1、いつも通りの手
朝の部屋には、湯気の匂いがあった。
暖炉の火にあたためられた空気の中で、薄い白がゆるやかにのぼっている。窓の外はまだ冬の白さのままだが、その湯気だけは人の暮らしの色をしていた。
リリアは寝台の上で毛布を胸まで引き上げたまま、その白いものを見ていた。
「熱いので、少し待ってくださいね」
エルナがそう言って、卓の上の椀を小さく回す。匙でかき混ぜるたび、やわらかな音がする。
いつもと同じ朝だった。
窓辺の光は冷たく、暖炉の火は強すぎない。扉は細く開いていて、廊下の向こうに人の気配がある。夜が終わっても、主塔寄りのこの部屋では、完全にひとりになる時間は少ない。
それでも朝になると、少しだけ息がしやすい。
夜のあいだ胸に溜まっていたものが、光に押しやられて、部屋の隅へ薄く残るだけになるからだ。
エルナは椀の縁へ唇を寄せ、湯気の温度を確かめてから、ようやくリリアの前へ持ってきた。
「もう大丈夫です」
差し出された椀を両手で受け取る。
熱すぎない。ぬるすぎもしない。口に含めば、塩気の薄い野菜の味がする。朝のスープはいつも同じようで、けれど日によって少しだけ違っていた。今日は芋の甘みが強い。
「……おいしい」
小さく言うと、エルナは少しだけ笑った。
「今朝は火の入りがよかったんです」
大げさに喜ばない。
子どものひとことを宝物みたいに扱わない。
そういうところが、リリアには少しだけ心地よかった。
父のそばでは、呼吸が楽になる。
伯母のそばでは、言葉がほどける。
エルナのそばでは、朝がちゃんと朝のままでいてくれる。
それは、どれとも違う種類の安心だった。
スープを半分ほど飲んだところで、エルナが自然な手つきで寝台へ腰を寄せる。
「昨夜は、前よりお休みになれましたか」
問いはやわらかい。
でも、答えを急がせない。
リリアは椀の中を覗きこんだまま、少し考える。
眠れた。
けれど、その理由まで言葉にしたくはない。
「……たぶん」
曖昧な返事にも、エルナは困った顔をしない。
「たぶん、なら上々ですね」
それだけで終える。
もっと訊かれてもよさそうなのに、そうしない。
眠れたのならよかった、でも眠れなかったのなら無理に聞かない。
そういう間合いが、エルナには最初からあった。
スープを飲み終えると、エルナは椀を受け取り、そのままリリアの額へ手を当てた。
ひやりともしない、熱すぎもしない、仕事の手だった。
体調を確かめるための手。
でも、雑ではない。
「少し冷えておりますね」
その一言で、胸の奥がふいにちくりと痛む。
一度目も、寒い朝はあった。
着替えも、食事も、湯たんぽも、足りないことはなかった。困ることは何もなかったはずなのに、なぜか寒かった。
誰も悪くはなかった。
みんな丁重だった。
ただ、みんな一歩ずつ遠かった。
泣けば抱き上げてもらえるような年頃をとうに過ぎていたせいもあるのかもしれない。
あるいは、父が近づかない子に、使用人たちも深くは寄らなかっただけなのかもしれない。
その中で、エルナだけは少し違った。
大げさに甘やかすわけではない。
「かわいそうに」と何度も言うわけでもない。
ただ、寒ければ額へ手を当てる。眠そうなら声を落とす。熱いものは少し冷ます。子どもにするように、それをする。
その“普通”が、一度目のリリアにはひどく少なかった。
「お顔が少し赤いですね」
エルナがそう言って、頬の近くまで手を寄せる。
リリアは思わず、その手に目を向けた。
太くも細くもない指。働く女の手だ。伯母のように白く整ってはいないし、侍女長のように隙もない。でもその手は、必要なときに必要なだけこちらへ来て、必要以上には踏みこまない。
「どうなさいました」
見つめすぎたのか、エルナが少し首をかしげた。
リリアは慌てて首を振る。
「……なんでもない」
「そうですか」
それで本当に引き下がる。
その引き方まで、ちょうどよかった。
朝の支度は、いつもと同じように進んだ。
顔を拭く布は冷たすぎず、髪をまとめる櫛の動きは急ぎすぎない。絡んだところでは一度手を止め、痛くないように少しずつ解く。伯母のように髪そのものを楽しむ手つきではないが、侍女たちの仕事の櫛よりずっと体温がある。
「今日は窓辺へお掛けになりますか」
問われて、リリアは小さく頷く。
椅子へ座ると、先に膝掛けがかけられた。
それから絵本が開かれる。
順番を間違えないことまで、エルナは覚えている。
「雪うさぎの続きにいたしましょうか」
「……うん」
「まだ逃げ切れておりませんでしたものね」
「まだ」
エルナはくすりと笑った。
伯母のように言葉がうまいわけではない。
でも、同じ頁で止まっていても責めない。
読めていないのだと見抜いても、それをわざわざ口にはしない。
午前の光の中で、絵本の紙だけが明るかった。
リリアは文字を追うふりをしながら、ときどき外を見る。白い庭、遠い石壁、見回りの兵、空の低さ。どれも見慣れたはずなのに、最近はそうではないものが一つ混じっていた。
この部屋の中に、エルナがいる。
それだけのことが、思っていたより大きい。
昼近く、扉の外で低い足音が止まった。
エルナが立ち上がる気配を見せるより先に、父が入ってくる。
いつも通り、まず部屋を見る。
窓。暖炉。卓上の薬。開いた絵本。エルナ。
そして最後に、リリアへ短く目を落とす。
その順番も、もう見慣れてきた。
「昼の薬は」
問いはエルナへ向けられている。
「食後にお飲みいただきます」
「昨夜は」
「大きくは乱れませんでした」
父は頷いたとも言えないほど小さく顎を動かす。
それだけで会話は終わる。
リリアへ長く言葉をかけることはない。
それでも、エルナがここにいることを確認してから去る、その流れの中に、妙な落ち着きがあった。
父はエルナを見ている。
使用人としてだけではなく、残している人として。
そのことを、リリアは最近になって少しだけ感じ取れるようになっていた。
父が去ると、部屋はまた静かになった。
エルナは薬を白湯と一緒に運び、苦味のある錠を小皿へ置く。
「先にお湯を少しだけ」
父に言われた通りなのだろう。
けれど、その順番がきちんと体の記憶になっているのは、何度もそれを繰り返してきたからだ。
リリアは白湯を口に含み、薬を飲み下す。
苦い。けれど前よりましだった。
「よくできました」
そう言われても、子ども扱いされたような嫌さはなかった。
エルナの声には、褒めることそのものが目的ではない感じがあるからだ。
昼食のあと、部屋はさらに静かになった。
エルナは窓辺の椅子のそばで小さな針仕事をしている。糸を通し、布を返し、また針を落とす。音はほとんどない。時々だけ、糸巻きの木が卓へ当たって小さく鳴る。
リリアはその気配の中で絵本を膝に置いたまま、何も読まずに座っていた。
誰かがずっと話しかけてこなくても、困らない。
何か面白いことをしてくれなくても、落ち着いていられる。
そういう時間を、エルナは作る。
伯母は、言葉をくれる。
父は、夜を削る。
エルナは、日を続ける。
その違いを、リリアはまだうまく言葉にはできなかった。
午後の光が少し傾きはじめた頃、エルナが針を置いた。
「お湯を取り替えてまいりますね」
それは、ほんとうに何でもない言葉だった。
けれど、その一言を聞いた瞬間、胸の奥がひどくざわついた。
リリアは顔を上げる。
理由はわからない。
わからないのに、だめだ、と思った。
今、行かせてはいけない。
どうしてそう思うのか、自分でも説明できない。
ただ、エルナが部屋を出ていく後ろ姿を想像しただけで、喉の奥がきゅっと狭くなる。
エルナはまだ気づいていない。
「すぐ戻りますから」
いつものように言って、立ち上がる。
その“いつも通り”が、今はひどく怖かった。
リリアの指が、考えるより先に動く。
立ち上がりかけたエルナの袖を、きゅ、と掴んでいた。
エルナが振り返る。
驚いた顔をしたが、すぐにやわらいだ。
「どうなさいました」
その問いに、リリアは答えられない。
どうしたのか、自分でもわからないからだ。
行かないで、と言いたいのか。
ここにいて、と言いたいのか。
それとも、何かが起きる気がする、と叫びたいのか。
どれも違うようで、どれも近い。
ただ、手を離せなかった。
エルナは袖を引こうとはしない。
掴まれたまま、リリアの目線まで少しだけ身をかがめる。
「すぐ戻りますよ」
やさしい声だった。
いつも通りの、落ち着いた声。
その声が、余計に胸をざわつかせる。
戻る。
そう言われても、なぜだか信じきれない。
リリアは袖を掴んだまま、首を振ることも頷くこともできなかった。
エルナの顔に、ほんの少しだけ困った色が浮かぶ。
けれど、それもすぐに消えた。
「では、エルナはもう少しここにおりますね」
無理に理由を聞かない。
無理に手をほどかない。
ただ、そう決めて座り直す。
そのことに、リリアの胸の奥が少しだけ楽になる。
けれど同時に、ざわつきそのものは消えない。
窓の外では、雪が淡く降りはじめていた。
白いものが、空から音もなく落ちてくる。
部屋の中はあたたかいのに、その白さだけが妙に冷たく見えた。
リリアはまだエルナの袖を掴んだまま、小さく息を吸う。
今日はまだ、何も起きていない。
それなのに、この手を離してはいけない気がした。




