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一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
第3章 春を連れてくる伯母

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3、やさしい手、悪い夜

オルタンシアが帰ったあとの部屋には、しばらく乾いた花の匂いが残っていた。


暖炉の火にあたためられたそれは、甘いというほど濃くはない。けれど煤の匂いとも薬湯とも違う、細い春の気配だった。窓の外はまだ雪で白いのに、部屋の隅だけ季節が先に進んだみたいに感じられる。


リリアは、その匂いを何度も意識した。


嫌ではない。


むしろ、少し好きだった。


それがよくないことのようにも思えて、余計に気になる。


その日から、オルタンシアは二度、三度と西棟へ顔を見せるようになった。


毎日ではない。

けれど忘れた頃にふっと現れる。


大きな箱や派手な贈り物を持ってくるわけではない。乾いた香草の束だったり、細い枝の挿された小瓶だったり、母が好きだったという淡い色の布だったり、どれも部屋の隅に置けばそれで足りるようなものばかりだ。


それでも、その人が来ると空気が変わる。


父が来たときの変わり方とは違う。


父が来ると、部屋の形が決まる。

どこへ立つか、誰が残るか、灯りをどうするか、そういうものが一度に整う。


オルタンシアが来ると、部屋の中に余白ができる。

急いでいた侍女の手が少しだけゆるみ、エルナの声もやわらぐ。リリアも、自分がどこへ目を向ければいいのかわからないまま、前ほど強くは肩を縮めなくなっていた。


その日の午後もそうだった。


雪は前夜より深く積もっていたが、空は明るい。主塔寄りの小部屋には、窓辺の光と暖炉の火がきれいに分かれて入っていた。


リリアは机の上の絵本をひらいたまま、ほとんど頁をめくらずにいた。文字を追っているふりをしているだけで、頭の中には何も入っていない。


昨夜は眠れた。

前よりは、眠れる夜が増えている。


けれど眠れたことが、そのまま安心にはつながらない。むしろ、どこで眠れたのか、何が足りていて、何が足りていないのかを、夜のたびに少しずつ思い知らされるみたいで、それが嫌だった。


「難しいお顔をしているのね」


声がして、リリアは顔を上げた。


オルタンシアが扉のところに立っている。


今日の外套は薄い灰青で、窓から差す光を受けると雪の色に近かった。侍女がそれを受け取るあいだ、彼女はいつものようにすぐには近づかない。


「ごきげんよう、リリア」


「……ごきげんよう」


返事が出るまでの間が、前より少し短くなっている。

それに気づいたのはエルナだけではなかったらしい。オルタンシアも目を細めて、うれしそうというより、静かに受け止めるように笑った。


「今日は何を読んでいたの?」

「……まだ」

「まあ、まだだったの。ではきっと、途中で別のことを考えていたのね」


そう言われて、リリアは絵本を閉じた。


図星だった。


「難しいお話ではないのに、文字が頭に入らないときがあるでしょう」


オルタンシアはそう言いながら、机の向かいへ腰を下ろした。


「考えたくないことほど、そういうときに限って居座るのよ」


それが自分のことを言われているのだとわかっても、なぜか逃げたくならない。問い詰められているのではなく、自分の中にあるものへ、ただ名前をつけられている感じがするからだった。


エルナが茶器を整えながら、遠慮がちに笑う。


「お伯母様は、なんでもお見通しでいらっしゃるのですね」

「まさか。見えてしまうものしか見えないわ」

「それでも十分です」


二人のやり取りを聞きながら、リリアは膝の上の指を絡めた。


見えてしまうもの。


その言い方が、少しだけ引っかかった。


オルタンシアはそれに気づいたのか、リリアの手元を見る。


「その癖、また出ているわ」

「……くせ?」

「そう。指をきつく握るの。あなたのお母様も、緊張するとよくしていたのよ」


母の話をされると、胸の奥が少しだけ静かになる。知らない人の話なのに、知らないままではなくなる気がするからだろうか。


「お母様は……何を、こわがったの」


思わずこぼした問いに、エルナの手が一瞬止まる。


けれどオルタンシアは、驚いた顔をしなかった。


「たくさんあったと思うわ」

「たくさん」

「ええ。寒いことも嫌いだったし、苦い薬も苦手だったし、家のしきたりにはよくうんざりしていた」


少し笑いながら言う。


「でも、一番はね。自分の大事なものを守れないことを、とても怖がる人だった」


その答えが、なぜだかリリアにはすぐ飲み込めなかった。


母のことなのに、まるで父の話みたいにも聞こえる。


オルタンシアは卓上の枝先へ目をやった。


蕾はもう少しだけひらいている。


「怖いものがあるのは、悪いことじゃないわ」

「……」

「ただ、ずっと力を入れたままだと、疲れてしまうでしょう」


リリアは返事をしなかった。


わかるような、わからないような話だ。

夜になると怖い。だから身を固くする。固くしていれば少しは耐えられる。そう思っていた。けれど、耐えても夜がなくなるわけではない。


「無理に頑張らなくてもいいのよ」


オルタンシアの声は、暖炉の火より静かだった。


「こわいなら、こわいままでいいの」

「……でも」

「でも、って思うのね」


先を取られて、リリアは唇を閉じる。


オルタンシアは、少しだけ身体をかがめた。


「レオンハルトの近くにいないとだめだって、そう思っているのでしょう」


その瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。


図星だったからだ。


誰にも言っていない。エルナにさえ、医師にさえ、自分でさえ、はっきり認めたことはなかった。それなのに、この人は当然のようにそこへ触れてくる。


「……だめじゃ、ない」

「そう。ならよかった」


前と同じ答え方だった。


責めもしないし、暴きもしない。

ただ、言葉を置いていくだけだ。


「でもね」


オルタンシアは続ける。


「近くにいないと落ち着かないことと、近くにいなくてはいけないことは、同じではないわ」

「……おなじじゃ、ないの」

「ええ。少しずつ離していくこともできる。こわくない場所を増やしていけばいいのよ」


その響きはやさしい。


あまりにもやさしくて、胸の奥のどこかがゆるむ。


父はそんなふうには言わない。

父は近くへ置く。扉を開ける。灯りを残す。人を配置する。そういうやり方しか知らない。

オルタンシアは違う。

言葉だけで、体のこわばりをほどこうとする。


「今日、もし夜が来るのが嫌だったら」


オルタンシアが言う。


「無理に主塔の方ばかり気にしなくてもいいのよ」

「……」

「ここで息をしていても、大丈夫。扉の向こうを何度も確かめなくても、あなたはちゃんと朝を迎えられるわ」


リリアは何も言えなかった。


そんなこと、信じられない。

でも、信じられたらどんなに楽だろうとも思う。


その揺れを見て取ったように、オルタンシアは今度はほんとうに笑った。


「少しずつでいいの。今日はひとつだけ我慢してみる? たとえば、眠る前に廊下の足音を数えない、とか」


胸の奥がひやりとした。


足音を数えていることまで知られている。

知られているのに、恥ずかしいより先に、見つけてもらえたような気がしてしまうのが嫌だった。


「……できない」

「そうね。じゃあ、数えてもいいわ」

「……」

「でも、数えながら、今日は怖くなくなるおまじないをひとつ足しましょうか」


おまじない。


子どもだと思っているのだ、と反発しかけたのに、オルタンシアの顔にはからかいがなかった。


「深く息を吸って、ひとつ吐くたびに、ここにいるって思うの。主塔じゃなくても、ここにいる、って」


その言い方は、ひどく滑らかだった。

まるで本当に、それで足りるみたいに。


リリアは俯いたまま、小さく息を吸った。

試したわけではない。ただ、言われた通りに身体が動いてしまっただけだ。


オルタンシアはそれを見て、褒めたりしなかった。そこがまた、やさしかった。


しばらくしてから、彼女は椅子を立った。


「今日はもう帰るわ」

「……もう?」

「名残惜しい?」


からかうような響きに、リリアはすぐに首を振る。


オルタンシアはくすりと笑った。


「そうね。今日はそれでいいわ」


帰り際、オルタンシアは扉のところで一度だけ振り返る。


「無理に主塔の方へ行かなくてもいいのよ」


その一言が、部屋の中へ静かに落ちた。


エルナは何も言わなかった。

けれどオルタンシアが去ったあと、少しだけ困ったように息をつく。


「……お優しい方ですね」

「……うん」


うなずいてから、リリアは自分の声が少しだけ軽いことに気づいた。


午後のあいだ、その言葉が頭のどこかに残り続けた。


無理に主塔の方へ行かなくてもいい。

ここにいるだけで朝を迎えられる。

怖くなくなるおまじない。


そんなことはないとわかっている。

それでも、その言葉に触れているあいだだけは、胸の奥の張りつめたところが、少しやわらぐ気がした。


夕方、父が西棟へ来たときも、リリアはいつもほど強く肩をこわばらせなかった。


父はそれに気づいたかどうか、部屋をひと通り見てから短く言う。


「火を落とすな」

「はい」

「今夜は風が強い。窓際へ寄せるな」


いつもの指示だ。


けれど今日は、その声が少し遠く聞こえた。

怖いのに、前ほど胸へ刺さらない。


それはよいことのはずなのに、どこか落ち着かない。


父が去ったあと、エルナが寝台を整える。


「今夜は灯りを少し残しますか」


いつもの問いに、リリアは少しだけ迷った。


扉の向こうの灯り。

廊下を通る足音。

主塔の気配。


それを頼りにしていることを、今日は少しだけやめてみたかった。

やめられたら、本当に楽になるのかもしれないと思ってしまったからだ。


「……いらない」


声に出した瞬間、エルナが目を上げる。


「ほんとうに?」

「……うん」


自分でも驚くくらい、小さな声だった。


エルナは少しためらったあと、頷いた。


「では、暖炉だけ残しますね」


扉も、いつもほど開けずにおく。

廊下の灯りは細くしか入ってこない。


それでもリリアは、寝台の中で毛布を握りしめながら、オルタンシアの言葉を思い出した。


ここにいるだけでいい。

深く息を吸って、吐くたびに、ここにいると思う。


ひとつ、吸う。

ひとつ、吐く。


最初のうちは、それで少しだけましになる気がした。


けれど夜は、そのやさしさごと包みこむように深くなる。


暖炉の火が小さく鳴る。

窓の外では風が雪を擦る。

部屋の中は暗すぎないはずなのに、目を閉じるたび、暗がりが寝台の縁へ寄ってくる。


──だいじょうぶ


囁きが、すぐ近くで揺れた。


いつもより、やわらかい。

胸の奥へ直接しみてくるみたいに。


──もう、こわがらなくていい

──無理に近くへ行かなくてもいい

──あなたはそのままで、やさしくしてもらえるのだから


リリアの指が、毛布の上でもがく。


違う。


その言葉は、伯母の声と似ているようで、でも違う。

似ているからこそ、境目が曖昧になる。


「いや……」


吐いた息が震える。


扉の向こうの気配が薄い。

灯りも細い。

主塔はすぐ近くのはずなのに、今夜は遠い。


自分でそうしたのだと気づいた瞬間、胸の中で何かがひっくり返る。


オルタンシアの言葉を信じたかった。

少しだけでも、自分で朝を迎えられると思いたかった。


なのに、足りない。


足りないと知ってしまうことの方が、最初から知らないよりずっと痛い。


息が浅くなる。

喉の奥に甘い匂いが絡みつく。


もう一度、息を吸う。吐く。

ここにいる。ここにいる。

心の中で繰り返しても、暗がりは少しも薄くならない。


──かわいそうに

──ひとりでがんばらなくていいのに


その囁きがあまりにもやさしくて、リリアは毛布の端をきつく握った。


泣きたくなる。

でも泣いたら、もっと何かがほどけてしまいそうで怖い。


寝返りを打つ。

寝台の端へ寄る。

扉の細い隙間の向こうを見ても、いつもの夜ほど安心できない。


やはり足りない。


主塔に近いだけでは、だめだ。

気配だけでは、だめだ。

そう思ってしまう自分が、ひどく情けなかった。


たまらず寝台から半身を起こしかけた、そのときだった。


扉の外で、足音が止まる。


低く、重い、聞き覚えのある足音。


それだけで、胸の中のざわめきが一度に揺れた。


止まったまま、しばらく動かない。

誰かが立っている。


次いで、扉が少しだけ押し開かれた。


細かった灯りが広がる。

廊下の向こうから、黒い影がひとつ、部屋の中を確かめるようにのぞく。


父だった。


リリアは息を詰めた。


どうしてここにいるのかわからない。

見回りの途中なのか、たまたま通りかかっただけなのか。

けれど、父が扉のところに立ったまま一度室内を見た瞬間、喉へ絡んでいたものが少しだけほどけた。


父の視線が、寝台の上のリリアへ落ちる。


「どうした」


低い声が来る。


それだけなのに、涙がにじみそうになった。


答えられない。

答えたくない。

オルタンシアの言葉を試して、失敗したのだと知られるのが恥ずかしかった。


父はすぐには近づかなかった。

扉のそばで一拍待ち、それから部屋へ入る。


暖炉、窓、灯り、扉。

順に見て、最後にリリアへ戻る。


「灯りを絞ったのは誰だ」


問いはエルナへ向けたものだった。


後ろから、起きだしてきたエルナの気配がする。


「……お嬢様が、そう仰って」

「戻せ」

「はい」


短い命令だった。


エルナが慌てて燭台へ手を伸ばし、廊下の灯りも開いた扉から太く入る。部屋の形が少しだけ戻る。


父はそれを見届けてから、今度はリリアの方へ目を落とした。


「苦しいのか」


またずれている。


夜が怖いのだとは、やはり言わない。

でも、そのずれた問いの方が、今はありがたかった。


リリアは小さく首を振った。

首を振ったくせに、目元が熱くなる。


父はその矛盾を責めなかった。


代わりに、寝台の脇へ膝を折る。


「起きるな」


起きようとしていたことまで見抜かれて、リリアは毛布をきつく掴んだ。


父は少し黙ったあと、後ろも見ずに言う。


「以後、日が落ちたあとの面会は禁じる」

「旦那様……」

「伯母君にも伝えろ」


エルナが息をのむのがわかった。


オルタンシア本人はここにいないのに、その場の空気が一度に冷える。


父はそれでも言葉を変えなかった。


「次からは、日中だけだ」


それがオルタンシアへの返答だった。

会話では勝てなくても、夜の線は譲らない。

リリアには、その意味まではっきりわからない。けれど、父が何かを切ったのだということだけは伝わった。


その静かな硬さに、胸の奥が少しだけ楽になる。


父はリリアを見た。


見て、また一瞬だけ止まる。

止まってから、寝台の上の毛布の端だけを整える。


「眠れ」


短い。


命令に近い。

けれど、さっきまで部屋にいたやさしい囁きより、ずっと息がしやすかった。


エルナが灯りを調整し直し、扉もいつもの開き具合まで戻す。

廊下の向こうの気配が、ちゃんと近いところへ戻ってくる。


父は立ち上がる。

そのまま去るのかと思ったら、扉のところで足を止めた。


振り返りはしない。

けれど、そこに立っているだけで夜の形が変わる。


リリアは目を閉じた。


灯り。

扉。

足音。

重い気配。


それが揃うと、さっきまで胸の奥で膨らんでいた甘い囁きが、少しずつ遠のいていく。


泣きたかった。

伯母のやさしい言葉を、少し信じたかったから。

自分ひとりでも大丈夫になれるのだと、そう思ってみたかったから。


でも、だめだった。


だめだったと知ってしまった夜に、父の硬い気配だけが確かな形を持っていた。


眠りに落ちる直前、リリアは毛布の中で小さく指を握った。


やさしい手は、ほどける。

でも、ほどけたあとの夜までは守ってくれない。


そんなことを、幼い頭でうまく言葉にはできなかった。

ただ、その夜の眠りは、伯母が帰ったあとの午後よりも、父が扉のところへ立ったあとからの方がずっと深かった。


翌朝、オルタンシアから届いた小さな花束は、部屋へ入れられる前に侍女の手で別室へ回された。


エルナは何も説明しない。


リリアも何も訊かなかった。


それでも、昨夜のあとで何かが変わったのだと、部屋の空気だけでわかった。


父はやはり、言葉では勝てない。

けれど、夜の線だけは自分の手で引き直す。


そのことが、なぜだか少しだけ痛くて、少しだけ安心でもあった。

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