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一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
第4章 救われた乳母

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3、変えられた朝

朝は、思ったより静かに来た。


窓の外はまだ白い。夜のあいだ降り続いた雪が、庭も石段も均してしまって、世界は何ごともなかったような顔をしていた。


けれど部屋の中には、夜の残りがまだある。


灯りは落とされずに朝まで残されていたせいで、燭台の蝋は短くなっている。扉は開いたまま、廊下の向こうに人の気配がある。暖炉の火も、いつもより強いまま赤く息をしていた。


リリアは毛布の中で目を開けた。


眠っていたのかどうか、よくわからない。


夜の途中から、何度も意識が浮いた。扉のところに立つ黒い影。回廊を行き交う靴音。低く交わされる命令。医師の声。薬の匂い。エルナの震える呼吸。


全部が途切れ途切れで、でも消えてはいない。


まぶたを上げる。


最初に見たのは、寝台の脇の椅子だった。


そこに、エルナがいる。


少しだけうつむいて、眠っているのか、ただ目を閉じているだけなのか、わからない顔だった。頬はまだ夜の名残みたいに白い。けれど肩は上下している。


生きている。


そのことが、胸の奥へ届くまでに、少し時間がかかった。


リリアは毛布の端を握る。


まだだ、と思う。


朝になっても、こういうことはある。起き上がれば消えてしまうものかもしれない。夢だったのだと言われるかもしれない。別の部屋へ移されたのだと聞かされるかもしれない。


そういう朝を、一度目のどこかで知っている。


だから、すぐには呼べなかった。


ただ、見ていた。


じっと見ているうちに、エルナのまつげがかすかに動く。ゆっくり目が開くと、少しだけ焦点の合わない眼差しが、すぐ寝台の上を探した。


リリアと目が合う。


その瞬間、エルナの顔がほどけた。


「……おはようございます」


いつもの声だった。


少しだけ掠れてはいたけれど、まちがいなくいつもの朝の声だ。


それを聞いたとたん、リリアの喉の奥が熱くなった。


返事をしようとして、うまく声が出ない。


エルナはそれを責めない。椅子から立ち上がると、寝台のそばへ来て、いつものように額へ手を当てる。


その手も、いつもの温度だった。


「お熱はなさそうですね」


何でもないことみたいに言う。


何でもないはずがないのに。


昨夜、あんなふうに顔色を失っていたのに。部屋の外ではあんなに人が走っていたのに。父の声はあんなに硬く、夜そのものを切るみたいだったのに。


それなのにエルナは、朝になったらちゃんと、いつもの手で額へ触れる。


その事実に、リリアは耐えきれなくなった。


エルナの袖を掴む。


今度は夜みたいに必死ではなかった。けれど、離したくない気持ちは同じだった。


エルナが少し驚いたように目を丸くする。


「どうなさいました」


やさしい声だった。


その声がある。

その手もある。

問いかける息づかいまで、ちゃんとここにある。


リリアは答えられず、ただ袖を握ったまま首を振った。


エルナはそれ以上訊かなかった。


袖を掴まれたまま、空いた手で髪をひと撫でする。伯母のように梳いて整える手ではない。仕事の途中で、子どもの寝癖を見つけて軽く押さえるような、日常の手だった。


「おりますよ」


小さく言われる。


その一言で、張りつめていたものが胸の奥で音もなく崩れた。


リリアはうつむいた。


泣いてしまいそうだったからだ。


大声で泣く年ではない。泣けば何かが戻るわけでもないことを、もう知っている。だから、唇をきつく結んで、袖を握る指だけに力を込めた。


エルナはそれでも急かさない。


しばらくそのままでいてから、寝台脇の卓を振り返る。


「白湯が冷めてしまいますね」


そこには湯気の立つ杯が置かれていた。いつ、誰が持ってきたのかわからない。たぶん夜明け前にはもう用意されていたのだろう。


「少しだけ召し上がれますか」


その問いにも、何でもない朝の響きがある。


リリアは小さく頷いた。


袖を離すと、指先が少し冷たくなっている。エルナは何も言わず、その手ごと杯を包むようにして持たせてくれた。


白湯は、ちょうど飲みやすい温度だった。


ひと口含む。


それだけで、涙が出そうになる。


一度目の朝を、断片だけ思い出したからだ。


あの朝も、窓の外は白かった。

けれど、エルナはいなかった。

額へ触れる手も、白湯を持たせる声もなかった。


代わりにあったのは、扉の外で交わされる小さな声だった。


乳母が。

夜のうちに。

お嬢様にはまだ――


そこまでしか思い出せない。


はっきりした言葉にはならない。

けれど、いなくなったのだ。

二度と、いつも通りの朝を持ってこなかったのだ。


それだけは、傷みの形で残っている。


リリアは杯の縁を見つめたまま、もうひと口飲む。


あたたかい。


夢ではないのかもしれない、と、そこでようやく少しだけ思えた。


扉の外で足音が止まる。


重くはない。父ではなく、医師か侍女のものだった。


「失礼いたします」


入ってきたのはハロルドだった。白い髭を整えた顔は、普段より少しだけ疲れて見える。眠っていないのだろう。


「お加減を」


そう言って一礼し、まずリリアではなくエルナの方を見る。


「あなたも」


エルナは少し驚いた顔をしてから、「わたしは大丈夫です」と小さく答えた。


ハロルドは眉を寄せる。


「大丈夫で済ませてよい顔色ではありませんな」

「申し訳ございません」

「謝る必要はありません」


そのやり取りを聞きながら、リリアはハロルドの言葉の端を拾っていた。


済ませてよい顔色ではない。

つまり、昨夜は本当に危なかったのだ。


夢ではない。勘違いでもない。


エルナはいなくなるはずだった夜を、今ここで朝に変えたのだ。


ハロルドはリリアの脈を取り、瞳の色を確かめ、喉を見た。


「眠れましたかな」

「……すこし」

「それで結構」


いつもの診察と同じような調子だ。

でも部屋の中の誰も、それを本当の“いつも通り”とは思っていない。

その緊張が、白湯の湯気の向こうにまだ薄く残っている。


診察を終えたハロルドが、部屋を見回して低く言う。


「夜番はこのまま?」

「旦那様のご指示で」

とエルナが答える。


そのとき、別の足音がした。


今度は重い。短く、迷いのない足音。


父が入ってくる。


夜のまま着替えていないのか、軍装は少しも乱れていないのに、肩へ落ちた白い雪の痕だけが消え残っていた。眠っていない目だった。


父はまず部屋を見る。

燭台、暖炉、窓、開いた扉、ハロルド、エルナ、寝台の上のリリア。


いつも通りの順番で、いつもより少しだけ長く。


「医師」


低い声で呼ぶ。


「発熱はありません。お嬢様も、乳母殿も」

「錯乱した侍女は」

「眠らせました。今のところ、強い瘴気の残りも薄いかと」


瘴気、という言葉にリリアの指がわずかに動く。


父はそれを見たのか見ないのか、もう一度だけ部屋を一瞥した。


「エルナ」


名を呼ばれて、エルナが背を正す。


「今日から西棟の夜勤は外せ」

「ですが」

「外せ」

「……はい」


短いやり取りだった。


言い返す隙がない。

けれど、それが罰ではないことは、リリアにもわかった。


外すのではなく、守るための線引きだ。


父はさらに言う。


「昼は引き続きこの部屋に入れ」

「はい」


それを聞いた瞬間、リリアの胸の奥が強く打つ。


いなくならない。


外されるのではなく、残る。

少なくとも、ここに残される。


それが言葉として与えられるまで、こんなにも怖かったのかと、自分で驚いた。


父はそれ以上説明しない。


いつものように短く、必要なことだけを決めていく。

でも、その短さの中に今日ははっきりと答えがあった。


昨夜とは違う朝が、ちゃんと続くのだという答えが。


ハロルドが一礼して下がり、侍女が新しいスープを運んでくる。湯気がまた部屋にのぼる。


朝が、続いていく。


夜を切り抜けたあとの静けさは、ふつうの朝の静けさと少し違う。どこか壊れやすくて、誰も大きな声を出さない。杯を置く音さえ慎重になる。


その中でエルナだけが、少し疲れた顔のまま、いつもの順番で朝を進めていった。


「先に少し召し上がってから、お薬にいたしましょう」

「……うん」

「熱いので、お気をつけて」


その言葉のひとつひとつが、リリアにはたまらなかった。


昨夜、消えてしまうはずだった声だ。

一度目では戻らなかった朝の声だ。


だから、スプーンを持つ手が少し震えた。


エルナがそれに気づく。


「まだお疲れですね」

「……ちがう」

「違いますか」

「……うん」


上手く言えない。


疲れたのではない。

怖かったのでも、まだ足りない。


そこにいるからだ。

ちゃんと、まだそこにいるからだ。


それを言葉にできないまま、リリアはスプーンを置いた。


エルナが、何も言わずにまた額へ手を当てる。


その手に、もう耐えられなかった。


リリアは身を乗り出し、エルナの腰へ顔を押しつける。


自分でも驚くほど、自然に身体が動いていた。


エルナが息を呑む。


「お嬢様……?」


その声も近い。

胸に当たる布もあたたかい。

ちゃんと、生きている人の感触だった。


泣かないつもりだった。

でも、目の奥が熱くなってしまう。


エルナは少しだけ戸惑ったあと、ゆっくりとリリアの背へ手を回した。強く抱きしめるのではない。逃げたくなれば逃げられるくらいの力で、ただそこに手を置く。


「こわい思いをなさいましたね」


その言い方に、リリアは首を振った。


怖かったのは夜だけではない。

朝になったらいなくなっているかもしれないと思う方が、もっと怖かった。


けれど、それを言えずにいると、エルナの手が一度だけ背を撫でる。


「もう大丈夫ですよ」


その言葉を、今度は少しだけ信じられた。


父が部屋を出ていく気配がしたのは、その少しあとだった。


黒い足音が遠ざかる。

けれど昨夜とは違う。

もう切迫した硬さはない。

守るべきものを守り終えたあとの、静かな重さだけが残る。


リリアはエルナの衣に顔を埋めたまま、その足音を聞いていた。


父が変えた夜番。

父が決めた部屋。

父が命じた灯り。

父が引いた線。


その全部の先に、この朝がある。


それが、やっとわかった。


一度目では、守れなかった。

誰も。自分も、エルナも。


けれど今は違う。


違ってしまった。


リリアはゆっくり顔を上げる。

目のふちが熱い。けれど、泣き崩れるほどではない。


ただ、はっきりと思った。


変わったのだ、と。


変えられたのだ、と。


窓の外では、昨夜の雪がまぶしく光っていた。


同じ冬の朝なのに、一度目に見た白さとは少し違う。

冷たいだけではない光だった。


エルナが、少し赤くなった目元で笑う。


「今日は、雪うさぎの続きが読めるかもしれませんね」


その何でもない言葉に、リリアは小さく頷いた。


「……うん」


たったそれだけの返事なのに、胸の奥で何かが静かにほどける。


いつも通りの手が、今日もここにある。


それがもう、奇跡みたいだった。

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