3、変えられた朝
朝は、思ったより静かに来た。
窓の外はまだ白い。夜のあいだ降り続いた雪が、庭も石段も均してしまって、世界は何ごともなかったような顔をしていた。
けれど部屋の中には、夜の残りがまだある。
灯りは落とされずに朝まで残されていたせいで、燭台の蝋は短くなっている。扉は開いたまま、廊下の向こうに人の気配がある。暖炉の火も、いつもより強いまま赤く息をしていた。
リリアは毛布の中で目を開けた。
眠っていたのかどうか、よくわからない。
夜の途中から、何度も意識が浮いた。扉のところに立つ黒い影。回廊を行き交う靴音。低く交わされる命令。医師の声。薬の匂い。エルナの震える呼吸。
全部が途切れ途切れで、でも消えてはいない。
まぶたを上げる。
最初に見たのは、寝台の脇の椅子だった。
そこに、エルナがいる。
少しだけうつむいて、眠っているのか、ただ目を閉じているだけなのか、わからない顔だった。頬はまだ夜の名残みたいに白い。けれど肩は上下している。
生きている。
そのことが、胸の奥へ届くまでに、少し時間がかかった。
リリアは毛布の端を握る。
まだだ、と思う。
朝になっても、こういうことはある。起き上がれば消えてしまうものかもしれない。夢だったのだと言われるかもしれない。別の部屋へ移されたのだと聞かされるかもしれない。
そういう朝を、一度目のどこかで知っている。
だから、すぐには呼べなかった。
ただ、見ていた。
じっと見ているうちに、エルナのまつげがかすかに動く。ゆっくり目が開くと、少しだけ焦点の合わない眼差しが、すぐ寝台の上を探した。
リリアと目が合う。
その瞬間、エルナの顔がほどけた。
「……おはようございます」
いつもの声だった。
少しだけ掠れてはいたけれど、まちがいなくいつもの朝の声だ。
それを聞いたとたん、リリアの喉の奥が熱くなった。
返事をしようとして、うまく声が出ない。
エルナはそれを責めない。椅子から立ち上がると、寝台のそばへ来て、いつものように額へ手を当てる。
その手も、いつもの温度だった。
「お熱はなさそうですね」
何でもないことみたいに言う。
何でもないはずがないのに。
昨夜、あんなふうに顔色を失っていたのに。部屋の外ではあんなに人が走っていたのに。父の声はあんなに硬く、夜そのものを切るみたいだったのに。
それなのにエルナは、朝になったらちゃんと、いつもの手で額へ触れる。
その事実に、リリアは耐えきれなくなった。
エルナの袖を掴む。
今度は夜みたいに必死ではなかった。けれど、離したくない気持ちは同じだった。
エルナが少し驚いたように目を丸くする。
「どうなさいました」
やさしい声だった。
その声がある。
その手もある。
問いかける息づかいまで、ちゃんとここにある。
リリアは答えられず、ただ袖を握ったまま首を振った。
エルナはそれ以上訊かなかった。
袖を掴まれたまま、空いた手で髪をひと撫でする。伯母のように梳いて整える手ではない。仕事の途中で、子どもの寝癖を見つけて軽く押さえるような、日常の手だった。
「おりますよ」
小さく言われる。
その一言で、張りつめていたものが胸の奥で音もなく崩れた。
リリアはうつむいた。
泣いてしまいそうだったからだ。
大声で泣く年ではない。泣けば何かが戻るわけでもないことを、もう知っている。だから、唇をきつく結んで、袖を握る指だけに力を込めた。
エルナはそれでも急かさない。
しばらくそのままでいてから、寝台脇の卓を振り返る。
「白湯が冷めてしまいますね」
そこには湯気の立つ杯が置かれていた。いつ、誰が持ってきたのかわからない。たぶん夜明け前にはもう用意されていたのだろう。
「少しだけ召し上がれますか」
その問いにも、何でもない朝の響きがある。
リリアは小さく頷いた。
袖を離すと、指先が少し冷たくなっている。エルナは何も言わず、その手ごと杯を包むようにして持たせてくれた。
白湯は、ちょうど飲みやすい温度だった。
ひと口含む。
それだけで、涙が出そうになる。
一度目の朝を、断片だけ思い出したからだ。
あの朝も、窓の外は白かった。
けれど、エルナはいなかった。
額へ触れる手も、白湯を持たせる声もなかった。
代わりにあったのは、扉の外で交わされる小さな声だった。
乳母が。
夜のうちに。
お嬢様にはまだ――
そこまでしか思い出せない。
はっきりした言葉にはならない。
けれど、いなくなったのだ。
二度と、いつも通りの朝を持ってこなかったのだ。
それだけは、傷みの形で残っている。
リリアは杯の縁を見つめたまま、もうひと口飲む。
あたたかい。
夢ではないのかもしれない、と、そこでようやく少しだけ思えた。
扉の外で足音が止まる。
重くはない。父ではなく、医師か侍女のものだった。
「失礼いたします」
入ってきたのはハロルドだった。白い髭を整えた顔は、普段より少しだけ疲れて見える。眠っていないのだろう。
「お加減を」
そう言って一礼し、まずリリアではなくエルナの方を見る。
「あなたも」
エルナは少し驚いた顔をしてから、「わたしは大丈夫です」と小さく答えた。
ハロルドは眉を寄せる。
「大丈夫で済ませてよい顔色ではありませんな」
「申し訳ございません」
「謝る必要はありません」
そのやり取りを聞きながら、リリアはハロルドの言葉の端を拾っていた。
済ませてよい顔色ではない。
つまり、昨夜は本当に危なかったのだ。
夢ではない。勘違いでもない。
エルナはいなくなるはずだった夜を、今ここで朝に変えたのだ。
ハロルドはリリアの脈を取り、瞳の色を確かめ、喉を見た。
「眠れましたかな」
「……すこし」
「それで結構」
いつもの診察と同じような調子だ。
でも部屋の中の誰も、それを本当の“いつも通り”とは思っていない。
その緊張が、白湯の湯気の向こうにまだ薄く残っている。
診察を終えたハロルドが、部屋を見回して低く言う。
「夜番はこのまま?」
「旦那様のご指示で」
とエルナが答える。
そのとき、別の足音がした。
今度は重い。短く、迷いのない足音。
父が入ってくる。
夜のまま着替えていないのか、軍装は少しも乱れていないのに、肩へ落ちた白い雪の痕だけが消え残っていた。眠っていない目だった。
父はまず部屋を見る。
燭台、暖炉、窓、開いた扉、ハロルド、エルナ、寝台の上のリリア。
いつも通りの順番で、いつもより少しだけ長く。
「医師」
低い声で呼ぶ。
「発熱はありません。お嬢様も、乳母殿も」
「錯乱した侍女は」
「眠らせました。今のところ、強い瘴気の残りも薄いかと」
瘴気、という言葉にリリアの指がわずかに動く。
父はそれを見たのか見ないのか、もう一度だけ部屋を一瞥した。
「エルナ」
名を呼ばれて、エルナが背を正す。
「今日から西棟の夜勤は外せ」
「ですが」
「外せ」
「……はい」
短いやり取りだった。
言い返す隙がない。
けれど、それが罰ではないことは、リリアにもわかった。
外すのではなく、守るための線引きだ。
父はさらに言う。
「昼は引き続きこの部屋に入れ」
「はい」
それを聞いた瞬間、リリアの胸の奥が強く打つ。
いなくならない。
外されるのではなく、残る。
少なくとも、ここに残される。
それが言葉として与えられるまで、こんなにも怖かったのかと、自分で驚いた。
父はそれ以上説明しない。
いつものように短く、必要なことだけを決めていく。
でも、その短さの中に今日ははっきりと答えがあった。
昨夜とは違う朝が、ちゃんと続くのだという答えが。
ハロルドが一礼して下がり、侍女が新しいスープを運んでくる。湯気がまた部屋にのぼる。
朝が、続いていく。
夜を切り抜けたあとの静けさは、ふつうの朝の静けさと少し違う。どこか壊れやすくて、誰も大きな声を出さない。杯を置く音さえ慎重になる。
その中でエルナだけが、少し疲れた顔のまま、いつもの順番で朝を進めていった。
「先に少し召し上がってから、お薬にいたしましょう」
「……うん」
「熱いので、お気をつけて」
その言葉のひとつひとつが、リリアにはたまらなかった。
昨夜、消えてしまうはずだった声だ。
一度目では戻らなかった朝の声だ。
だから、スプーンを持つ手が少し震えた。
エルナがそれに気づく。
「まだお疲れですね」
「……ちがう」
「違いますか」
「……うん」
上手く言えない。
疲れたのではない。
怖かったのでも、まだ足りない。
そこにいるからだ。
ちゃんと、まだそこにいるからだ。
それを言葉にできないまま、リリアはスプーンを置いた。
エルナが、何も言わずにまた額へ手を当てる。
その手に、もう耐えられなかった。
リリアは身を乗り出し、エルナの腰へ顔を押しつける。
自分でも驚くほど、自然に身体が動いていた。
エルナが息を呑む。
「お嬢様……?」
その声も近い。
胸に当たる布もあたたかい。
ちゃんと、生きている人の感触だった。
泣かないつもりだった。
でも、目の奥が熱くなってしまう。
エルナは少しだけ戸惑ったあと、ゆっくりとリリアの背へ手を回した。強く抱きしめるのではない。逃げたくなれば逃げられるくらいの力で、ただそこに手を置く。
「こわい思いをなさいましたね」
その言い方に、リリアは首を振った。
怖かったのは夜だけではない。
朝になったらいなくなっているかもしれないと思う方が、もっと怖かった。
けれど、それを言えずにいると、エルナの手が一度だけ背を撫でる。
「もう大丈夫ですよ」
その言葉を、今度は少しだけ信じられた。
父が部屋を出ていく気配がしたのは、その少しあとだった。
黒い足音が遠ざかる。
けれど昨夜とは違う。
もう切迫した硬さはない。
守るべきものを守り終えたあとの、静かな重さだけが残る。
リリアはエルナの衣に顔を埋めたまま、その足音を聞いていた。
父が変えた夜番。
父が決めた部屋。
父が命じた灯り。
父が引いた線。
その全部の先に、この朝がある。
それが、やっとわかった。
一度目では、守れなかった。
誰も。自分も、エルナも。
けれど今は違う。
違ってしまった。
リリアはゆっくり顔を上げる。
目のふちが熱い。けれど、泣き崩れるほどではない。
ただ、はっきりと思った。
変わったのだ、と。
変えられたのだ、と。
窓の外では、昨夜の雪がまぶしく光っていた。
同じ冬の朝なのに、一度目に見た白さとは少し違う。
冷たいだけではない光だった。
エルナが、少し赤くなった目元で笑う。
「今日は、雪うさぎの続きが読めるかもしれませんね」
その何でもない言葉に、リリアは小さく頷いた。
「……うん」
たったそれだけの返事なのに、胸の奥で何かが静かにほどける。
いつも通りの手が、今日もここにある。
それがもう、奇跡みたいだった。




