7-4(21)
〈コン!〉〈コン!〉〈コン!〉……
「僕だよ」「遅くなってごめんね」
焦りから僕はドアにゆっくり顔を近づけ耳をすませると微かに聞こえる
足音がまるで押し寄せる波のように徐々に大きく、そしてドアに最接近すると
内カギが解除される音と同時にドアが一気に開いた。
《ガツン!!》「痛ったっ!」
『せんせ――っ!』
「よかった~ 無事でホント良かった。ごめんね、遅くなっちゃって」
子供のように両目を真っ赤に腫らし、せわしなくしゃくり上げる彼女は
まるで吸い寄せられるように僕の胸にその身を委ねた。
予想外の展開に僕の身体、いや正確には両腕が硬直し、僕は胸に顔を埋める
彼女を優しく抱きしめるどころかただ呆然と立ち尽くす他なかった。
それは僕が彼女をカオリという別人格として強く意識していたのみならず、
やはり互いの思いに一定の齟齬が生じていたからだろう。
この僕を信じ、全てを投げ捨て自ら飛び込んだ彼女にとって僕は恐らく
唯一頼れる存在。
それは同じ状況ながら少々世間慣れした僕とは事情が異なり、僕は彼女に
対する思いの至らなさをこの時初めて痛感した。
「かおりちゃん、ホントごめんね。ちょっと仕事が長引いちゃてね」
「もう先生、帰って来ないって思ったじゃない!」
「そんなわけないでしょ。僕はかおりちゃんを一人になんかしないよ」
「ホント? わたし、一人はやだよ」
「うん、大丈夫だよ。大丈夫、安心して」と僕は彼女が一旦落ち着くまで
部屋には入らず、しばらくの間なんとも奇妙なこの姿勢を維持し続けた。
―
――
―――
「先生、お仕事おつかれさま」
『カンパ―イ!』
「痛っててっ……」
「どうしたの? 先生」
「いや、腕の筋がちょっとね。まぁ、軽い筋肉痛だからどうってことないよ。
それよりこの辺りがズキズキ痛むよ」と僕はこれ見よがしに人差し指で自身の
額を指差した。
「それは先生が悪いんでしょ。”自業自得”よ」
「まさかカオリちゃんからそんな四字熟語が飛び出すなんて意外だな」
「あっ、今、私のことバカにしたでしょ」
「そ、そんな事ないよ。それより早く食べないとシチュー冷めちゃうよ」
「も~ 先生がちゃんと持って帰らないから中がぐちゃぐちゃじゃない」と
彼女は口を尖らせながらも笑顔でラップをはがし出した。
「上手くラップ取らないとこぼれちゃうよ」「僕がやろうか?」
「いいわよ。それより先生は食べないの?」
「あんまり食欲ないから、今はこのツマミとお酒でいいや」と僕は袋から
スルメを取り出した。
「うわっ、何それ?」
「剣先イカだって。見た目はエイリアンみたいだけどこれが旨いんだよ」
「ふぅ~ん」「先生、ちゃんと食事しないと大きくなれないわよ」と彼女は
満足気な表情でシチューを口に運んだ。
「ふっ、そうだね」「それにしても最近のかおりちゃんってホント凄いよね」
「スゴイって?」
「だってテストはほぼ満点だし、よく見るとずいぶん難しそうな本読んでるん
だね」と僕は反り返るように手を伸ばし、積まれた本をゆっくり引き寄せた。
「田町大先生のおかげよ。ありがと!」
「ははっ、それはどうも」「あれ? これって英会話の本だけどこんなのも
読んでるの?」
「あっ、それって買ったばかりでまだ読んでないの」
「かおりちゃん……」
「どうしたの、先生?」
「ホントはね、本当は近いうちにかおりちゃんをラスベガスに連れてって
あげたかったんだけど……、ごめん。今の状況じゃちょっと難しくってね」
「そ、そんなのいいわよ。私、写真見てるだけで満足だもん」
「そうなの? 英会話の本買うぐらいだから行ってみたいのかな~って」
「そりゃ、行きたくないっていえばウソになるけどさ」
「やっぱ行きたいんだ」
「も~っ、止めてよ、先生」
「それにしてもカオリちゃんが英会話とはね~」
「実はね、その本にある文字が妙に懐かしくってつい買っちゃたの」と彼女は
スプーンで縁に付いたシチューを丁寧にかき集め、ゆっくり口に運んだ。
「文字が懐かしいってこのアルファベットってこと?」
「うん、よく分かんないけどね」
「へぇ~ ずいぶん妙だね」
(ん? ナオミって確か帰国子女の設定だったような。もしや彼女の記憶が
戻りつつあるのか?)
「どうしたの? 急に深刻な顔しちゃって」
「あのさ、かおりちゃんがさっき僕に抱き付いた時どんな感じだった?」
「な、何よ、急に。そんなの忘れたわよ」
「もう一度ゆっくり思い返してみてくれないかな?」
「イヤよ。そんなの私から聞いてどうするのよ?」
「イヤなら別にいいんだけどさ」
「変なの。先生、まだお酒飲むんだったら私、先にシャワー浴びていい?」
と彼女は空になったシチューの容器をボリ袋に詰めながら立ち上がった。
「あぁ、僕はもう少し飲んでるからカオリちゃんお先にどうぞ」
「じゃ~ 先生また後でね。あっ、ごちそうさまでした」
パジャマとバスタオルを抱え、いつものように彼女がバスルームに消えると
僕は袋から新たなカップ酒を取り出し、こぼれないように容器を左手で
しっかり固定しながら慎重に上蓋を取り除いた。
〈グビ〉〈グビ〉〈グビ〉「ふぅ~っ」
僕はカオリというナオミとは別人格の女性との奇妙な共同生活から不自由
ながらも小さな喜びを感じ、そして不思議な親近感をも同時に感じ取っていた。
それはナオミと過ごした日々とは少し違った、つまり孤独の闇で育った僕に
とって実に新鮮かつ温かみのあるものだった。
『もぉ~ 先生、作業着はビニール袋に入れておいてって言ったでしょ!』
バスルームのドア越しに彼女の不満げな声が響き渡った。
「ごめん、ごめん。かおりちゃん、頼むよ!」
『え――っ、も~っ。汚ったないんだから』
まるで家族のように包まれるこの感覚は単なる僕の錯覚なのか、或いは
彼女の驚くべき認知機能向上と少なからず関連しているのか今僕には
分からない。
だがそんな望ましい状況はそう長くは続かず、僕は日々変わりゆく彼女
との関係性に翻弄され続けた。




