表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/14

お忍び視察

 セリーナは歩きながら、目をキョロキョロと周りの景色に向けていた。賑やかな市場、色とりどりの布やアクセサリー、そして商人たちの元気な呼び声が耳に響く。あまりにも活気に溢れ、思わず歩みが止まる。


「すごい……こんなにたくさんの人が集まっているなんて」


 セリーナはそのまま、目を丸くして屋台を覗き込む。

 だが、視線があちこちに泳ぐうちに、足元がおろそかになってしまっていた。周りの人々の動きに気を取られたその瞬間、セリーナの肩に勢いよく人がぶつかりそうになった。


「えっ!?」


 慌ててその場から飛び退こうとしたけれど、間に合わない。体がバランスを崩して倒れそうになった瞬間、セリーナの背中に強い腕が回り、ぐっと引き寄せられた。


「大丈夫か?」


 低く落ち着いた声が耳元で響く。

 驚きで心臓が跳ね上がり、顔を上げると、目の前にはカナンが立っていた。彼の力強い腕に支えられていることに、セリーナは瞬時に安心感が広がると同時に、胸がドキドキと音を立てる。


「えっと……ありがとう」


 セリーナは恥ずかしそうに顔を赤くしながら、お礼を言った。カナンは少し笑いながら、優しく微笑んでいた。


「気をつけて」


 カナンがそう言って、セリーナの手を軽く引き寄せる。その強さと温もりが、セリーナの心をほんのりと温める。


「あ、ええ……ありがとう」


 セリーナは一瞬、カナンの手のひらに触れていることに意識を集中してしまい、再び胸が早鐘のように打ち始める。

 その後、歩きながらもセリーナの心はカナンの力強さに引き寄せられていた。街の騒音が一瞬、遠く感じる。カナンの腕に支えられたことが、まるでずっと前からあったような安定感を与えてくれる。

 胸の高鳴りと安心感がないまぜになったような、不思議な感覚が心をくすぐる。


「それにしても、すごい場所だな。賑やかで、活気にあふれてる」


 カナンは少し遠くの屋台を見ながら言ったが、セリーナはまだカナンの手が自分の手に触れている感覚に気を取られ、心の中でくすぐったい思いが湧き上がった。


(どうしてこんなにドキドキするんだろう?)


 自分の胸がこんなに高鳴るなんて、ちょっと信じられない。馬車で耳を触られた時の感情とはまた違う高鳴り。カナンが守ってくれたあの瞬間、その力強さに包まれた安心感が、セリーナの心をさらにカナンに近づけているのを感じていた。


(ダメダメ、今は視察に集中!)


 セリーナは小さく深呼吸をしながら、歩みを再び進める。街の活気も、人々の笑顔も、全てが新鮮で刺激的だった。


 その時、カナンがふっと笑顔を見せながら声をかけてきた。


「……いい街だな。みんなが安心して商売をして、生活を営んでいる。この笑顔を支えているのが、国なんだな」


 セリーナはその笑顔を見て、なんだかまた胸がぎゅっとなるような気がした。書類の上で日々進めていた施策が、こうして今目の前の光景につながっている。それを、カナンが理解してくれているということが、セリーナの心にじんわりと染み込んでいく。


「ええ、すごく素敵な街だと思う」


 セリーナは笑顔を浮かべ、カナンに返事をした。

 その言葉にカナンは満足そうに頷くと、再びセリーナの手をしっかりと握りながら歩き続ける。セリーナの胸の中では、まだ少しドキドキとした高鳴りが続いていたが、それでも街の人々の笑顔や街の活気を肌で感じていると、自分のやるべきことが見えてくる。

 セリーナの目には、活気がある街並みだけでなく、大通りから逸れた裏通りの影や、人々の貧富の差、ひび割れたままの石畳など、課題も随所に見えている。


(ああ……これが、王女としての使命なのかもしれない)


 彼らの笑顔を守ること。もっと良い国にすること。

 セリーナは心の中で静かに決意を固めながら、カナンと足を進めた。



   ◆



 二人はそのまま歩き続けると、市場の近くで、色とりどりの果物が並ぶ屋台に辿り着いた。


「美味しそう!でも、初めて見るわね。これはどちらの果物なの?」


「お嬢さん、目が高いね! これは隣国の果物でね、最近新しい輸送魔法が開発されたらしくて、この街にも入ってくるようになったんだ」


「隣国の!?すごい、こんな新鮮な状態で運べるなんて……!」


 これが本当なら、隣国との貿易が大きく変わる。今のうちに打つべき手はーー。


 考えを巡らせるセリーナを優しい目で見つめながら、カナンは店主から一口大にカットした果物を受け取った。数種類を見繕って、城に届けさせることも忘れない。


 店主には目配せをして、お忍びであることを知らせる。店主は心得たとばかりに頷いて、上客からホクホク顔で代金を受け取った。


「セリーナ、ほら、あーんして。これ、美味いぞ」


 すっかり思考の向こうに行ってしまったセリーナに、カナンはカットした果物を差し出してこちらを向かせた。


 ハッと我に帰ったセリーナは、思わず言葉を詰まらせた。カナンの手のひらが近くて、その温もりが伝わってきて、顔が赤くなるのを感じる。城では絶対にできないが、市井に紛れている今ならーー。


「……いただきます。」


 セリーナは少し照れくさそうにカナンの手を手繰り寄せ、その果物を口に含んだ。その時、カナンの指先が、ほんの少しだけセリーナの唇に触れたような気がして、思わず心臓が跳ねた。


 果物の甘さが口の中に広がると、セリーナは何とも言えない気持ちになった。普段の自分なら、こんなことには動じないはずなのに、カナンと一緒だと、どうしてこんなにも心が揺れるのだろう。


 今、この瞬間が永遠に続けばいいと思いながら、セリーナはただ、カナンと一緒にいることに幸せを感じていた。


   ◆


 賑やかな市場を歩き回り、セリーナは次第に人混みに疲れを感じ始めていた。最初は興味津々で街の景色を楽しんでいたものの、次々と話しかけてくる商人たちの声、行き交う人々の熱気、活気あふれる喧騒が、じわじわと体に負担をかけてくる。


「少し、休まないか?」


 ふと気づけば、カナンがセリーナの顔を覗き込んでいた。その表情にはからかいの色はなく、純粋にセリーナを心配しているようだった。


「私は大丈夫よ……」


 そう言ってはみたが、思ったよりも疲れが声に出てしまったのか、カナンは少し強引に「ほら、こっち」と言いながら、セリーナの手を取った。


「え、ちょっと……!」


 抵抗する間もなく、カナンに導かれるまま市場の喧騒から外れた細い道を進む。そこを抜けると、静かな公園にたどり着いた。


 市場の賑わいが嘘のように、ここにはほとんど人がいない。風に揺れる木々の葉擦れの音と、どこか遠くから聞こえる小鳥のさえずりが心地よく響く。


「……すごい、こんな場所があったのね」


 セリーナはそっと息を吐き、少しほっとした表情を浮かべた。


「人混みで気を張りすぎたな。少し休もう」


 カナンはそう言いながら、公園の中央にあるガゼボの中へとセリーナを促した。


 石造りのベンチに腰掛け、ゆっくりと目を閉じる。確かに、肩の力を抜くと、自分が思っていた以上に疲れていたことに気づいた。


「ごめんなさい、少し張り切りすぎたみたい」


「君は何にでも一生懸命だからな。たまには力を抜くことも覚えないと」


「……そうね」


 セリーナは苦笑しつつも、カナンの言葉にどこか安堵を感じる。


 その時だった。


「にゃあ」


 可愛らしい鳴き声が耳に届き、ふと足元を見ると、一匹の猫がちょこんと座っていた。首輪をしていない。どうやら野良猫のようだ。


「猫……!」


 思わず声を上げると、猫はのんびりと尻尾を揺らしながらセリーナを見上げている。


「こいつ、人懐っこいな」


 カナンがしゃがみ込み、猫の頭を軽く撫でると、猫は気持ちよさそうに目を細めた。


 セリーナもそっと手を伸ばし、柔らかい毛並みに触れる。温かくて、ふわふわとしていて、なんだか懐かしい感覚が蘇る。


「……そういえば、昔、王宮にも猫がいたわね」


「いたな。君はよく追いかけ回してたっけ」


「えっ、そんなこと……」


 言いかけて、記憶がよみがえる。


 小さな頃、広い庭園で見つけた猫を必死に追いかけ、カナンと一緒に遊んでいた。走り回っていた時には一切触らせてくれなかったのに、疲れ果てて芝生に寝っ転がると、猫はセリーナのお腹の上に乗ってきて寝てしまったのだ。


「……なんだか懐かしいわ」


 セリーナは猫の背中を撫でながら、ふとカナンを見る。


「君は、あの頃から変わらないな」


 カナンが柔らかく笑いながら言った。


「そうかしら?」


「子どもの頃から、君は国のため、民のために生きることを決めていた。未来を語る君の目は、いつもキラキラと輝いていた。」


 セリーナはカナンの言葉に、胸が締めつけられるような感覚を覚える。


「……今日、街を見にきて、ますますその思いは強くなったわ」


 けれど、次の瞬間、不安が心をよぎる。


「でも、こんな私が本当に女王になれるのかしら……」


 セリーナはそっとフードの上から耳に手を添えた。


 小さい頃から、この国の未来を背負うことが当然だと教えられてきた。けれど、それが本当に自分にできるのか、ふとした瞬間に怖くなることがある。


 カナンは真剣な眼差しでセリーナを見つめた。


「君誰よりも完璧な王女だ。そして、誰よりも民を想う素晴らしい女王になるだろう。でもーー」


「……カナン……?」


「でも、それに疲れたら……俺の前でだけは甘えていい」


 カナンの手がそっとセリーナの髪に触れる。その優しい仕草に言葉に、心がじんわりと温かくなっていく。


「……ありがとう」


 二人の間には、いつもと違う静かな時間が流れていた。


 ガゼボの中で寄り添い、温かい猫の体温を感じながら、セリーナはほんの少しだけ、カナンの言葉に甘えることにした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

本日もう一話投稿します。


次話『猫と魔女と』

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ