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〈カ――ッ!〉〈カ――ッ!〉〈カ――ッ!〉
〈パタ!〉〈パタ!〉……
空全体が深いオレンジ色に染まる中、カラスが音を立て強引に僕の視界を遮る。
近代的なビル街が立ち並ぶ中心地から少し離れると、庶民的で長閑な街並みが
傷心気味の僕をゆっくりそして確実に癒してくれる。
この地に足を踏み入れるのは何年ぶりだろうか。
僕はあの頃の草木や風の匂いを懐かしみながら目的地へと向かっていた。
おそらく取材を受けるずっと前から心の何処かで決めていたのだろう。
すぐ目の前に築数十年は経ってるであろう古い2階建ての木造アパートが
見えて来た。
懐かしい建物臭に吸い寄せられるかのように僕は中央部に位置する鉄製の階段
にゆっくり腰を下ろした。
ステップ部分に両手を付き一つ大きく息を吐くと、まるで予め決められた客席
から馴染みの古い映画を観るかのように過去を回想し始めた。
それは鬼門化されたように引き出しの奥底に追いやられた僕の人生初の
恋愛小説の冒頭部分を読み終えた頃だった。
降りしきる雨の中、傘もささず突如ずぶ濡れ状態の彼女はまさに今腰掛ける
このアパートを訪れたのだ。
〈ピ―ンポ――ン!〉〈ピ―ンポ――ン!〉
〈ピィンポ!! ピィンポ!! ピ―ンポ――ン!〉
『だ、誰だよ、こんな時間に』
『早くしてよ! いるんでしょ!』
『コラッ!』『レン! 早く開けろ!』〈ドン!〉〈ドン!!〉
『お――い!』『レン!』『レン!』『レンコンのバカ! 早く早く!』
そして恐る恐る開かれたドアの僅かな隙間をすり抜けた彼女は季節外れの
上着を一気に脱ぎ捨てると僕の許可を一切得る事なくバスルームへと消え、
驚くようなセリフを口にしのだ。
〈ザ――ッ バシャ! バシャ!〉…… ……
『何よ、覗きに来たの?』
「あっ、いや、その~ キミと以前どこかで会ったっけ?」
『レンちゃん、覚えてないの?』
「そう、ごめん。全然思い出せないんだ」
『まぁ、無理もないっか』
「キミ、名前は? 僕はレンだけど」
『バカ! そんなの知ってるわよ。ワタシはナオミよ、ナ・オ・ミ!』
「えっ、ナオミ? へぇ~ そ、そうなの」
『そ~よ~ ワタシは藤崎ナオミ。北欧から帰って来た帰国子女よ』
”藤崎ナオミ”それは小説冒頭部分に登場する女性と同姓同名で、彼女は
僕が書き上げたヒロインだと高圧的にアピールするが僕はにわかに彼女を
信じる事が出来なかった。
それは当時自身が仕上げた小説内のナオミとのイメージに若干の違和感を
感じたからなのだが……。
〈ピッポッポッ!〉〈ピッポッポッ!〉
更に彼女との一連のやり取りを懐かしむつもりが、スマホの呼び出し音
の割り込みで僕は一瞬にして現実へと戻されしまった。
〈今日は18時から京和亭でお食事会だよ。忘れないように。念のため住所
貼っとくね。高杉〉
僕は右手で腰の辺りを数回払いながらゆっくり立ち上がり、スマホで時間を
確認した。
この時間帯は渋滞するからもうそろそろ京和亭に向かった方がいいな。
僕は急ぎ足で大通りへ向かい、すぐさまタクシーを呼び止め運転手さんに
行き先告げるとお店の住所を提示する事なく車は目的地へと発進した。
京和亭は古くから続く超有名料亭らしく、そんな予約困難な料亭を
セッティング出来るのはやはり大手出版社の力量によるものだろう。
時に環境は人を変えると言われるが、僕は全くその通りだと思う。
僕はタクシーの後部座席でスマホ片手に高級料亭へと向かってはいるが、
実際は高揚感どころかむしろ面倒臭さの方が勝っているのだから。
フリーター時代の僕なら間違いなく朝、昼食共に抜き、更に軽いジョギング
で汗を流し、確実に胃袋を飢餓状態にへと追い込んでいただろう。
そんな僕の思いとは裏腹にタクシーは賑わう中心街をまるで予め決められた
コース上をなぞるように目的地目指し突き進み、やがて景色が閑静な住宅街
へと様変わりした。
そして更に入り組んだ小道を抜けると、近代的な住宅街と融合しているとは
とても思えない純日本建築を継承するような料亭が見えて来た。
店前でタクシーが停車し扉が開くと、着物姿の年配の女性スタッフが
小走りに駆け寄りゆっくり頭を下げた。
僕は支払いを済ませ少々緊張した面持ちでタクシーを降りると、女性は
まるでお店の入り口に向かって見えない糸を引くように僕を招き入れた。
「お待ちしておりました。もう皆さんお見えですよ」
「えっ、まだ5時半ですけど……」
「田町さんでお間違えないですよね」
「あ、はい」
笑顔で僕の顔を覗き込むように再確認する女性スタッフに少々照れ笑いを
浮かべる僕は彼女に導かれるように入り組んだ廊下を奥へ奥へと進んだ。
執筆の依頼を受けて早3ヶ月。
この時期でのお食事会の大方の目的は小説の進み具合の確認だ。
全国規模の商業出版ともなれば校正から製本、販売、営業に至るまで各所に
多数のスタッフが絡み、それを遅滞なくスムーズにまとめ上げる出版社は
多大な重責を負う事となる。
前作のように締め切り間際に僕に失踪されでもしたら社内組織でのポジション
さえ危うくなるのだから、進行状況をそれとなく確認したくなるのは社員として
当然か。
「こちらでございます。どうぞ」
〈ス――ッ〉〈ス――ッ〉
「どうもありがとう」
「おぉ― 田町くん、待ってたよ」
いつもの柔らかな笑顔で僕を迎えてくれたのは副編集長の水原さんだった。




