルタンシアはそこで無理をしなかった。鏡をすぐに伏せ、背後から覗きこむようなこともせず、ただ穏やかに言う。
「そう。なら見なくていいわ」
それだけだった。
見なさい、とも。
少しだけなら、とも言わない。
「こわいものを、無理に見なくてもいいのよ」
櫛を持つ手は止めないまま、静かな声が続く。
「今日は見なくても、ちゃんときれいだから」
その言葉が胸へ落ちた瞬間、少しだけ息がしやすくなった。
一度目にも鏡はあった。
夜になると、暗い部屋がそのまま映った。
見ないようにしても、視界の端へ入るだけで胸がざわついた。
だから、見なくていいと言われるだけで、こんなに楽になるのかと、自分で驚く。
オルタンシアは、リリアが鏡を拒んだことを気にしている様子もなく、最後の毛先まで丁寧に梳き終えた。
それから、淡い色の細いリボンを一本、やわらかく結ぶ。
「できたわ」
鏡は卓の上で伏せられたままだ。
見えないのに、髪が前より少しだけ整っているのがわかる。
伯母の指が最後に耳の後ろの髪を払ったとき、オルタンシアはふっと息をついた。
「……本当に似てきたわ」
リリアは目を上げる。
「お母様に?」
「ええ」
返ってきた声には、作った響きがなかった。
「目元も少し。考えこんで黙ってしまうところも」
それから、ほんの少しだけ笑って、
「でも、頑固なところはあなたの方が強いかもしれないわね」
うれしいのか、困るのか、自分でもわからない。
母に似ていると言われれば喜ぶべきなのかもしれない。けれど、その「母」はまだ、自分の中で輪郭の薄い人のままだ。
ただ、その名を伯母が口にするときだけ、母は絵の中の遠い人ではなくなる。
そのとき、扉の外で足音が止まった。
重く、短い、聞き覚えのある足音。
部屋の空気がすっと変わる。
エルナが背を正し、侍女が一歩退く。リリアの肩も、考えるより先にこわばった。
父が入ってくる。
黒い軍装は今日も乱れなく、灰銀の目だけが部屋の中を一度で量る。
暖炉。
窓。
卓の上の箱。
オルタンシア。
そして、椅子に座るリリア。
その視線が、伏せられた手鏡の銀の縁と、整えられた髪に触れた瞬間、ほんのわずかに止まった。
長くはない。
けれど確かに、一拍。
リリアは息を詰める。
父の目はすぐに鏡から逸れた。髪の先をかすめ、肩口へ流れ、最後にまた短くリリアへ戻る。
見ようとして、うまく留められないみたいに。
オルタンシアはそれを見ていたのだろう。やわらかく微笑んだ。
「少し髪を整えていただけよ」
父は答えない。
沈黙のまま、もう一度部屋を見た。
それから低く言う。
「長くは置くな」
言葉に棘はない。けれどやわらかくもない。
オルタンシアは肩をすくめるように笑った。
「そんなに警戒なさらなくても大丈夫よ」
「時間を決めろ」
「……相変わらずね」
そのやり取りだけ聞けば、父の方がひどく感じが悪い。
けれどオルタンシアは腹を立てているようには見えなかった。最初からそういう男だと知っていて、その不器用さまで含めて笑っているような距離だった。
父はそれ以上は言わない。
ただ、リリアを一度だけ見た。
その視線は短く、まっすぐ届く前にどこかで止まる。
それでも、さっき鏡の前で息を詰めたときとは違って、今は少しだけましに呼吸ができた。
オルタンシアは椅子の背へ手を置いたまま、リリアへ向き直る。
「また来てもいいかしら」
いつもの問いだ。
リリアはすぐには答えなかった。
髪を梳かれた感触も、「見なくていい」と言われたことも、まだ胸のどこかに残っている。
少し迷ってから、小さく頷く。
「ありがとう」
伯母はそう言って、今度も無理に触れたりはしなかった。
手鏡を箱へ戻し、侍女に外套を受け取らせ、来たときと同じ静けさで部屋を出ていく。
乾いた花の匂いだけが、あとに残る。
扉が閉じると、父はまだそこに立っていた。
何か言うのかと思ったが、すぐには言わない。
ただ、整えられた髪を一度だけ見て、それから卓の上の箱へ視線を落とす。伏せられた鏡には、もう触れない。
「冷える前に戻れ」
短い声だった。
気遣いのはずなのに、やさしく聞こえにくい。
伯母ならもっと別の言い方をするのだろう。きっと「寒くなる前に温かいところへ行きましょうね」とでも言う。
けれど父の方は、そういう言葉を持っていない。
リリアは椅子から降りる。
立ち上がるとき、結ばれたリボンが肩へかすかに触れた。
父はそれを見て、ほんの一瞬だけ何か言いかけたように見えた。
けれど結局、何も言わない。
そのまま踵を返し、先に部屋を出ていく。
重い足音が廊下を遠ざかる。
リリアはしばらく動かなかった。
鏡は怖い。
母に似ていると言われるのも、まだうまく受け止められない。
それでも、「見なくていい」と言われたとき、少しだけ楽になったのは本当だった。
怖さを責めない人がいる。
それだけで、部屋の空気が少し違って見える。
でも同時に、父が鏡越しにこちらを見たあの短い沈黙も、胸のどこかへ残っていた。
エルナがそっと近づき、肩へ薄い羽織りをかける。
「よくお似合いです」
そう言われて、リリアは伏せられたままの手鏡を見た。
見なくていい。
その言葉が、まだ耳の近くにある。
だから結局、その日は最後まで鏡を表に返さなかった。




