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一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
第3章 春を連れてくる伯母

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2、言葉では負ける父

オルタンシアが初めて西棟へ来てから、数日ほどのあいだ、部屋にはあの乾いた花の匂いが残っていた。


卓の端に置かれた細い枝は、まだ固い蕾のままなのに、火のぬくもりを含むとほんの少しだけ香る。春というには早すぎる、けれど冬だけでもない匂いだった。


リリアは、その匂いが嫌いではなかった。


好き、と言ってしまうのはためらわれる。

けれど、父の衣や暖炉の煤とは違うものが部屋にあると、それだけで少しだけ息が変わる。そういう変化は、たしかにあった。


だから次にオルタンシアが来たとき、リリアは前より早く顔を上げた。


それだけのことなのに、エルナは気づいたらしい。髪を拭いていた手を止めずに、ほんの少しだけ口元をやわらげた。


「今日は、こちらへお通ししてもよろしいですか」


侍女が問い、エルナがリリアを見る。


リリアは少し迷った。

迷ってから、小さく頷く。


「どうぞ」


オルタンシアは、今回もすぐには部屋の奥まで入ってこなかった。扉のところで一度立ち止まり、やわらかな色の外套を侍女へ預ける。その所作まで静かで、父が部屋へ入るときのように空気を押しのける感じがない。


「こんにちは、リリア」


声をかけられて、リリアは膝の上の指をほどいた。


「……こんにちは」


返事が出たことに、自分がいちばん驚く。


前なら、知らない相手にそんなふうに声は返せなかった。返そうとしても喉のあたりで止まってしまって、結局エルナの袖を見つめることしかできなかったはずだ。


けれどオルタンシアは、それを褒めすぎない。

よくできました、のような顔をしない。

ただ自然に、そうね、というように微笑んで近づいてくる。


その距離の詰め方が、やはり少しだけ父とは違う。


父は今でこそ急に触れなくなったが、それでも部屋に入ればまず空気が父のものになる。どこに立ち、何を見るか、それだけで部屋の形が変わる。

オルタンシアは違う。最初からそこにいた季節みたいに、気づけば近くにいる。


「今日は何をしていたの?」


問われて、リリアは卓の上の絵本を見る。


雪うさぎの絵本は開いたままだった。読んでいたというより、同じ頁を長く眺めていただけだ。


「……ほん」

「まあ。どこまでいったのかしら」

「まだ」

「そう。では、うさぎはまだ逃げきれていないのね」


その言い方がおかしくて、リリアは少しだけ目を瞬かせた。


オルタンシアは、そういうふうに言う。

子ども向けに甘くしすぎず、けれど大人の理屈でも押してこない。


エルナが控えめに茶器を整えるあいだ、オルタンシアは卓の向こうに腰を下ろした。姿勢は崩しすぎず、けれど堅苦しくもない。西棟の部屋に似つかわしい気軽さではないのに、なぜか場違いには見えなかった。


「この部屋、前より少し住みやすくなったのね」


何気ない調子で言われて、リリアは顔を上げた。


「すみやすい?」

「ええ。窓際の風が前よりやわらいでいるし、暖炉の火も強すぎない。扉の灯りも悪くないわ」


見たままを、すらすら言葉にしていく。


父も部屋のことを見る。

鏡、燭台、窓、暖炉、出入りする者。

けれど父は、それを整えるときにいちいち言葉にはしない。言わずに決め、決めたあとで部屋の方を変えてしまう。


オルタンシアは、先に言葉がある。


それだけで同じことが違って見えるのだから、不思議だった。


「でも」


オルタンシアはそこで小さく首を傾げた。


「住みやすいのと、息が楽なのは別だものね」


リリアの指先が、また膝の上で止まる。


「そんな顔をするもの。ここにいても、まだ時々苦しいのでしょう」


エルナが思わず視線を上げるのがわかった。

問いすぎではないか、とでも思ったのかもしれない。けれどオルタンシアは、その目配せにも動じなかった。


やさしい声のまま、ただ待っている。


リリアは返事をしない。

したくないわけではない。

何と言えばいいのかわからないのだ。


苦しい。

怖い。

でも前よりはまし。

それでも、夜になると足りないことがある。


そんなこと、どう言葉にしたらいいのかわからない。


黙りこんだままのリリアに、オルタンシアはそれ以上迫らなかった。代わりに、卓に置かれた細い枝へ手を伸ばす。


「これ、昨日より少しだけ開いたわ」


蕾の先を、指が触れないぎりぎりのところで示す。


リリアもつられて見る。たしかに昨日より赤みがやわらいで、閉じたままの花弁のあいだに、白いものがのぞいていた。


「……ほんと」

「ええ。こういうのは急がせるとだめなの。寒い土地の花ほど、ゆっくりなのよ」


そう言ってから、オルタンシアはふとリリアの方を見た。


「人も少し似ているわね」


意味がわからず、リリアは目を瞬かせる。


「無理に開かせようとすると、傷つくの。あたたかいところへ置いて、待って、少しずつの方がいい子もいる」


その言葉が、自分に向けられているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。


顔が熱くなる。


子ども扱いされた気がして、むっとしたのか。

それとも、見透かされた気がしたのか。

自分でもわからない。


オルタンシアは、その熱を見て取ったのか、くすりと笑った。


「怒った?」

「……おこってない」

「そう。ならよかった」


その答え方がずるい。

怒っていないと言えば、それ以上責めようがなくなる。


リリアは口を引き結び、窓の方へ顔を向けた。

その横顔を見ながら、オルタンシアはひどく静かな声で言う。


「レオンハルトは、あまり上手ではないものね」


父の名前を、なんでもないことのように口にされて、リリアは反射的に振り向いた。


「お父様?」

「ええ。守ることはできるのに、怖がらせないようにするのは下手」

「……」


否定できない。


それが悔しくて、ますます黙るしかなくなる。


オルタンシアはそこへ追い討ちをかけるようなことはしない。ただ、少しだけ肩をすくめる。


「昔からそうだったわ。大切にする相手ほど、変に力が入るの」


その言い方には、呆れもあるが、責める響きはなかった。

それがかえってリリアには不思議だった。父を怖がる人間はたくさん見てきたが、こんなふうに当然のように名を呼び、苦手なところまで言葉にする人は初めてだったからだ。


「お伯母様は」


ぽつりと、声がこぼれる。


オルタンシアが「なあに」と目を細める。


「……こわくないの」


言ってしまってから、少しだけ後悔した。

こんなことを訊いてどうするのか、自分でもわからない。


けれどオルタンシアは笑わなかった。


「少しは怖いわよ」


あまりにもあっさり返ってきて、リリアは目を丸くする。


「でも、怖い人と嫌な人は別でしょう」


その言葉は、リリアの中へすぐには落ちなかった。

怖い人は、怖い人だ。

それだけで充分に遠い。近づきたくない。避けたい。そういうものだと思っていた。


オルタンシアは、ゆっくり続ける。


「怖いから近づきたくないこともある。でも、その人が必ずしもあなたを傷つけたいわけではないこともあるのよ」

「……」

「難しいわね」

「……むずかしい」


小さく返すと、オルタンシアは今度こそやさしく笑った。


そのとき、扉の外で低い足音が止まった。


一度聞けば忘れない、重く短い足音だ。


部屋の空気が、すっと引き締まる。


エルナが立ち上がり、侍女が一礼する。リリアの肩も、考えるより先に固くなった。


父が入ってくる。


黒い軍装は今日も乱れなく、目だけが部屋の中を一度で量る。オルタンシア、エルナ、卓上の枝、開いた絵本、窓辺の椅子に座るリリア。視線はそこを順に通り、最後にリリアの指先へ短く止まった。


膝の上で、また指を握っていたらしい。


リリアは慌てて手をほどく。


「旦那様」


エルナが頭を下げる。


父はそれに軽く顎を動かしただけで、オルタンシアを見る。


「まだいたのか」


会ったばかりの相手に向けるには、ひどく素っ気ない。

けれどオルタンシアは気にした様子もなく、ゆるやかに首を傾げた。


「そんなに追い立てなくてもいいでしょう。少し話していただけよ」

「少しで十分だ」

「この子は、誰かと穏やかに過ごす時間が足りていないわ」

「それはお前が決めることではない」


声は低いままなのに、部屋の温度が変わる。


リリアは二人を見比べた。


父は怖い。

オルタンシアは怖くない。

だから、どちらが勝つかといえば、言葉の上では最初から決まっているように見えた。


オルタンシアはため息のように笑う。


「決めるつもりはないわ。ただ、この子をずっと囲っておけばいいわけでもないでしょう」

「囲っているつもりはない」

「そう聞こえないのよ」


父の眉がわずかに寄る。


けれど、そこでうまい言葉は返ってこない。

否定したいのはわかる。だが、どう否定すればいいのかわからない顔だった。


オルタンシアはそれを見て、少しだけ声をやわらげる。


「怖がっているのよ、レオンハルト。この子は」

「わかっている」

「本当に?」

「だから環境を変えている」


その返答は、父らしいといえば父らしい。

気持ちではなく、まず環境。

けれどオルタンシアの前では、それがどうしても足りなく見えてしまう。


「部屋や灯りだけで済むことばかりではないわ」

「済まないことは俺が見る」

「あなたが?」


オルタンシアが笑う。


声を立てるほどではない、やわらかな笑みだった。けれどその笑みの前では、父の短い言葉はどうしてもぶっきらぼうに見えた。


リリアは、それを見ているのが少し苦しかった。


父が負けているように見えるからではない。

父が言い返せないことの方が、なぜか落ち着かなかったのだ。


父は少し黙ったあと、リリアの方を見た。

その視線は相変わらず短い。まっすぐ届く前に、どこかで一度だけ止まる。


それでも、次に出た言葉はオルタンシアへ向けられていた。


「面会は日中だけにしろ」

「まあ」

「日が落ちる前に帰れ」

「それがあなたの譲歩?」

「条件だ」


オルタンシアは少しだけ目を細める。


「相変わらず、可愛げがないこと」

「必要ない」

「そうね。あなたには昔から、そういうところがあったわ」


その応酬だけ聞けば、父の方がずっと感じが悪い。

けれどオルタンシアは本気で腹を立てているようには見えなかった。むしろ、最初からそういう男だと知っていて、そのうえで言葉を投げているような距離だった。


「わかったわ」


オルタンシアは立ち上がる。


「今日はここまでにする。でも、また来るわよ」

「時間を守れ」

「はいはい」


答えながら、オルタンシアはリリアの方へ目を向ける。


「また来てもいい?」


前回と同じ問いだった。

けれど今度は、父が部屋にいる。


リリアはほんの少し迷った。

迷ってから、やはり小さく頷く。


父の気配が、横でわずかに止まるのがわかった。

けれど何も言わない。


オルタンシアは満足したように微笑んで、扉の方へ向かった。侍女が外套を差し出すと、それを受け取りながらふと振り返る。


「レオンハルト」


父が無言で見る。


「この子に必要なのは、静かな部屋だけじゃないわ」


それだけ言い残して、オルタンシアは去った。


乾いた花の匂いが、かすかに残る。


扉が閉まったあとも、父はしばらく動かなかった。

その沈黙が、さっきまでのやり取りを部屋の中へ重く沈めていく。


エルナが遠慮がちに口を開く。


「お茶をお下げいたします」


「下げろ」


父は短く答えた。


侍女たちが静かに動き出す。枝の入った籠も、卓の端へ寄せられる。けれど香りまでは消えない。


リリアはその匂いの中で、父を見上げた。


父はリリアを見る。

けれど長くは見ない。

一度触れた視線が、すぐに肩口へ滑っていく。


「疲れているなら休め」


それは気遣いなのだとわかる。

けれど、やさしい言葉には聞こえにくい。


オルタンシアなら、もっと違うふうに言うのだろう。

苦しくないか、無理をしていないか、そういうふうに。


けれど父の方は、それが精一杯なのだとも、今は少しだけわかる。


「……つかれてない」


小さく返すと、父はそれ以上は訊かなかった。

ただ扉の方へ向き直り、


「今日はもう人を入れるな」


とだけ言い置く。


エルナが「かしこまりました」と答える。


それで終わりだった。


父は部屋を出ていく。

黒い背が消え、足音が遠ざかる。


残ったのは、乾いた花の匂いと、さっきの言葉の残りだけだった。


この子に必要なのは、静かな部屋だけじゃない。


オルタンシアの声が、まだ耳の近くにある。


リリアは窓の外を見た。

雪はまだ残っている。

けれど、光だけは少し前よりやわらかかった。


父は、怖い。


それは変わらない。

でも、怖いだけではないのかもしれないと、ほんの一瞬だけ思ってしまった。


そのことを、誰にも知られたくなかった。

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