西棟の女たち
西棟で長く働く者ほど、声が小さい。
それは慎み深いからではない。
余計なことを口にしない方が長く生き残れると、みな知っているからだ。
特に、あの夜のあとは。
産室のそばにいた者。出入りしていた者。何かを見た者。見たのに言わなかった者。何も知らなかったと言った者。
そういう人間が、ある日からいなくなった。
処刑された者がいる。解雇された者がいる。どこか遠くへ出された者もいる。詳しいことは誰も言わないし、言えない。ただ一つだけ確かなのは、あの夜のそばにいた者は、もう西棟には残っていないということだった。
だから西棟の女たちは、学んだ。
旦那様のことは必要なときにだけ口にする。
奥方様のことは、自分からは話さない。
お嬢様には丁重に接する。
だが、踏み込みすぎない。
それが一番安全だった。
侍女のマルタは、その“安全”を信じてきた一人だった。
お嬢様は手のかからない子だった。
泣き喚いて困らせることは少ない。熱を出しても大騒ぎはしない。寂しいとも甘えたいとも、あまり口にしない。年齢のわりに聞き分けがよすぎて、ときどきこちらが落ち着かなくなるほどだった。
だから世話はしやすい。
食事を運ぶ。
着替えを手伝う。
湯浴みのあとは髪を拭く。
夜は灯りを置いて下がる。
それで足りると思っていた。
正確には、足りると思うことにしていた。
父君が娘へ近づかないのなら、自分たちが余計な情を乗せるべきではない。そう考えていたというより、そうしておけば何も起きないと信じたかったのだ。
けれど、数日前の夜から、その“安全”は崩れはじめた。
最初に聞いたのは、回廊の夜番についていた若い兵の震えた声だった。
「……見たんだ」
「何を」
「旦那様が、お嬢様を」
「まさか」
まさか、で終わる話のはずだった。
ところが翌朝、西棟の部屋へ行ってみれば、鏡が消えていた。燭台の位置が変わっていた。夜番が増えていた。出入りする侍女の顔ぶれまで選ばれていた。
全部、旦那様の指示だった。
そして、その日を境に、お嬢様は西棟の奥の部屋から主塔寄りの小部屋へ移された。
それだけでも十分異様だったのに、決定的だったのは今日の昼だ。
主塔の方から戻ってきたエルナの顔色を、マルタはたぶん一生忘れない。
いつもはどこか穏やかな乳母が、珍しく頬をこわばらせたまま、お嬢様の外套を受け取っていた。部屋へ戻る手つきは丁寧なのに、その指先にはまだ緊張が残っている。何か大きなものを見た人間の顔だった。
「どうしたの」
あとで水差しを並べながらそう訊くと、エルナはすぐには答えなかった。
「……会議室へいらしたの」
「お嬢様が?」
「ええ」
それだけで十分おかしい。
西棟の侍女たちの手が一度に止まる。
誰も口を開かない。
開けば声が裏返るとわかっていたからだ。
ややあって、年長の女が低く言った。
「まさか、扉の外でお待ちだっただけでしょう」
エルナは首を振った。
「中で」
「……中」
「旦那様の」
そこまで言って、エルナは目を伏せた。けれどもう、言い足さなくても伝わっていた。
誰かが、小さく息を呑む。
旦那様の膝の上。
その光景を頭に浮かべた瞬間、場にいた女たち全員が同じものを思ったはずだった。
そんなことがあるわけがない。
でも、なかったことにもできない。
マルタは思わず、白い布を握る手に力を込めた。
黒狼公は、子どもをあやすような男ではない。
領地のことを決め、兵を動かし、必要なら人も斬る。笑いながら甘やかすような人間ではないし、娘にだけ顔を綻ばせるような父でもない。
それなのに、会議の途中で、その膝へ。
「泣いておいでだったの?」
若い侍女が恐る恐る訊く。
エルナはまた首を振った。
「最初は少し……落ち着かれなくて。でも」
「でも?」
「旦那様のところへ行かれてからは、静かでした」
沈黙が落ちる。
誰もそれをすぐには受け止めきれなかった。
お嬢様が、旦那様の近くでだけ静かになる。
その話自体は、ここ数日で薄々わかりはじめていた。夜に主塔寄りへ移されてから、お嬢様の眠りが以前より深くなったこと。廊下の灯りと人の気配を残すよう命じられたこと。西棟にいた頃ほど、夜泣きとも違う不穏な目覚めが減ったこと。
けれど、静かになる、というのと、膝へ乗せる、というのは別だ。
前者は事情かもしれない。
後者は、基準の狂いだった。
マルタは、喉の奥に何か固いものがつかえるのを感じた。
それは恐怖でもあり、奇妙な安堵でもあった。
ずっと、誰も触れないふりをしてきたのだ。
旦那様は娘を見ない。お嬢様も父君のことを口にしない。西棟の人間はその間に立ち入らない。それがこの城の正しい形だと、そう思い込んできた。
だが、その形がもう崩れている。
なら、これから先はどうすればいいのか。
誰より先にその不安を口にしたのは、普段は無口な中年の侍女だった。
「わたしたちも、変えなくてはならないのでしょうか」
その言い方には、戸惑いも、怯えも、少しの願いも混じっていた。
変える、とは何をだろう。
毛布の掛け方を。
夜の見回りの順を。
声をかける間合いを。
お嬢様へ向ける手つきの固さを。
それとももっと別のものをか。
年長の女が慎重に口を開く。
「変えるというより……戻してはならない、のでしょうね」
「戻す?」
「前の通りに、です。見えていないふりをして、聞こえていないふりをして、何も気づかないままお世話だけしていればいい、とは、もう言えないのでしょう」
その言葉に、何人かが目を伏せた。
マルタも同じだった。
見えていないふり。
聞こえていないふり。
まさしく自分たちがしてきたことだ。
お嬢様が夜の鏡をいやがること。灯りの影に目をこわばらせること。夜になると、ただ寒いのとは違う顔色になること。そういう小さな異変を、子どもはそういうものだから、で片づけてきた。
世話は足りていた。
不足はなかった。
けれど、足りないものがあった。
それを認めるのは痛い。
「旦那様は……どこまでお気づきなのでしょう」
誰かが呟く。
その問いには、誰も答えられなかった。
全部かもしれない。
何も知らないのかもしれない。
ただ、お嬢様を近くへ置いた方が静かになると知ったから、そうしているだけかもしれない。
けれど、どれであっても一つだけ確かなことがある。
旦那様はもう、お嬢様を以前の場所へ戻すつもりがない。
その確信が、西棟の女たちの背筋を冷たくした。
同時に、奇妙な責任を与えもした。
もう以前のようには扱えない。
最低限だけして、あとは一歩引いていればいい、では済まない。
黒狼公が基準を変えたのなら、西棟も変わらざるを得ない。
マルタはその夜、自分が運ぶ灯りの位置をいつもより少しだけ寝台から遠ざけた。
暖炉の火が強すぎないかを、部屋を出たあとでも確かめた。
扉を閉めるとき、以前よりほんの少しだけ細く開けたままにした。
それだけのことだ。
たったそれだけなのに、指先が震えた。
まるで新しい作法を覚えるみたいだった。
部屋の外へ出ると、若い侍女が待っていて、小さな声で訊いた。
「……これで、よろしいのでしょうか」
マルタはすぐには答えられない。
正しいかどうかなど、誰にもわからない。
ただ、以前のままではだめなのだと知っているだけだった。
「旦那様のご指示に背かないように」
「はい」
「でも、それだけでもないのだと思います」
言ってから、自分でも驚いた。
若い侍女は目を丸くする。
マルタも、胸の内側が妙に落ち着かない。
それだけでもない。
では何なのか。
たぶん、ようやく目を向けるということだ。
お嬢様が何を嫌がり、何に怯え、どんなときに少しだけ楽になるのかを、見ておくということだ。
今までは、それをしてこなかった。
してはいけないと思っていた。
けれど違ったのかもしれない。
西棟の回廊は夜になると冷える。
石壁の向こうを風が鳴り、遠くで兵の交替の足音が響く。主塔の方にはまだ灯りが残っていた。
その灯りを見ながら、マルタはふと立ち止まった。
主塔の近くへ移ったあのお嬢様は、今夜も少しは眠れるのだろうか。
旦那様は、またあの部屋の前を通るのだろうか。
通ったとして、それが偶然ではなく、もう習いになってしまうのだろうか。
考えたところで答えは出ない。
けれど、西棟の女たちはもう知ってしまっている。
お嬢様は、旦那様の近くでだけ静かになる。
そして旦那様は、それを見てしまった。
見てしまったものを、なかったことにはできない。
その事実だけで、西棟の空気は以前よりずっと重く、同時に、ほんの少しだけやわらかくなっていた。
翌朝、主塔側の部屋へ運ぶ白湯の湯気を見ながら、マルタはひそかに思った。
あのお嬢様が、今度こそちゃんと見てもらえる日が来るのかどうかは、まだわからない。
けれど少なくとも、見ないままで済ませようとする時間は、もう終わりはじめている。
それだけは確かだった。




