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〈ピコ・ピコ―ン!〉
「いらっしゃいませ。お一人様ですね。どうぞお好きなお席へ」
僕は無言で人差し指を立て、ホコリを立てぬようゆっくりジャケットを脱ぎ、
店内壁に連なるハンガーに掛けると入口に最も近いカウンターに腰を下ろした。
「いつものでよろしいでしょうか?」
「そうですね。お願いします」
僕は手荷物を椅子下のカゴに収め、ゆっくり店内を見渡した。
僕が腰掛ける席からぐるりと店員さんを囲むようにUの字を描くカウンター
には年配のご夫婦らしき方が一組、その為か話の内容がはっきりと聞き取る
事が出来る。
「どうぞ。生ビールと本日の突出しでございます」
「ありがとう」
僕は差し出された生ビールを半分ほど一気に飲み干した。
ここは最近よく利用するしゃぶしゃぶ専門店でお昼時は常時満席となるが、
今日は午後2時を過ぎているせいかほぼ貸切状態で背徳感なしに流し込まれる
ビールはいつも以上に旨さが増す。
ビールに続いて旬の野菜で彩られたしゃぶしゃぶセットが用意されると、
僕は銅鍋の水面に映り込む自身の顔を見つめ静かに沸騰するのを待った。
〈ピコ・ピコ―ン!〉
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「あっ、はい」
新たにお客さんが来店したようだ。
ヒールの音が数回ほど店内に響くとなぜか僕の真後ろでピタリとその音が
止んだ。
どうも上着をハンガーに掛けているようだが僕は気にせずぐつぐつと沸騰
した銅鍋に手際よく火の通りにくい野菜から順次入れ始めた。
〈カチッ!〉
壁に連なるフックにハンガーを掛け終えたその女性はガラガラのカウンター
にもかかわらずわざわざ僕の真横に腰を下ろした。
僕はその様子に少し違和感を覚え、失礼のない様ゆっくり視線を隣に移した。
「……えっ! く、栗原さん?」
「田町先生っ! お食事ご一緒していいですか?」
彼女のくったくのない笑顔が弾けた。
「あぁ、もちろんいいけど、どうして栗原さんがココに?」
「どうしてって先生がお店入るのたまたま見かけたから」
彼女は大手出版社の営業部に所属するまだ3年目の新人で、前作に引き続き
僕の担当だがけっこう口うるさく自由をこよなく愛する僕を常時苦しめる天敵
のような存在だ。
「先生、先日はありがとうございました。妹、すっごく喜んでました。先生
にくれぐれも宜しくって」と彼女はバッグから封筒を取り出すとそっと僕に
差し出した。
「これ、何なの?」
「領収書とお釣りです」
「領収書?」
「先生、忘れちゃったんですか? この前、妹が就職決まったってお話したら
先生が『2人で何か美味しもの食べておいでって!』3万円もくださったじゃ
ないですか」
「あ~ 思い出した、思い出した」
「お釣りが2万4千円って、どんな店に行ったんだよ~」
「居酒屋ですけど」
「もっといい店でお祝いしてあげれば良かったのに~ フレンチとかさ」
「まだ社会人一年生の妹にそんな贅沢あり得ないですよ」
「ずいぶん妹さんに手厳しいんだね。まぁ、これは取っておきなさい」と
僕は封筒を彼女に差し返したが彼女は頑として受け取らなかった。
「ホントにいいの?」
「もちろんですよ」「あの~」
「はい、これメニュー。何でも好きなの頼んでいいよ。ここは僕がご馳走
するから」
「えっ、いいんですか?」
「あぁ、どうぞ」
「先生は何頼まれたんですか?」
「僕は一番上の豚しゃぶセット。ほらこの1800円の」とメニューを指差す
と彼女はしばらく悩んたあげく店員さんを呼び止めた。
「すみません。私、この特選黒毛和牛のセットと生ビールお願いします」
「……えっ」
「特選はダメですか?」
「あっ、いや別にいいけど、キミ、勤務中だろ。さすがにアルコールはマズイ
んじゃないの?」
「あっ、気にしないでください。私は先生にご気分よく執筆してもらえるよう
サポートする事と先生の首にリードをお付けるのが仕事ですから。後は先生を
無事ご自宅まで送り届けるだけなんで大丈夫ですよ」と彼女は毅然とした表情
でメニューを閉じた。
「首にリードって僕はキミのペットじゃないんだから」
「でも先生には前科があるんですからね」
”前科”という言葉は店内を一瞬にして凍り付かせ、僕は老夫婦や店員さんの
冷ややかな視線を一気に浴びた。
「おい、おい前科って人聞きの悪いこと言っちゃダメだよ。皆さんビックリ
されてるじゃないの」「そんなんじゃないですからね」と僕はその場を取り
繕ろうように笑顔を振りまいた。
「前科は事実でしょ。先生、締め切り間際に逃げたじゃない。私、編集長に
すっごく怒られたんだから」
「悪かったよ。でもあの時は追い詰められてどうしようもなかったんだよ」
と僕はビールを飲み干し、彼女の視線から逃れるようにお代わりを注文した。
ほどなくして彼女が注文した特選セットと互いのビールが運ばれると彼女
は自身のグラスを滑らすように僕のグラスにそっと当て、いつもの愛らしい
笑顔を覗かせた。
「先生、頂きます」
「どうぞ。あっ、白菜入れるのもう少し待った方がいいかな」
「えっ」と彼女は一瞬戸惑った様子で掴んだ白菜を再び盛り皿に戻した。
「そもそもまだ沸騰してないし、葉物以外の火の通りにくい野菜から入れな
きゃ」と僕はイモ類などを指差した。
「先生って鍋奉行なんですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど一番いい状態で食べてもらいたいからね。
それにしてもそのお肉凄いね」
「ふふっ、そうでしょう~ 先生も食べます?」
「僕はこの豚肉で十分だよ。いや、むしろ僕はこのお肉が好きなんだ」
「ふぅ~ん。先生、なんだか無理してません?」
「べ、別に無理なんかしてないよ。僕は霜降りのお肉食べるとすぐお腹壊すん
だよ。『ピッピ―ッ!』ってね」
「せ、先生、食事中ですよ。止めてください」
「こりゃ、失敬」
特選肉を前にすっかりお預け状態となった彼女は口を尖らせながら社内の
不満や愚痴とも取れる内輪話を作家であるこの僕に乱暴且つ一方的に
ぶつけ始めた。
それはまるで鍋から沸々と浮かび上がる気泡のようだ。
さすがに親子とまでは言えないが、年の離れた彼女の小言を僕はしばし黙って
聞き入れ、時おり彼女に同調するようにタイミングよく頷いた。
そしてようやくお腹に溜まった不満を程よく吐き出した彼女はスッキリした
のか今度はその空洞を埋めるかのようにお肉をほうばり出した。
――
―――
――――
「先生、ホントにいいんですか? 私、全部食べちゃいますよ」
「あぁ、いいよ。キミのそんな幸せそうな顔見てると横取りなんて出来ないよ」
「ふふっ、先生って意外と優しいんですね」
「意外とは心外だな」
「でも先生って謎が多いって言うか、ちょっと変わってますよね」と彼女は
おもむろにビールジョッキを傾けた。
「変わってる? この僕が」
「だってプライベートな質問しても真面目に答えてくれないじゃないですか。
先生って秘密主義なんですか?」
「別にそういうワケじゃないけどさ」と僕は再び視線をかわし、彼女同様ビール
ジョッキを傾けた。
「じゃ~ もう一度お聞きしますけど、どうして作家の道を選ばれたんですか?」
「どうしてって言われても…… 会社員みたいに束縛されるの苦手だからかな」
「ホントにそれだけですか?」
「あぁ、そうだよ。でも結局キミをはじめ出版社に拘束される事になるなんて
皮肉だよな、まったく」と僕が軽いため息を吐くと間髪入れずに彼女とどめの
一言が。
「それって自業自得でしょ」
そして彼女は最後の一枚となった牛肉をそっと空になった僕の白いお皿に置く
と笑顔で両手を合わせた。
「先生、ごちそうさまでした」
「いいのかい?」
「どうぞ。たった一枚だからお腹大丈夫でしょ」と彼女は残ったビールを全て
飲み干した。
「ねぇ、先生?」
「どうしたの。急に改まって」
「どうして先生は結婚されないんですか?」
突然の予想だにしない彼女の質問に高価なお肉が一気に僕の喉を通過し、
食道内に滑り落ちてしまった。
「何で今そんな事聞くんだよ。こんな静かな状況で恥ずかしいだろ」
「だって普通、先生ぐらいの年齢なら結婚されててもおかしくないのに不思議
だなって」と彼女はまるで僕を品定めするかのように瞳を上下させた。
「僕には結婚は向かないからだよ」
「どうしてですか? 先生なら収入も十分だし、奥さんに全て任せておけば
執筆活動により集中出来るじゃないですか」
「そういうワケには行かないんだよ、夫婦っていうのはさ。若いキミにはまだ
分からないと思うけど」と僕は店員さんを呼び止めた。
「チェック、お願いします。出来るだけ早くね」
『かしこまりました』
「先生って結婚されてたんですか?」
「いや、そういうワケじゃないけどさ」
「な~んだ。だったら先生も私と一緒で夫婦のことなんて分んないじゃない
ですか」と彼女は若干冷めた視線でバッグからスマホを取り出すとそのまま
席を外した。
僕はお会計を済ませ、入口近くのソファーで熱い濃いめの緑茶をすすって
いると彼女がスマホ片手に再度入店し僕の真横に腰掛けた。
「あと5分ほどでタクシー来るみたいです」
「栗原さんがタクシー呼んでくれたの? ずいぶん気が利くね」
「私、少しは先生の担当らしくなりました?」
「あぁ、そうだね。余計な質問さえしなければね」と僕は彼女に緑茶を差し
出した。
「ありがとうございます。ところで先生、執筆の進み具合はどうなんですか?」
「えっ、ま、まぁまぁかな」〈ゴホッ!〉〈ゴホッ!〉
「ホントですか? 何だかすっごく怪しいんですけど」
「な、何言ってんの。そこそこ順調だよ、今回は」と僕は動揺を隠せずとっさに
ハンカチで口元を覆った。
「まぁ、こんな時間にビールを2杯もお飲みになるぐらいですから~ 当然
順調なんですよね~ せ~んせっ!」
「な、何だよ、その目は。まだ疑ってるの?」
「な~んか妙に焦ってらっしゃるんで」と彼女はすまし顔でスマホをバックに
しまった。
「……先生」
「えっ、何?」
「どうかされたんですか?」
「な、何だよ急に」
「だってすっごく悲しそうな顔されてるから」
「えっ、そんな顔してた?」
「えぇ、してましたよ。先生、何か悩み事でもあるんですか?」
「夢でまたキミに問い詰められると思うとね」
「冗談止めてくださいよ~」「あっ、先生タクシー来ましたよ!」
僕は彼女に後ろから押し出されように店を出ると、そのまま半強制的に
タクシーの後部座席に押し込まれた。