3、会議室の膝
主塔に近い部屋へ移ってから、数日が過ぎた。
日ごとの数をきちんと数えていたわけではない。けれど、扉を閉めきらない夜と、廊下へ残される灯りと、暖炉の火加減に、体が少しずつ慣れていくのはわかった。
眠れる夜が増えた。
その事実は、救いより先に重たかった。
朝になって、エルナが「昨夜はよくお休みでしたね」と言うたび、リリアは小さく頷くだけで、それ以上は何も言えない。
昼のあいだは、まだましだった。
西棟の奥にいた頃より人の気配は多いが、代わりに何もかもが整っている。食事の時間も、昼寝の時間も、読書の時間も、以前よりきっちり決められていた。
エルナだけが、そこへ少しだけ人らしいぬくもりを混ぜた。
「今日は雪が強うございますね」
「お外が白くて、まぶしいですね」
「お嬢様、こちらの絵本はもうお読みになりましたか」
そんな小さな言葉たちが、閉じた部屋の空気をどうにか柔らかくしてくれる。
けれど、その日、昼寝のあとに目を覚ましたとき、胸の奥には久しぶりにいやなざわめきが溜まっていた。
夢を見た気がした。
何の夢だったのか、もう思い出せない。ただ、起きたあとも喉の奥に甘い匂いが残っているようで、息を吸うたび胸が薄く痛む。
窓の外では風が強く鳴っていた。雪が石壁を擦る音が、細い爪で引っかくみたいに続いている。
「お目覚めになりましたか」
エルナが声をかける。いつも通りのやさしい声なのに、今日はそれが少し遠く聞こえた。
リリアは返事をしないまま起き上がった。
寝台の縁を掴んだ指先が冷たい。暖炉の火はちゃんとあるのに、体の芯がうまく温まらない。
「白湯をお持ちしますね」
エルナが立ち上がりかけたとき、廊下の向こうで、低い声が重なった。
扉は今日も細く開いている。廊下をまっすぐ行った先、角をひとつ曲がれば主塔の執務室や会議室がある。そのあたりで、男たちの声がいくつも重なっていた。
言葉の中身は聞き取れない。けれど、その中にひとつだけ、わかる気配がある。
黒い軍装の匂い。冷たい鉄の音。短く切るような声。
それを感じた瞬間、胸のざわめきがほんの少しだけほどけた。
気づいて、ぞっとする。
視線だけが、何度も扉の向こうを追ってしまう。
その日の昼は、何をしても落ち着かなかった。
絵本を開いても、文字が頭に入らない。積み木に触れても、指先が重い。エルナが窓辺の椅子へ連れていってくれても、雪を眺めるうちに胸のざわめきばかりが大きくなる。
「少し、お熱があるのかしら」
エルナが額へ手を伸ばす。前よりずっと自然な手つきになっている。そのぬくもりは嫌ではなかった。
けれど、違う。
熱ではない。
何かが近いところにあり、それが扉一枚向こうでは足りない、という妙な感覚が、どうしても消えない。
エルナは困ったように眉を寄せ、それでも無理に問い詰めはしなかった。
「では、少しだけ歩きましょうか」
リリアは頷ききれないまま、差し出された手に指を乗せた。
廊下へ出ると、昼でも空気はひんやりしている。石の壁は静かで、遠くの部屋の声や足音を細く通す。西棟の奥では聞こえなかった硬い音が、ここでははっきりわかる。
ふたつ先の角を曲がったところで、男の声が少し大きくなった。
会議をしているのだと、子どもにもわかる。誰かが報告し、誰かが短く返し、また別の声が続く。低い声ばかりの重なりは、普通なら落ち着かないはずなのに、その中へ混じるひとつの気配だけが、胸の内側を静めていく。
エルナも、それに気づいたらしかった。
足が止まる。
「……お嬢様」
この先へ連れていっていいのか、迷っているのだ。
すると、ちょうどそのとき、会議室の扉がひらいた。
中からカイが出てくる。父の副官だ。主塔の近くに移ってから何度か見かけたが、いつも忙しそうで、こちらへ声をかけることはほとんどない。だが今は、廊下の端に立つリリアとエルナを見て、はっきり足を止めた。
「お嬢様」
驚いたような声ではあったが、咎める響きはなかった。
エルナがすぐに膝を折る。
「申し訳ございません。少し落ち着かれなくて」
カイの目が、リリアへ移る。
会議室の中から、別の男の声が聞こえる。
「ルーヴェン卿?」
それに続いて、低い声が短く問うた。
「どうした」
父の声だった。
カイは一瞬だけためらい、それから扉の向こうへ振り返る。
「お嬢様が」
言い終わるより先に、会議室の内側の空気が変わったのがわかった。
次の瞬間、父が扉口へ現れる。
昼の灯りの下でも、その姿はやはり黒かった。軍装の線はきっちりと乱れなく、灰銀の目だけがこちらを見る。部屋の中にいた他の男たちは見えない。けれど、何人もの視線が背後から流れてきているのがわかった。
リリアの足がすくむ。
けれど父は、叱るより先に、ただリリアを見た。見て、それからエルナへ視線を移す。
「具合は」
「熱はございません。ただ、少し……」
エルナが言葉を濁す。
父は黙ったまま一歩だけ近づいた。
その気配に肩が固まる。
けれど、父は抱き上げない。触れない。ただ少し身をかがめて、リリアの顔と同じ高さへ目線を落とした。
「来るか」
短い声だった。
命令とも、問いともつかない。
リリアはすぐには答えられない。
行きたくない。男ばかりの部屋は怖い。低い声も、紙をめくる音も、机へ置かれる金属音も、全部落ち着かないはずだ。
それなのに、扉の向こうから流れてくる父の気配が、そこにしかない静けさを持っている。
黙ったままのリリアを見て、父はそれ以上促さなかった。無理に手を引くこともしない。ただ待つ。
その待ち方が、余計に逃げ道をなくした。
リリアはほんの少しだけ、頷いた。
会議室の中はあたたかかった。
暖炉の火がよく入っているせいもあるが、それ以上に、人の数が多い。大きな机の上に地図や書類が広げられ、年配の家臣や武官たちが立ったまま、あるいは椅子に腰かけたまま、父が戻るのを待っていた。
その全員の視線が、一瞬だけリリアへ向いた。
胸が縮む。
こんなところにいてはいけない。自分は西棟へ戻るべきだ。そう思うのに、扉のところで足が動かない。
父はもう席へ戻っていた。
部屋の中央ではなく、長机の端。立てかけてあった剣がその脇にある。その近くにいるだけで、夜の匂いが少し薄くなる。
「続けろ」
父がそう言うと、会議が再開した。
誰も異を唱えない。
娘がここにいること自体がおかしいのに、父が許せば、それはもう許されることになる。
エルナがどうすべきか迷っている気配が後ろから伝わってくる。けれど父はもうこちらを見ていない。資料へ目を落とし、男たちの報告を聞き、必要なことだけを短く返している。
リリアは扉口のところで立ち尽くしたまま、指先を握った。
男たちの声は重い。地図の上を指が滑る音、紙の擦れる音、硬い靴底が床を踏む音。普通なら耐えられないはずのものばかりだった。
なのに、少しずつ息が戻ってくる。
「お嬢様」
エルナが小さく呼び、そっと抱き寄せようとした。その手が肩へ触れるより先に、リリアの体がこわばる。
びくりと揺れたその動きを、父は見逃さなかったらしい。
視線だけがこちらへ向く。
灰銀の目が細くなり、それから机の下の自分の膝をわずかに叩いた。
呼ぶような仕草だった。
リリアは固まる。
父はもう二度目はしない。ただそこに、当然のことみたいに片手を置いている。
「来い」
短い。
命じる声に近いのに、不思議と逃げたくなるばかりではなかった。
リリアは半歩、また半歩と進む。
会議室の床は広すぎる。大人たちの靴が近い。誰も笑わない。誰もやさしい顔をしない。その緊張の真ん中に、父だけがいつも通りの顔で待っている。
机の端へ辿り着いたところで、リリアは立ち止まった。
男たちの声が少し重なり、紙を押さえる手が机を鳴らした。その硬い音に肩が跳ねる。
体が勝手に動いた。
机の端へ手をつき、助けを求めるみたいに父の軍装を掴む。
父はそこで初めて手を伸ばした。
急ではない。
侍女から子どもを受け取るような慣れた動きでもない。
ぎこちなく、それでもためらいなく、脇の下へ手を入れて持ち上げる。昨夜よりはるかに人目のある場所で、その腕は同じように硬かった。
リリアは息を詰めた。
けれど、持ち上げられた先が床ではなく、父の膝の上だったとわかった瞬間、胸のざわつきがすうっと薄れる。
会議は止まらない。
父も止めない。
片腕でリリアの腰を支えたまま、もう片方の手で書類をめくり、報告へ短く返していく。まるでそこに幼い娘がいることが、最初から予定に含まれていたみたいに。
部屋の空気が、ほんの一瞬だけ乱れた。
誰も口には出さない。けれど、家臣たちの沈黙が、今見たものの異常さをそのまま物語っている。
黒狼公が娘を抱いた、ではない。
黒狼公が会議の最中、当然のように娘を膝へ乗せた。
その事実が、部屋の中の基準を静かに壊していた。
リリアは父の軍装に手を置いたまま、じっとしていた。
怖い。
こんな近くにいるのは、まだ怖い。
けれど、衣の下の体温と、低く響く声と、迷いなく仕事を続ける気配に包まれていると、昼から引きずってきたざわめきが、少しずつ沈んでいく。
報告の途中で、一人の武官が言葉を切り損ねた。
視線がこちらへ逸れたからだろう。すぐに顔を戻したが、遅かった。
父の目がわずかに上がる。
「続けろ」
たった一言で、その男は青ざめるようにして口を開き直した。
それ以上、誰も余計なものを見ないふりをした。
リリアは父の胸元あたりを見つめていた。
上を向けば顔が近すぎる。まっすぐ見るのはまだ無理だった。
けれど、一度だけ、資料を受け取る父の手が止まるのがわかった。
ほんのわずかな一拍。
どうしたのだろうと思って、思わず顔を上げる。
その瞬間、父の視線がこちらへ落ちた。
まっすぐ、ではなかった。見ようとして、途中でどこか別のものに触れたみたいな止まり方だった。灰銀の底が一瞬だけ冷え、次の瞬間にはもう消えている。
父は何も言わず、リリアの頭を自分の胸側へ軽く寄せた。
会議は終わるまで続いた。
領境の見回りのこと。雪で閉ざされる道のこと。冬の備蓄のこと。リリアには意味のわからない話ばかりが、低い声の中で行き来していく。
途中で何度か眠気が来た。
眠ってはいけない、と思う。こんなところで、こんなふうに。
けれど、父の膝は思ったより揺れず、会話の振動だけがゆっくり背へ伝わってくる。それが不思議に心地よくて、まぶたが何度も落ちかけた。
「本日は以上で」
最後にそう言ったのはカイだった。
椅子が引かれ、男たちが一斉に頭を下げる気配がする。けれど、リリアはもう顔を上げなかった。上げたくなかった。
父もすぐには立たない。
家臣たちが部屋を出ていくまで、片手で資料をまとめながら、もう片方でリリアが落ちないよう支えている。その手つきだけが妙に確かだった。
やがて部屋の中の人数が減り、空気がゆるむ。
「……お嬢様」
エルナが近づいてくる。その声に、ようやく現実へ引き戻される。
リリアははっとして体をこわばらせた。
何をしているのだろう、自分は。
会議室で。父の膝の上で。眠りかけて。
胸の奥が一気に熱くなる。慌てて降りようとして、足元がもつれる。
父はその動きを見て、何も言わず、ただ支える手に少しだけ力を込めた。
「落ちる」
短い注意だった。
その声で、かえって少しだけ落ち着く。
エルナが手を伸ばし、今度はリリアもそれを拒まなかった。父の膝から下ろされ、足が床へつく。たったそれだけの距離なのに、急に寒くなった気がして、リリアは唇を噛んだ。
カイが書類を抱えたまま、いつもより少しだけ不思議そうな顔でこちらを見ている。最後まで残っていた家臣たちも、誰も口にはしないが、見てしまったものの意味をそれぞれ量っているようだった。
父はもうその視線に構わなかった。
「今後、昼のあいだは隣室を空けておけ」
カイへ向けて言う。
「会議が長引く日は、エルナを近くへ置け」
「……承知いたしました」
カイの返事が一拍遅れたのは、命令の意味を飲み込んだからだろう。
父はさらに続ける。
「西棟へ戻す必要はない」
その短い一言で、また何かが決まってしまう。
リリアはエルナの袖を握った。
自分の知らないところで、昼の過ごし方まで変わっていく。夜だけではない。主塔へ近い部屋へ移されたことが、もっと別の形へ広がっていく。
会議室を出ると、廊下の空気が妙に軽かった。
さっきまでそこにいた家臣たちがすれ違うたび、目礼はするのに、誰もまっすぐリリアを見ない。見るべきではないものを見てしまったあとの遠慮と、あの子はもう以前の西棟の娘ではないのだという理解が、半端に混ざった視線ばかりだった。
エルナが部屋へ戻る道すがら、小さく息を吐いた。
「……驚きました」
本当にそれだけを言う。
リリアは答えなかった。
会議室の膝の硬さも、軍装の匂いも、低い声の振動も、まだ体のどこかに残っている。
怖かった。
本当に怖かった。
けれど、それでも静かになってしまった。
部屋へ戻ると、暖炉の火はいつも通りに揺れていた。
エルナが外套を脱がせ、椅子へ座らせる。白湯を差し出され、リリアはそれを受け取った。両手の中のぬくもりが、さっきより頼りなく感じる。
廊下の向こうで、また誰かの足音が止まる。
主塔の気配は相変わらず近い。
もうそれだけでは足りないのかもしれない、と、思ってしまう。
認めたくないのに、昼のあいだにまでそれを知ってしまった。
その夕暮れ、西棟では侍女たちの間に、抑えたざわめきが広がっていた。
表立って囁く者はいない。けれど、水差しを運ぶ手つきの端や、扉を閉めるときの目配せに、同じものが滲んでいる。
お嬢様は、旦那様の近くでだけ静かになる。
しかも旦那様は、それを人前でも隠さなかった。
その事実が、まだ主塔の石壁の熱を帯びたまま、西棟の隅々へ沁みていく。
そしてその日の夜、リリアが湯浴みを終えて髪を拭かれているとき、西棟の侍女がひどく慎重な顔で告げた。
「お客様がお見えです」
エルナが眉をひそめる。
「この時間に?」
侍女はさらに声を落とした。
「奥方様のご実家から……お伯母様が」
その呼び名に、リリアは顔を上げた。
伯母。
知らないはずの人なのに、その言葉だけが、雪の夜に差す細い春の日差しみたいに聞こえた。
けれど同時に、胸の奥のどこかで、夜とは別のざわめきが小さく揺れた。




