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一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
第4章 救われた乳母

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2、消えるはずだった夜

今日はまだ、何も起きていない。


それなのに、この手を離してはいけない気がした。


リリアはエルナの袖を掴んだまま、じっとしていた。


エルナは困ったように笑ったが、無理に手をほどこうとはしなかった。椅子へ座り直し、針仕事の籠を脇へ寄せると、空いた手でそっとリリアの指先を包む。


「少し疲れていらっしゃるのかもしれませんね」


そう言ってくれる声は、いつもと同じだった。


いつもと同じだからこそ、余計に怖かった。


窓の外では雪が絶えず降っている。昼の白さはもう消え、空は早くから暮れかけていた。暖炉の火が小さく鳴るたび、壁や寝台の脚がわずかに影を揺らす。


部屋の中はあたたかい。エルナの手もあたたかい。


なのに、胸の奥だけが妙に冷たかった。


「お茶を淹れ直してまいりましょうか」


侍女が控えめに訊ねる。


エルナはリリアの手を見てから、小さく首を振った。


「いえ、あとで」

「ですが……」

「あとでいいの」


きっぱりとはしていない。けれど、やわらかく押し返す声だった。


侍女は一礼して下がる。


リリアはそのやり取りを聞きながら、少しだけ息を吐いた。


止められた。


たったそれだけで、今は少し楽になる。

そういう自分が情けない。けれど、手はどうしても離せなかった。


やがて夕食が運ばれてきても、エルナはそばにいた。


椀を卓へ置くのも、薬を白湯のあとへ回すのも、髪をまとめ直すのも、全部いつも通りだった。リリアはそれに縋るみたいに、ひとつひとつを目で追う。


エルナがいる。

今もいる。

まだ、いる。


その確認ばかりしている自分に、リリアは自分で気づいていた。


夜の支度が始まるころ、扉の外で兵の交替の足音が止まった。


短い報告の声。応じる声。離れていく気配。


主塔寄りへ移されてから増えたその規則正しさが、ふだんなら少しは胸を落ち着かせる。けれど今夜は、足音のたびに何かが近づいてくるような気がした。


「お顔が冷たいですね」


エルナがそう言って、頬へ手を寄せる。


そのぬくもりに、リリアは反射的に顔を寄せかけて、はっとした。自分が何をしかけたのかわかって、頬が熱くなる。


エルナは気づいたのか気づかなかったのか、いつも通りの顔をしていた。


「暖炉を少しだけ強くいたしましょう」


立ち上がろうとする。


その瞬間、リリアの指がまた強く袖を引いた。


「お嬢様?」


呼ばれても答えられない。


だめ。

行かせてはいけない。

でも、どうしてだめなのかが言えない。


エルナはしばらくリリアの目を見ていたが、やがてゆっくり座り直した。


「では、マルタに頼みますね」


扉のそばに控えていた侍女へ声をかける。マルタはすぐに暖炉の世話へ回った。


それで事足りる。

事足りるのに、リリアの胸のざわめきは消えなかった。


夕食のあと、薬を飲み、髪をゆるく梳かれ、寝台へ入る。

エルナはいつもより長くそばに残った。灯りの位置を確かめ、毛布の端を整え、白湯の入った小さな差し水まで寝台脇へ置いていく。


「今日はこのまま、エルナがおそばにおりますね」


それを聞いたとき、リリアは初めて少しだけ肩の力を抜いた。


「……いなくならない?」

「いなくなりませんよ」


やさしい声だった。


子どもじみた問いだと自分でもわかった。

けれどエルナは笑わない。困った顔もしない。ただ当たり前のことを言うように、そこにいますよ、と答える。


その答えが、今夜はひどく遠く感じられた。


灯りが落とされる。

扉は細く開いたまま。

廊下の向こうに兵の気配がある。

暖炉の火は弱すぎず、窓の隙間風もない。


いつもの夜だ。

最近の夜は、ずっとこうだった。


それなのに、目を閉じた途端、胸の奥で何かがざらりと動いた。


甘い匂いがする。


花の匂いとも、乾いた香草の匂いとも違う。もっと湿っていて、やわらかく、息を吸うたび喉の奥へ残る匂いだった。


──だいじょうぶ


耳もとで囁く声がある。


リリアは毛布の中で身を固くした。


違う。

聞いてはいけない。

わかっているのに、その声は今夜に限ってひどく自然に部屋の中へ混じっていた。


まるで最初からそこにいたみたいに。


──ほら、あの人はやさしいでしょう

──だからもう、こわがらなくていい


誰のことを言っているのか、一瞬わからなくなる。


父か。

伯母か。

それとも別の、もっと暗いものか。


境目が曖昧になるのが、何より怖かった。


「……エルナ」


小さく呼ぶと、寝台のそばの椅子からすぐ返事がある。


「はい、ここにおります」


その声だけで、少しだけ息がつながる。


リリアは毛布の端から顔を出した。

椅子に座るエルナの輪郭が、灯りの中に静かにある。

ちゃんといる。

ちゃんと、まだいる。


それでも胸のざわつきは消えなかった。


むしろ、エルナの姿を確かめたことで、別の何かがじわじわ近づいてくるような気がする。


一度目の夜が、遠い霧の向こうから少しずつ形を持ちかける。


真っ暗な回廊。

開けてはいけない扉。

翌朝になっても来なかった、いつもの手。

誰かが小声で交わした、「乳母が」という言葉。


そこまで思い出しかけたところで、リリアの呼吸が浅くなる。


何があったのか、はっきりとはわからない。

ただ、一度目のこの時期に、エルナはいなくなった。

それだけは、胸の傷みの形で残っていた。


「エルナ」


もう一度呼ぶ。


「はい」


「いかないで」


声に出した瞬間、自分でも驚いた。


エルナは目を丸くする。

けれど次の瞬間には、やわらかく頷いた。


「ええ。行きません」


それで終わるはずだった。


終わってほしかった。


ところが、扉の外で何かが落ちる音がした。

小さな金属音。

薬匙か、盆の端か、そういうものが石床へ当たったような音。


エルナが反射的に顔を向ける。


リリアの背筋が一気に冷えた。


「だめ」


思わず起き上がる。


「お嬢様?」


「だめ、いっちゃだめ」


今度ははっきり言えた。


言えたのに、音は止まない。

扉の向こうで、かすかな物音がもう一度する。

誰かが、助けを求めるような、低い声さえ混じった気がした。


エルナの顔が曇る。


部屋の外で何かあれば、そちらを見るのは当たり前だ。

乳母としてでも、使用人としてでもなく、人として自然な動きだ。


だからこそ、怖かった。


一度目もきっと、こういうふうだったのだと、リリアは理由もなく確信した。


何かが起きる。

それを放ってはおけない。

だからエルナは行く。

行って、戻らない。


「お嬢様、すぐそこですから」


エルナが立ち上がる。


その声は落ち着いている。

落ち着いているのに、リリアにはもう、それが別れの前ぶれに聞こえた。


「いや」


毛布を跳ねのける。

寝台の端に手をつき、ふらつきながら立ち上がる。


「いや、いっちゃだめ」


エルナの袖を掴む。

今度は朝や夕方とは比べものにならないくらい強く。


エルナが本当に驚いた顔をした、そのときだった。


扉の外で兵の声が鋭く響く。


「誰だ」


その一喝で、部屋の外の気配が一変した。


続けて、駆ける足音がいくつも重なる。

低い命令。

灯りが動く気配。

何かが壁へ打ちつけられるような鈍い音。


エルナが息を呑む。


リリアも袖を掴んだまま凍りついた。


扉が大きく開く。


飛びこんできたのは、夜番の兵ではなかった。

父だった。


黒い軍装の裾が灯りを払うように部屋へ入る。灰銀の目が最初に見たのはリリア、その次にエルナ、その後ろの開いた扉だ。


「何があった」


問いは短い。


兵が後ろから答える。


「回廊の奥で侍女が一人、錯乱しかけておりました。灯りの外へ出ようとして」

「誰だ」

「今は押さえております」


父の目が一瞬だけ細くなる。


その瞬間、リリアの鼻先を、さっきまでよりはっきり甘い匂いがかすめた。

花のようで、腐りかけの蜜のようでもある匂いだった。


父もそれに気づいたらしい。

視線が扉の向こう、回廊の暗がりを鋭く裂く。


「閉めるな」


まずそれを言う。


「灯りを増やせ。西棟側の階段は封鎖。動かせる者をすべてここへ回せ」


命令が次々落ちる。

兵が走る。

侍女たちが息をのむ。

部屋の中の空気が、一気に戦場の前みたいに張りつめる。


けれど父は、そこで終わらなかった。


リリアとエルナを一瞥し、低く言う。


「離すな」

「……はい」


エルナの返事は少し震えていた。


父は一歩だけ近づく。

視線はリリアの顔に落ちかけて、いつものように一瞬止まり、それでも今夜は逸れきらなかった。


「誰が出ると言った」


問いはエルナへ向けられている。

責める調子ではない。確認の声だ。


「物音がして……」

「今夜は動くな」


短い。

しかしそれだけで、エルナは青ざめたまま深く頭を下げた。


父はすでにリリアの様子も見ていたのだろう。

息が上がっていること、寝台から出ていること、エルナの袖を離せないこと。


「戻れ」


命令されて、リリアは動けなかった。


足が震えている。

今動けば、本当に何かが終わってしまう気がした。


父はそれを見て、ほんの一拍だけ黙る。

それから、抱き上げる代わりに寝台の端を指先で示した。


「そこへ」


それだけでいいとわかった。


エルナの袖を掴んだまま、リリアはどうにか寝台へ腰を下ろす。

エルナもそのままそばに残る。


父は扉のところへ戻った。

まるで自分がそこに立つことで、夜そのものを押しとどめるみたいに。


外ではまだ足音が行き交っている。

誰かが泣きそうな声を上げ、それを叱る声が切る。

灯りが増え、石壁へ跳ねる影が減っていく。


甘い匂いは、少しずつ薄れた。


そのかわり、冷たい鉄と雪の気配が強くなる。

ふつうなら怖いはずのその匂いに、今夜は胸の奥がほどけていく。


エルナの袖を掴んだ指が、ようやく少しだけ緩んだ。


気づいたのか、エルナがそっと手を重ねてくる。


「おりますよ」


ひどく小さな声だった。


その声が、ちゃんと耳に入る。

今度こそ、本当に。


扉のそばで父が短く告げる。


「医師を」


すぐに誰かが走る。


リリアはその音を聞きながら、ようやく深く息を吸えた。


一度目の夜に何が起きたのか、まだ思い出せない。

けれど、今夜は違う。

違うのだと、身体のどこかが先に知っていた。


それでも怖かった。

何も終わっていない気がした。


父が扉のところに立ったまま、振り向かずに言う。


「エルナ」

「はい」

「今夜はここを離れるな」

「……はい」


そのやり取りを聞いた瞬間、リリアの喉の奥が熱くなった。


離れるな。


たったそれだけなのに、救われた気がしてしまう。

そんな自分がみじめで、ありがたくて、どうしたらいいかわからない。


やがて医師が来たころには、回廊の騒ぎはほとんど収まっていた。


錯乱しかけた侍女は取り押さえられ、別室へ移されたらしい。

灯りの外へ出ようとしていた、と父の命を受けた兵が低い声で繰り返す。


医師が部屋へ入り、リリアではなくまずエルナの顔色を見たのを、リリアは見逃さなかった。


見られて、エルナがようやく本気で震えた。


危なかったのだ。

今夜、何かが。

自分だけでなく、エルナにも。


それが、遅れて現実になる。


「もう大丈夫です」


医師はそう言った。

けれどリリアは、まだ信じきれなかった。


大丈夫、という言葉はいつだって朝になってからでないと本物にならない。

そのことを、一度目のどこかで覚えてしまっていたからだ。


父は医師の報告を最後まで聞き終えると、部屋の外へ目をやったまま言った。


「夜番を倍にしろ。交替の間をなくせ」

「はい」


「西棟から主塔まで、今夜は灯りを落とすな」


さらに命令が重なる。


夜そのものへ縄をかけて締め上げるみたいな声だった。


リリアは毛布の上で、まだエルナの袖を離せずにいた。


エルナはもう座っている。

息をしている。

手も、あたたかい。


それでも、朝になるまでは安心できない。


そのことだけが、はっきりしていた。


外の雪は、夜更けまでやまなかった。

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