第12話 亡霊の顔
その夜、用意された部屋の窓を、アサドは開けたままにしていた。
風がカーテンを揺らし、遠くの森のざわめきが、かすかに耳に届く。
部屋の灯りは落とされ、月光がベッドの上に白く伸びていた。
アサドは机の前に座ったまま、鞄から短剣を取り出す。
鞘の焼き印――J.D.を、指先でなぞる。
(……ジャック・ダーク。母さんの父……僕の、祖父)
初めて知った名だった。
けれど、その名がこの刃に残されていたことに、不思議と納得があった。
母が、最後まで何も語らなかった過去。
それを、弟は手探りで追い求めて、こうして旅に出た。
アサドはそっと、鞘の内側に指を滑らせる。
そこには、もう紙切れはなかった。
代わりに、ほんの少しの空虚だけが、皮と縫い目の隙間に残っていた。
(ウサマは……あの紙に、気づかなかったんだ。馬鹿だな)
思わず、小さく苦笑した。
気づかなかった――ではなく、気づこうとしなかったのかもしれない。
(……いや、馬鹿なのは僕の方だ。あいつは、あの時、ひとりで行くつもりだったんだな)
兄の助けも、紙の名も、何も背負わずに。
そして、自分もまた。
その背を、こうして追ってきたけれど、気づけば、ウサマが残していったものを、ひとつ、またひとつと拾いながら歩いている。
(それでいいか。僕は、僕の役目を果たす)
静かに立ち上がると、アサドは短剣を再び鞄に戻した。
これが、母から譲られたもの。
そして、祖父から母へ。家族の記憶の断片。
今は、それを守る者として旅をしている――
そんな気がしていた。
その翌日の午後――
アサドはホープに案内されて、ノクシアル邸の奥、客間の前に立っていた。
「本当の親戚なんだ。ぼくの家族を、君に紹介したい」
ホープはそう言って扉を見た。
「親戚……なんですね。不思議な感じがします」
アサドは少し戸惑いながら、頷いた。
聖地の家にはたくさんの人が出入りしていた。血の繋がる兄弟も、繋がらないおじさんや、オス・ローの子ども達、みんな『家族』だと思っていた。
それが、ここでは違うようだ。
「……まず、妻に、君を紹介しておきたいんだ」
「はい」
アサドが頷くと、ホープは軽くノックをした。
中から「どうぞ」という声が聞こえた。
低く落ち着いた女性の声。
扉が静かに開かれた。
アサドはホープの後ろに続き、慎重な足取りで部屋に入る。
そこにいたのは、ノクシアル邸の女主人、ラシェルだった。
整えられた金髪と、深い蒼の瞳。柔らかくも重みのあるドレスをまとい、貴族の気品を自然に身に纏っていた。
アサドはその姿を一目見て、息を呑みそうになった。
彼女の視線が、自分をまっすぐに捕らえていたからだ。
ほんの一瞬の沈黙。
ラシェルのまなざしは、ただアサドの金髪と、整った輪郭、そして顔に吸い寄せられていた。
(嘘……でしょ……)
ラシェルの心の声に、アサドは戸惑いながらも、礼儀正しく頭を下げた。
「はじめまして。ノア……と名乗っています。お世話になります」
けれど、その言葉はラシェルには届いていなかった。
彼女の眼差しは、遠く――過去の記憶に囚われていた。
「ラシェル……?」
ホープが声をかけたが、彼女の手が椅子の背にすがるように伸び、ぐらりと体が傾いた。
「ラシェル!」
ホープがすぐに支えに入ったとき、ラシェルはかすれた声でつぶやいた。
「……お兄様……じゃ、ないのよね……? でも……」
その視線の奥には、かつての兄ヴィンセントの幻影が見えていた。
(まさか……、まさか、隠し子じゃないわよね……)
彼女の目は、数十年前に戻っていた。
あの兄が――どこまでも天才で、どこまでも常軌を逸していた、悪魔のような存在。
彼と、今目の前に立っている少年の顔が、あまりにも重なっていた。
「――か、顔が、あまりにも似ていて……」
ラシェルは、ようやくソファへと腰を下ろし、浅く呼吸を整えていた。
アサドは、立ち尽くしたまま、どうすればいいのか分からなかった。
自分の顔が、ここまで人の心を揺らすものなのだろうか――
そして、それが『ヴィンセント』という名の人によるものだとすれば、彼は一体どれほど特別な存在だったのか。
「驚かせてしまった。……すまない、君には関係のないことだ」
ホープの声がやわらかく響く。
「けれど、君の顔立ちは……妻にとって、あまりにも強く記憶を揺さぶるものだったんだ」
アサドは黙って頷いた。
自分がここに来たことで、過去の誰かの傷を呼び覚ました。
それが意図せずとも、避けられないことなら、これからも、きっとある。
(それでも……受け止めていくしかない)
ひとつ深く、胸の奥で覚悟が結ばれた。
客間の一角、ラシェルが休んでいる間――
ホープとアサドは、書斎の窓辺に並んで座っていた。
風のない夕暮れ、カーテンがわずかに揺れ、遠くの教会から鐘の音が届く。
ホープは手元の紅茶を見つめながら、静かに口を開いた。
「……ラシェルが、あれほど動揺するとは思わなかったよ。君が、ヴィンセントに……あまりにも似ていたから」
その声は穏やかだったが、どこか痛みを含んでいた。
(二人ともに、申し訳ないな……)
心の声は聞こえてくる。
アサドは、一瞬だけ目を伏せ、それからまっすぐホープを見た。
ブランサイド関所やここの老兵にも言われた事だ。
けれど、なぜその名前がそこまで騒がれるのか、尋ねるのをためらっていた。
「……でも、多分、僕とヴィンセントさんに、血の繋がりはありません」
アサドはまっすぐホープを見つめ、はっきりと言った。
ホープは少しだけ眉を上げる。
「そうか……。なら、父君は?」
「父は聖地で育った騎士です。……今は、母と一緒に二年前に出て行きました。名前は、ハリーファといいます」
ホープの手が、カップの取っ手の上でぴたりと止まる。
黒い瞳が、かすかに揺れた。
「……ハリーファ……?」
(まさか……ファールーク皇国の、あの第二皇子……?)
思考がざわめき、心の声がアサドにも伝わってくる。
だがホープはすぐに顔を整えた。
アサドが続ける。
「……僕も弟も、両親からあまり過去のことを聞かされていません。でも、母の本当の名前を知ったとき……父に尋ねたんです。父が呼ぶ名前と、ホープ様が探していた人の名前が、同じだったので」
ホープは黙って聞いていたが、目の奥では何かが静かに決壊しかけていた。
(……やっぱり、あの人だったのか。ジェード……アデル。名前を変えたのも、彼と生きるためだったのか)
ホープは動揺を隠したが、アサドの話が耳に入ってこない。
(どうするべきだ……)
「ホープ様? 大丈夫ですか?」
不安そうな声に、ホープははっとして、穏やかな笑みを浮かべて見せた。
「……すまない。少し、昔のことを思い出していただけだ」
そう言うと、ホープは、静かに言葉を継いだ。
「……ぼくは、ハリーファという人には直接会ったことはない。でも……アデルが、彼のことをとても大切に思っていたのは確かだ。……愛していると、言っていた」
アサドは目を伏せ、しばし黙っていたが、やがてゆっくり顔を上げた。
「……僕は、父に似ているって言われるんです。きっと、ヴィンセントさんと父が似ているんでしょうね」
ホープは静かに頷いた。
どこか、空気が少しだけ重くなる。
(……アサドも、もう守られるべき子どもじゃない。自分の意志でここまで来たのだから)
しばらくの沈黙のあと、ホープはカップを机に戻し、姿勢を正した。
その瞳は、かつての少年ではなく、一人の青年を見ていた。
「……アサド。すまないが、明日、ぼくと一緒に王宮に行ってくれないか。……王に謁見を申し込む」
(ウサマを探さないと危険だ……)
「え? 王様に、謁見……?」
「うん。陛下に、君とウサマのことを、正直に伝える」
アサドは驚いたように目を見開いた。
「王様に……僕たちのことを?」
「そうだ。……君たちは、知らぬままに危うい場所にいる。亡国の血を継ぐ者として、いずれその存在は誰かに利用されるかもしれない。だからこそ、正しく伝えておきたい」
ホープの言葉は、決して脅しではなく、誠意だった。
アサドは深く頷いた。
「……わかりました」
その声に、ホープはわずかに肩の力を抜いた。
「ありがとう、アサド。きっと……ウサマのためにもなる」
アサドの中に、小さな炎が灯るのを感じた。
それは、まだ見ぬ弟の声に応えるための、静かな決意だった。