お忍び視察
セリーナは歩きながら、目をキョロキョロと周りの景色に向けていた。賑やかな市場、色とりどりの布やアクセサリー、そして商人たちの元気な呼び声が耳に響く。あまりにも活気に溢れ、思わず歩みが止まる。
「すごい……こんなにたくさんの人が集まっているなんて」
セリーナはそのまま、目を丸くして屋台を覗き込む。
だが、視線があちこちに泳ぐうちに、足元がおろそかになってしまっていた。周りの人々の動きに気を取られたその瞬間、セリーナの肩に勢いよく人がぶつかりそうになった。
「えっ!?」
慌ててその場から飛び退こうとしたけれど、間に合わない。体がバランスを崩して倒れそうになった瞬間、セリーナの背中に強い腕が回り、ぐっと引き寄せられた。
「大丈夫か?」
低く落ち着いた声が耳元で響く。
驚きで心臓が跳ね上がり、顔を上げると、目の前にはカナンが立っていた。彼の力強い腕に支えられていることに、セリーナは瞬時に安心感が広がると同時に、胸がドキドキと音を立てる。
「えっと……ありがとう」
セリーナは恥ずかしそうに顔を赤くしながら、お礼を言った。カナンは少し笑いながら、優しく微笑んでいた。
「気をつけて」
カナンがそう言って、セリーナの手を軽く引き寄せる。その強さと温もりが、セリーナの心をほんのりと温める。
「あ、ええ……ありがとう」
セリーナは一瞬、カナンの手のひらに触れていることに意識を集中してしまい、再び胸が早鐘のように打ち始める。
その後、歩きながらもセリーナの心はカナンの力強さに引き寄せられていた。街の騒音が一瞬、遠く感じる。カナンの腕に支えられたことが、まるでずっと前からあったような安定感を与えてくれる。
胸の高鳴りと安心感がないまぜになったような、不思議な感覚が心をくすぐる。
「それにしても、すごい場所だな。賑やかで、活気にあふれてる」
カナンは少し遠くの屋台を見ながら言ったが、セリーナはまだカナンの手が自分の手に触れている感覚に気を取られ、心の中でくすぐったい思いが湧き上がった。
(どうしてこんなにドキドキするんだろう?)
自分の胸がこんなに高鳴るなんて、ちょっと信じられない。馬車で耳を触られた時の感情とはまた違う高鳴り。カナンが守ってくれたあの瞬間、その力強さに包まれた安心感が、セリーナの心をさらにカナンに近づけているのを感じていた。
(ダメダメ、今は視察に集中!)
セリーナは小さく深呼吸をしながら、歩みを再び進める。街の活気も、人々の笑顔も、全てが新鮮で刺激的だった。
その時、カナンがふっと笑顔を見せながら声をかけてきた。
「……いい街だな。みんなが安心して商売をして、生活を営んでいる。この笑顔を支えているのが、国なんだな」
セリーナはその笑顔を見て、なんだかまた胸がぎゅっとなるような気がした。書類の上で日々進めていた施策が、こうして今目の前の光景につながっている。それを、カナンが理解してくれているということが、セリーナの心にじんわりと染み込んでいく。
「ええ、すごく素敵な街だと思う」
セリーナは笑顔を浮かべ、カナンに返事をした。
その言葉にカナンは満足そうに頷くと、再びセリーナの手をしっかりと握りながら歩き続ける。セリーナの胸の中では、まだ少しドキドキとした高鳴りが続いていたが、それでも街の人々の笑顔や街の活気を肌で感じていると、自分のやるべきことが見えてくる。
セリーナの目には、活気がある街並みだけでなく、大通りから逸れた裏通りの影や、人々の貧富の差、ひび割れたままの石畳など、課題も随所に見えている。
(ああ……これが、王女としての使命なのかもしれない)
彼らの笑顔を守ること。もっと良い国にすること。
セリーナは心の中で静かに決意を固めながら、カナンと足を進めた。
◆
二人はそのまま歩き続けると、市場の近くで、色とりどりの果物が並ぶ屋台に辿り着いた。
「美味しそう!でも、初めて見るわね。これはどちらの果物なの?」
「お嬢さん、目が高いね! これは隣国の果物でね、最近新しい輸送魔法が開発されたらしくて、この街にも入ってくるようになったんだ」
「隣国の!?すごい、こんな新鮮な状態で運べるなんて……!」
これが本当なら、隣国との貿易が大きく変わる。今のうちに打つべき手はーー。
考えを巡らせるセリーナを優しい目で見つめながら、カナンは店主から一口大にカットした果物を受け取った。数種類を見繕って、城に届けさせることも忘れない。
店主には目配せをして、お忍びであることを知らせる。店主は心得たとばかりに頷いて、上客からホクホク顔で代金を受け取った。
「セリーナ、ほら、あーんして。これ、美味いぞ」
すっかり思考の向こうに行ってしまったセリーナに、カナンはカットした果物を差し出してこちらを向かせた。
ハッと我に帰ったセリーナは、思わず言葉を詰まらせた。カナンの手のひらが近くて、その温もりが伝わってきて、顔が赤くなるのを感じる。城では絶対にできないが、市井に紛れている今ならーー。
「……いただきます。」
セリーナは少し照れくさそうにカナンの手を手繰り寄せ、その果物を口に含んだ。その時、カナンの指先が、ほんの少しだけセリーナの唇に触れたような気がして、思わず心臓が跳ねた。
果物の甘さが口の中に広がると、セリーナは何とも言えない気持ちになった。普段の自分なら、こんなことには動じないはずなのに、カナンと一緒だと、どうしてこんなにも心が揺れるのだろう。
今、この瞬間が永遠に続けばいいと思いながら、セリーナはただ、カナンと一緒にいることに幸せを感じていた。
◆
賑やかな市場を歩き回り、セリーナは次第に人混みに疲れを感じ始めていた。最初は興味津々で街の景色を楽しんでいたものの、次々と話しかけてくる商人たちの声、行き交う人々の熱気、活気あふれる喧騒が、じわじわと体に負担をかけてくる。
「少し、休まないか?」
ふと気づけば、カナンがセリーナの顔を覗き込んでいた。その表情にはからかいの色はなく、純粋にセリーナを心配しているようだった。
「私は大丈夫よ……」
そう言ってはみたが、思ったよりも疲れが声に出てしまったのか、カナンは少し強引に「ほら、こっち」と言いながら、セリーナの手を取った。
「え、ちょっと……!」
抵抗する間もなく、カナンに導かれるまま市場の喧騒から外れた細い道を進む。そこを抜けると、静かな公園にたどり着いた。
市場の賑わいが嘘のように、ここにはほとんど人がいない。風に揺れる木々の葉擦れの音と、どこか遠くから聞こえる小鳥のさえずりが心地よく響く。
「……すごい、こんな場所があったのね」
セリーナはそっと息を吐き、少しほっとした表情を浮かべた。
「人混みで気を張りすぎたな。少し休もう」
カナンはそう言いながら、公園の中央にあるガゼボの中へとセリーナを促した。
石造りのベンチに腰掛け、ゆっくりと目を閉じる。確かに、肩の力を抜くと、自分が思っていた以上に疲れていたことに気づいた。
「ごめんなさい、少し張り切りすぎたみたい」
「君は何にでも一生懸命だからな。たまには力を抜くことも覚えないと」
「……そうね」
セリーナは苦笑しつつも、カナンの言葉にどこか安堵を感じる。
その時だった。
「にゃあ」
可愛らしい鳴き声が耳に届き、ふと足元を見ると、一匹の猫がちょこんと座っていた。首輪をしていない。どうやら野良猫のようだ。
「猫……!」
思わず声を上げると、猫はのんびりと尻尾を揺らしながらセリーナを見上げている。
「こいつ、人懐っこいな」
カナンがしゃがみ込み、猫の頭を軽く撫でると、猫は気持ちよさそうに目を細めた。
セリーナもそっと手を伸ばし、柔らかい毛並みに触れる。温かくて、ふわふわとしていて、なんだか懐かしい感覚が蘇る。
「……そういえば、昔、王宮にも猫がいたわね」
「いたな。君はよく追いかけ回してたっけ」
「えっ、そんなこと……」
言いかけて、記憶がよみがえる。
小さな頃、広い庭園で見つけた猫を必死に追いかけ、カナンと一緒に遊んでいた。走り回っていた時には一切触らせてくれなかったのに、疲れ果てて芝生に寝っ転がると、猫はセリーナのお腹の上に乗ってきて寝てしまったのだ。
「……なんだか懐かしいわ」
セリーナは猫の背中を撫でながら、ふとカナンを見る。
「君は、あの頃から変わらないな」
カナンが柔らかく笑いながら言った。
「そうかしら?」
「子どもの頃から、君は国のため、民のために生きることを決めていた。未来を語る君の目は、いつもキラキラと輝いていた。」
セリーナはカナンの言葉に、胸が締めつけられるような感覚を覚える。
「……今日、街を見にきて、ますますその思いは強くなったわ」
けれど、次の瞬間、不安が心をよぎる。
「でも、こんな私が本当に女王になれるのかしら……」
セリーナはそっとフードの上から耳に手を添えた。
小さい頃から、この国の未来を背負うことが当然だと教えられてきた。けれど、それが本当に自分にできるのか、ふとした瞬間に怖くなることがある。
カナンは真剣な眼差しでセリーナを見つめた。
「君誰よりも完璧な王女だ。そして、誰よりも民を想う素晴らしい女王になるだろう。でもーー」
「……カナン……?」
「でも、それに疲れたら……俺の前でだけは甘えていい」
カナンの手がそっとセリーナの髪に触れる。その優しい仕草に言葉に、心がじんわりと温かくなっていく。
「……ありがとう」
二人の間には、いつもと違う静かな時間が流れていた。
ガゼボの中で寄り添い、温かい猫の体温を感じながら、セリーナはほんの少しだけ、カナンの言葉に甘えることにした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本日もう一話投稿します。
次話『猫と魔女と』