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一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
第3章 春を連れてくる伯母

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1、春を連れてくる人

雪はまだ残っていた。


けれど、窓から差しこむ午後の光だけは、冬の白さとは少し違っていた。冷たいままなのに、どこか薄くやわらかい。石の壁へ当たっても刃のように跳ね返らず、主塔寄りの小さな部屋の中で、淡くほどけるように広がっている。


リリアは窓辺の椅子に座って、その光の端を見ていた。


雪の上を風が走るたび、外はまだ真っ白に荒れる。春というには早すぎる景色だった。けれど今日の西棟には、朝から少しだけ、いつもと違う空気が混じっていた。


乾いた花の匂いがする。


花そのものではない。庭から摘んできたようなみずみずしさではなく、遠くから運ばれてきた包みを開いたときにだけ立つ、乾いた香りだった。薄く甘く、けれど重くない。暖炉の火にあたためられて、部屋の隅へ静かに広がっている。


侍女たちは、その匂いのする箱や布包みを運びこみながら、いつもより少し声を落としていた。


物音が大きいわけではない。むしろ逆で、みな気をつけすぎるほど気をつけている。それなのに、落ち着かない気配だけが部屋のあちらこちらに残っていた。


エルナが、机の上へ小さな籠を置く。


中には香草の束と、まだ蕾の固い枝が入っていた。雪の中から無理やり連れ出されてきたみたいに、枝先だけがかすかに赤い。


「お母様のご実家からですって」


そう言って、エルナは枝先を傷つけないよう布をかけ直した。


母。


その言葉に、リリアのまつげがわずかに動く。


知っているようで、ほとんど知らない人だった。肖像で見た顔、侍女たちが気をつかいながら落とす声、父の前ではほとんど口にされない名前。それくらいしか持っていない。


けれど今日は、その母につながるものが、匂いになって部屋へ入ってきていた。


「どなたか、いらっしゃるの?」


小さく訊くと、エルナは少しだけ迷ってから頷いた。


「はい。奥方様のお姉様が」


姉。


その言葉は、母より少しだけ近い。

けれど、それがどういう人なのかはわからない。


リリアは膝の上で指先を握った。


知らない人が来るのは好きではなかった。顔を合わせる前から何を話せばいいのかわからず、相手の靴音が近づくだけで肩が固くなることが多い。けれど今日は、胸の奥にあるものがいつもの警戒と少し違っていた。


怖い、とはまだ言い切れない。

ただ、落ち着かない。


エルナが髪を整えながら、やわらかく言う。


「無理にお話ししなくても大丈夫ですよ」

「……うん」

「でも、きっとお優しい方です」


お優しい方。


その言い方に、なぜだか少しだけ息が詰まる。


やさしい、と先に言われると、そうでなかったときに困るからだ。

リリアは返事をせず、窓の外へ目を戻した。


やがて、扉の外で衣擦れの音がした。


侍女が一人、静かに一礼する。


「お連れいたしました」


部屋の中の空気が、わずかに変わる。


父が来るときの変わり方とは違う。

あれは刃の向きが変わるような張りつめ方だ。

今のは、窓を細く開けて、冷たいのにやわらかい風がひとすじ入ってきたみたいな変わり方だった。


入ってきた女は、扉のところですぐには進まなかった。


まず立ち止まり、部屋の中を見た。

鏡のない壁。小さな窓。暖炉の火。窓辺の椅子に座るリリア。

そのどれにも急いで触れようとせず、一つずつ確かめるみたいに視線を置いていく。


母に少し似ている、とリリアは思った。


見たことのある肖像の中の女より、目元の線がやわらかい。髪の色も面差しもよく似ているのに、同じ顔には見えなかった。あちらが春の朝のように静かな女なら、こちらは雪どけ水の音を知っている春だった。


「はじめまして、リリア」


声も、思っていたより低かった。

甘くない。けれど冷たくもない。耳に置かれても痛くない声だった。


「わたくしはオルタンシア。あなたのお母様の姉よ」


リリアはすぐには答えられず、エルナの方を見た。


エルナが小さく頷く。


それでようやく、リリアもほんの少しだけ顎を引いた。


女――オルタンシアは、その反応を急かさなかった。にこにこと笑って近づいてくることもない。ただ、扉のところで一度だけ膝を折り、リリアと目の高さを揃える。


「少し近くへ行ってもいいかしら」


その言い方に、リリアは目を瞬かせた。


触れる前に、そう訊かれたことがあまりなかったからだ。


エルナが髪を整えるときも、医師が額へ手をやるときも、先に断りが入ることは少ない。父はなおさらだ。父は最近、急に触れないようにはしている。けれど「いいか」とは訊かない。


リリアは少し迷ってから、小さく頷いた。


オルタンシアは、それを見てから初めて歩き出した。


歩幅は小さく、衣擦れの音も軽い。近づいてくるのに、追いつめられる感じがしない。


椅子のそばまで来ると、彼女はまた止まった。


「ありがとう」


その一言も、妙に自然だった。


礼を言われるほどのことではないのに、そう言われると断れなかった自分を責めずに済む。そんな言い方だった。


オルタンシアの視線が、リリアの顔から肩へ、肩から扉へ、そしてまたリリアへ戻る。


見すぎることなく、でも何も見落としていない目だった。


「このお部屋、少し息がつまるのね」


やわらかく言われて、リリアの指が膝の上で固まる。


「鏡もないし、扉の向こうにはいつも誰かいる。あまり落ち着くお部屋じゃないわ」


責めているようには聞こえなかった。

ただ、見たままを言葉にされただけなのに、胸の奥をそっと撫でられたような気がした。


リリアは目を伏せる。


何か言わなければと思うのに、うまく声にならない。


するとオルタンシアは、それ以上待たなかった。


「夜がこわいのね」


その一言で、喉の奥がひくりと動いた。


誰も、そんなふうに言わなかった。


眠りが浅いとか。夢見が悪いとか。刺激を避けた方がいいとか。みんなそういう言い方をした。けれど、この人は最初から、いちばん触れられたくないところへ、指先ではなく言葉で触れてきた。


なのに、不思議といやではなかった。


「……こわく、ない」


反射みたいに否定すると、オルタンシアは少しだけ目を細めた。


「そう。ならよかった」


否定を責めない。


ほんの少しだけ笑って、でも信じきった顔もしない。

それが変だった。

大人はたいてい、否定されればそこで終わるか、もっと強く問い直すのに。


オルタンシアはそこで話を変えるように、そっと卓上の櫛へ目をやった。


「髪を整えてもいい?」


リリアはまた迷った。


けれど、その問いのやさしさに押されるように、小さく頷く。


「ありがとう」


さっきと同じように礼を言ってから、オルタンシアは椅子の後ろへ回った。


最初のひと櫛が、驚くほど軽い。


引っかからないように、毛先から少しずつ。絡んだところは無理に通さず、指先でほどいてから、また静かに梳く。痛くない。急かされない。ただ髪が揃っていく音だけが、小さく耳元で続く。


こんなふうに、何も身構えずに髪へ触れられることはあまりなかった。


エルナはやさしいが、忙しい。

侍女たちは手際よく整えるが、必要なぶんだけだ。

痛くないように梳かれるだけで、どうしてこんなに落ち着かないのか、リリアにはわからなかった。


「あなたのお母様も、髪を梳かれるのがお好きだったの」


背後から、オルタンシアが言う。


「春が近づくと、窓辺に座ってね。まだ寒いのに、少しだけ窓を開けさせるの。空気が入ると、冬が終わる音がするって」


リリアは目を上げた。


知らない話だった。

母のことなのに、自分は何も知らない。


「お母様……そうだったの」

「ええ。きれいな方だったけれど、案外わがままでもあったのよ」


少しだけ笑いを含んだ声だった。


やさしいだけの、遠い人ではない言い方。

それがなぜだか、胸の奥へすんなり入ってくる。


櫛がもう一度、静かに髪を通る。


「あなた、緊張すると指を握るのね」


はっとして、リリアは膝の上を見た。


両手の指がきつく絡んでいる。


「セレナもそうだったわ」


母の名を、こんなふうに柔らかく言う人がいるのだと、そのとき初めて知った。


部屋の中が、少しだけあたたかい。


暖炉の火のせいだけではない。

言葉が増えたのに、息がつまらない。


「……お母様に、にてる?」


思わずこぼれた問いに、櫛の動きが一瞬だけやわらかく止まった。


「似ているところもあるわ」

「どこ」

「泣くのを我慢するところ」


すぐ背後で言われて、リリアは唇を引き結んだ。


泣いてなどいない。

そう言いたかったのに、声が出ない。


オルタンシアはそれ以上追わず、最後の毛先まで丁寧に整えてから櫛を置いた。


「できた」


そう言われても、鏡がない。


けれどなぜか、見えなくても前よりましになったのだとわかった。


ちょうどそのとき、扉の外で低い足音が止まった。


部屋の空気が、すっと変わる。


エルナの背が自然に伸びる。侍女が一歩退く。リリアの肩も、考えるより先に固くなった。


父だった。


扉が開き、黒い軍装が部屋へ入る。

父はまず、オルタンシアを見た。次にリリアを見る。その視線が、整えられた髪の先にかすかに止まる。


ほんのわずかな間。


けれどオルタンシアは、その間を見逃さなかったように微笑んだ。


「そんなに警戒なさらなくても大丈夫よ」


父は答えない。


視線だけが、部屋の中を一度めぐる。

エルナ。侍女。卓上の櫛。開いている扉。

それから、またリリアへ戻る。


「時間を決めろ」


短い声だった。


オルタンシアは肩をすくめるように笑う。


「相変わらずね、レオンハルト」

「長居はさせない」

「少し話しただけよ」

「それでもだ」


言葉だけ見れば、父の方が感じが悪い。


けれどその響きの下には、拒絶ではなく、線を引く硬さがあった。


オルタンシアはそれ以上争わなかった。

ただ、立ち上がる前にもう一度だけリリアの方を見た。


「また来てもいいかしら」


リリアはすぐには答えられなかった。


父の気配がすぐ近くにあって、部屋の中の空気がまた硬くなっている。けれど、髪の感触だけはまだ指先の届かないところでやわらかく残っていた。


少し迷ってから、ほんの小さく頷く。


オルタンシアの目がやさしく細められた。


「ありがとう」


そう言って、彼女は今度も無理に触れずに部屋を出ていった。


乾いた花の匂いだけが、あとに残る。


扉が閉じたあともしばらく、リリアは膝の上に置いた手を見ていた。


父は何も言わない。


ただ、整えられた髪を一度だけ見て、それからいつものように短く命じる。


「冷える前に戻れ」


その声でやっと、リリアは椅子から降りた。


けれど歩き出したあとも、髪を梳かれたときの感触と、母の話をするあの声だけは、なかなか消えなかった。


怖くない人が来た。


それだけのことなのに、部屋の中の空気が少し違って見えた。

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