2、主塔に近い部屋
新しい部屋で迎えた朝は、前の部屋より静かだった。
静かすぎて、リリアは目を開けたまましばらく動けなかった。
西棟の奥にいた頃は、朝になるとどこかで水桶の音がして、廊下を行き来する足音がして、遠くの窓が開く気配があった。けれどここは違う。音がないわけではないのに、全部が遠い。扉の向こうで兵が交替する靴音も、誰かが暖炉の火を見に来る気配も、必要なぶんだけ薄く整えられているみたいだった。
エルナが湯気の立つ盆を持って入ってくる。
「お目覚めですか」
見慣れた顔があるだけで少し肩の力が抜けるのに、そのすぐあとで、ここにもエルナがいるのだと思い当たって、また胸がざわついた。
エルナは寝台のそばへ来ると、前の部屋の頃より慎重に膝を折った。
「よくお休みになれましたか」
問いかける声も、どこか探るようだった。
リリアはすぐには頷けず、視線だけを落とす。
眠れた、と言えば、それが何を意味するのか自分でもわかってしまいそうだった。
「……わからない」
幼い声でそう返すと、エルナは少しだけ困ったように笑った。
「そうですね。急にお部屋が変われば、落ち着きませんよね」
その言い方が、救いにも、逃げ道にも聞こえる。リリアはそれにしがみつきたくなって、小さく頷いた。
部屋は昨夜よりさらに整えられていた。
窓辺には細い机が置かれているが、鏡はやはりない。暖炉の火は強すぎず、燭台は寝台から遠い位置に一つだけ。厚い絨毯が敷かれ、扉の下から吹きこむ冷気もほとんどない。
そして扉の外には、いつも誰かがいる。
朝の支度のあいだも、昼前の読書の時間も、誰かの気配が近くにある。西棟の奥にいた頃にはなかった視線が、扉一枚向こうに貼りついているようで、リリアは何度もそちらを見てしまった。
昼前、主治医のハロルドが呼ばれた。
白い髭をきれいに整えた年配の男は、子ども相手にも妙にきっちりと礼を取る。
「お加減はいかがですかな、お嬢様」
「……ふつう」
「よろしい。では、そのふつうがどのくらいのふつうか、少し拝見しましょう」
淡々とした口調に少しだけ緊張がほどける。ハロルドは脈を見て、喉を見て、目の下の薄い影を確かめた。昨夜どれほど眠れたか、夢は見たか、息苦しさはあったか。問いはどれも短い。
答えながら、リリアは知らないふりをした。
主塔に近いから少しましだったのだとは、言えない。
ハロルドが診察を終え、乳母に何事か伝えようとしたとき、扉の外で低い声がした。
「白湯は先に飲ませろ」
声だけで、誰かわかる。
リリアの指先がぴくりと震えた。
ハロルドが扉の方へ軽く頭を下げる。
「承知しております」
「薬はそのあとだ」
「はいはい、わかっておりますとも」
医師の返事は軽かったが、扉の向こうの気配はそれでようやく遠のいた。
エルナが、少し笑いをこらえるような顔で杯を差し出してくる。
「先に白湯を、と」
そう言われるだけで、胸のあたりが妙に落ち着かなくなる。
どうしてそんなことまで知っているのだろう。
どうして父は、部屋の位置だけでなく、朝に口へ入れるものの順番まで決めるのだろう。
白湯を飲みながら、リリアは答えの出ないまま目を伏せた。
昼過ぎには、部屋の外の空気まで変わっていた。
侍女たちは前より口数が少ない。慣れない緊張のせいか、動きは丁寧なのに少し硬い。兵たちは必要以上に目を向けてこないが、見ていないわけでもない。何かが決まってから皆が同じ方向を向くときの、あの息苦しい整い方が、ここにはもう満ちていた。
エルナだけが、以前と同じように話しかけてくれる。
「今日は絵本にいたしますか、それとも積み木にいたしますか」
「……えほん」
「では、雪うさぎのお話にしましょうね」
読み聞かせのあいだ、リリアは何度か扉の方へ目をやった。
遠くで扉が開く音がするたび、廊下を硬い足音が過ぎるたび、胸のざわつきが少しだけ変わる。強くなるのではない。逆だ。どこかであの気配が近くにあるとわかると、喉の奥にひっかかっていたものが、ほんの少しだけ薄くなる。
その変化に気づくたび、自分が自分でなくなるみたいだった。
夕方、雪が降り始めた。
小さな窓にも白い明るさがにじみ、部屋の中が早くから青く暗くなる。火の色が浮きはじめる時間だ。
その頃から、胸の奥にじわじわといやなものが溜まりはじめた。
夕食は部屋でとった。前の部屋より量は少なめで、温かい汁物がついている。エルナが「今夜はお早めに休みましょうね」と言う声はやさしいのに、リリアにはそれが夜の到来を告げるみたいに聞こえた。
食後、湯でぬらした布で手を拭われ、髪をほどかれ、寝台へ入れられる。
エルナが毛布を整えながら小さく訊いた。
「今夜は灯りをもう少し残しますか」
リリアは首を振りかけて、止まった。
灯りが多いと影が揺れる。少ないと暗がりが寄る。どちらもいやだ。けれど今の部屋は、西棟の奥の夜と少し違う。扉の向こうに人がいて、主塔へ続く廊下のどこかにまだ灯りがある。その曖昧な近さだけが、心のどこかに引っかかっていた。
「……このまま」
細い声で答えると、エルナは静かに頷いた。
やがて部屋から人が減る。
最後に残ったエルナが、扉を細く開けたまま一礼して出ていく。閉じきらない扉の向こうに、灯りが一本の線になって残った。
それを見た瞬間、ほんの少しだけ呼吸が楽になる。
寝返りを打つ。
毛布の中で丸まっても、夜はちゃんといる。窓の外の雪明り。暖炉の火がぱちりと鳴る音。遠くの見回りの靴音。胸の奥を撫でる、甘いような冷たいような気配。
──だいじょうぶ
誰かが、耳のすぐそばで囁いた気がした。
リリアはぎゅっと目を閉じる。
──ひとりじゃない
──こわいなら、もっとやさしいところへ行けばいい
「いや……」
かすれた息が漏れた。
手が、勝手に毛布の上でもがく。指先が何かを探すみたいに空を掴む。胸が苦しくて、息を深く吸えない。
主塔に近いのに、足りない。
そう思ってしまった瞬間、自分への嫌悪が湧いた。
それでも体はもう起き上がっていた。
毛布をはね、冷たい床へ足を下ろす。寝台の縁を掴み、ふらつきながら立つ。扉の方へ、一歩、二歩。
開ききらない扉の隙間は、子ども一人が抜けるには十分だった。
廊下は暗い。けれど真っ暗ではない。壁際の燭台が等間隔に灯り、遠くへ行くほど影が重なる。
扉脇にいた兵が驚いたように目を見開いた。
「お嬢様」
その声だけで、リリアはびくりと肩を震わせた。
止まらなければと思うのに、足はもう主塔の方へ向いている。兵はすぐには触れてこなかった。代わりに、少し離れてついてくる気配がした。
廊下の角をひとつ曲がる。
主塔へつながる回廊は、西棟のそれより空気が硬い。石壁は厚く、窓は小さい。冷たいのに、不思議と息は詰まらなかった。遠くで扉が開閉する音がするたび、胸の奥のざわつきが少しずつ形を失っていく。
足音が近づいてきたのは、回廊の半ばだった。
低く、重い、聞き覚えのある足音。
リリアは顔を上げた。
黒い軍装が灯りの中から現れる。副官のカイが一歩後ろに控え、その前を父が歩いてくる。夜の仕事の途中なのか、肩に雪の白さが少しだけ残っていた。
見つかった、と思う。
体が先にすくむ。
父も歩みを止めた。
灰銀の目がリリアに落ちる。真正面から射抜くようなその視線に、喉がひゅっと狭くなった。逃げたいのに、足が動かない。
カイが何か言いかけるより先に、父が片手で制した。
「下がれ」
短い声だった。
兵も副官も、一歩ずつ距離を取る。
回廊には、リリアと父だけが残ったみたいだった。
父はすぐには近づかなかった。
ひと呼吸置いて、それから膝を折る。
「どうした」
声は低いが、昨夜より硬くない。
リリアは口を開いた。何か言わなければと思うのに、喉がつまって声にならない。夜の囁きのことも、息が苦しいことも、主塔に近いだけでは足りなかったことも、何一つ言えない。
ただ、目の前にある黒い衣の端だけが、妙にはっきり見えた。
次の瞬間、指が勝手に動いていた。
ぎゅ、と、父の上着の裾を掴む。
掴んでから、リリアは凍りついた。
何をしたのか、遅れてわかったからだ。
手を離さなければ。こんなことをしてはいけない。触ってしまった。自分から。怖い人に、自分から。
離したいのに、指が開かない。
父はその手を見た。
見たまま、動かない。
振り払わない。無理にほどこうともしない。抱き上げもしない。ただ、リリアの指が自分で離れるのを待つみたいに、じっとしている。
その静けさが、かえってありがたかった。
急に触れられないだけで、息が少し戻る。
リリアは俯いたまま、裾を掴んだ手に力を入れた。
情けない。みっともない。こんなふうにしがみついてしまう自分がいやだ。
けれど、離したらまた夜が寄ってくる気がした。
父の視線が、頭の上に落ちる。
「……寒いのか」
問いがずれている。
それが、少しだけ救いだった。
リリアは小さく首を振る。
父はそれ以上、言葉を重ねなかった。
代わりに、後ろへ向けて声を飛ばす。
「毛布を」
すぐにカイが動き、部下から厚手の外套を受け取ってくる。父はそれをリリアの肩へかけた。今度は急に触れない。前からではなく、背中側からそっと落とすように。
「戻るぞ」
命令の形なのに、引き剥がす力はない。
リリアは頷けなかった。
代わりに、裾を掴んだまま立っていた。
父はその沈黙を責めない。立ち上がるときも、リリアの手が離れやすいよう少しだけ動きを緩めた。だが離れなかったのを見ると、何も言わず、そのままゆっくり歩き出す。
裾を握ったまま、リリアもついていく。
歩幅が違いすぎるはずなのに、父は最初からそれを知っていたみたいに歩みを遅くした。
新しい部屋の前まで来ると、エルナが蒼白な顔で待っていた。泣きそうな顔で一礼し、すぐにリリアへ手を伸ばしかけて、父の視線に気づいたのか止まる。
「申し訳ございません」
父は叱責しなかった。
「扉は閉めるな」
それだけ言う。
「夜半は外に一人、中に一人置け。交替はなし」
「灯りは廊下にも残せ」
命令は短い。
短いのに、夜そのものの形が変わっていく。
父はそこでようやくリリアを見下ろした。いや、見下ろしたというより、裾を掴んだ手に気づき直したのかもしれない。
リリアも同じように、自分の指がまだ黒い布を握っていることへ遅れて気づいた。
熱くなる。顔が上げられない。
慌てて手を離すと、指先が冷えて痛かった。
父は何も言わなかった。
ただ、そのまま部屋へ入るよう目で促す。
エルナが今度こそ慎重に手を差し出し、リリアはそれに縋るようにして中へ戻った。寝台に座らされ、肩の外套を外される。父のものらしい重い布の匂いが離れると、急に胸のあたりがすうっと寒くなった。
父は扉の前に立ったまま、部屋の中を一瞥する。
「火は弱すぎる」
エルナが慌てて暖炉へ向かう。
「眠らせろ」
それだけ残して踵を返す。
今度こそ、黒い背が扉の向こうへ消えていく。
リリアはそれを引き止めなかった。
それでも、扉が開いたままになっているのを見て、肩から力が抜ける。
廊下の灯りが細く部屋へ差しこみ、その向こうで誰かの気配がじっと動かない。
完全にひとりではない。
エルナが寝台の端へ腰かけ、静かな声で言った。
「こわかったですね」
その一言で、胸の奥がまた痛くなる。
こわかった。
父が。夜が。自分が。
こわいのに、さっき回廊で、裾を掴んだだけで息ができた。
そんな自分が、いちばんこわい。
「……ねむる」
小さく言うと、エルナは「はい」とだけ答えた。
寝台へ横になる。
今夜の扉は開いている。廊下の灯りも残っている。暖炉の火も少しだけ強くなった。毛布の重さも、昨夜より体に合っている。
全部、誰かが決めたことだ。
目を閉じると、また胸のどこかで小さな囁きが揺れた。けれど、回廊で聞いた重い足音の記憶が、それを押し返す。
遠くで扉が閉まる音がした。
主塔のどこかで、まだ誰かが起きている。
その気配があるだけで、まぶたが重くなる。
眠りの底へ沈みながら、リリアは誰にも聞こえないくらい小さく唇を噛んだ。
主塔に近いだけでは、もう足りないのかもしれなかった。
翌朝、エルナは昨夜より深く眠っていたと嬉しそうに言った。
リリアは何も答えなかった。
眠れた理由を、自分がいちばん知ってしまっていたからだ。




