醜い貴族
ローザは陽光に満たされた昼下がりの街の往来を、一人歩いていた。
アケライの街でクラウスと別れてから、すぐに転移門を使用して移動した。
その転移先の街で一夜を過ごし、翌朝からは自身の足で街道を進んで行った。
そうして辿り着いたのがブラーゼンという名の街だった。
その街の門をくぐったのは、ほんの少し前のことだ。
昨日の昼前頃、徒歩で移動中にクラウスから念話で連絡があった。
なんでも、盗賊退治が終わってすぐに、新しい仕事の依頼をされたのだそうだ。
しかもその依頼主は人間では無く、高位の妖精なのだと言う。
それだけでも耳を疑うが、依頼内容はさらに予想外のものだった。
紫金の王と呼ばれる妖精の君主……それと戦って欲しいというのである。
それは並の冒険者には荷が重すぎる相手だ。
だが、ローザは特に心配はしていなかった。
クラウスならば、問題無く依頼を終えて帰って来るのだろう。
それにしても、クラウスに出会ってから色々な事件に巻き込まれ過ぎではないだろうか。
早ければ二週間程度で帝都に帰り着けるだろうと思っていたのだが、なかなか予定通りには行かないものだ。
クラウスの依頼は一月ほどかかると言っていた。
このまま先に帝都に向かうか、クラウスを待つか、考える。
彼を待たずに帝都に戻ってもいいのだろうが……しばらく考え、この街でクラウスを待つ事にした。
先に移動せず、アケライの街でクラウスが盗賊退治を終えて帰って来るのを待っていれば、妖精相手の新しい依頼の交渉にも、直接立ち会うことが出来ただろう。
この先も何事かに巻き込まれる可能性はある。
それを考えたなら、クラウスとこれ以上離れないほうが良いだろう。
一月の間、何をして過ごすか?
何もせず休んでいても良いかもしれない。
この街でなんらかの依頼をこなしながら過ごしても良いだろう。
そんな事を考えながら、ローザは街の中を歩き続ける。
昼下がりの表通り。
賑わっているという程ではないが、人通りはそれなりにあった。
その道中で、見るからに柄の悪そうな三人の男が歩いているのを見かけた。
仕立ては上等だが、やたらと派手で趣味の悪い服を着た一人の男の後ろを、二人の大男がついていく。
二人の大男は前を行く男の部下か何かだろうか?
道行く人々も関わり合いになりたくないのだろう。
その連中を避けるように道を空けている。
それとなくその連中に注意を向けていると、通りにある店から小さな女の子が走り出して来るのが見えた。
その子は、まだ店の中にいる母親に呼びかけながら、道を横切るように走っていく。
その子供の走る先には、先程の三人の男の姿があった。
ローザは嫌な予感がして、歩く速度を速めて男たちの方へ近寄って行く。
子供が男たちの前を通り過ぎようとした、その時だった。
先頭を歩く趣味の悪い服を着た男が、自身の目の前に来たその子供を、斜め前方に向かって蹴り飛ばしていた。
子供の小さな体が大きく吹き飛び、地面を転がる。
ローザは驚き、目を見張る。
男たちの様子から、子供を恫喝するくらいの事はしそうだと思っていたが、まさかいきなり暴力を振るうとは思っていなかった。
ローザは素早く子供の元へと走り寄り、その状態を確認する。
母親もまた、悲鳴を上げながら子供に駆け寄って来た。
子供は泣き声を上げることさえ出来ず、涙を流しながら呻いている。
湧き上がる怒りを押さえながら、ローザは子供の腹部に手を当て、治癒の術を施した。
「大丈夫よ、落ち着いて!」
取り乱す母親に、強い口調で声を掛ける。
そうして語り掛けながら、ローザは治癒の魔術を行使し続けた。
十秒ほどそうしたのちに、子供の腹部をさすりながら語りかける。
「痛くない、痛くない。ほら、どう? まだ痛い?」
そう言って、今度は子供を抱きしめ、頭を撫でる。
「ねっ? もう痛くないでしょう?」
そう言ってローザは笑みを浮かべたが、正直うまく笑えているかわからない。
怒りで引きつった顔を子供に見せたりしないように、何とか表情を作ろうと努める。
子供は涙を流しながら、小さく頷いた。
「うん……もう、いたくない」
「そう、良かった。もう泣かなくていいわ。さっきの悪い奴らは私がやっつけてあげるから」
そう言って子供を母親に預けた。
涙を流しながら感謝の言葉を口にする母親にも、笑顔を向けたのちに立ち上がる。
そして、そのまま何事も無かったかのように立ち去ろうとする男たちを見た。
ローザは男たち目掛けて走り寄る。
大男の一人が、それに気付いて振り返った。
その男の脇腹目掛けて、ローザは前蹴りを放つ。
繰り出した足先が男の右脇腹、肋骨の最下部の最も脆い箇所に、槍の様に突き刺さる。
足先に骨を砕いた感触が伝わってきた。
蹴りをまともに食らった男は、苦鳴を漏らしながら脇腹を押さえ、体を折り曲げた。
間髪入れず、その男の下顎に拳を叩き込む。
男はその攻撃に対処できずに顎を打ち抜かれて意識を失い、その場に崩れ落ちていた。
「てめえ! 何しやがる!」
もう一人の大男がローザを捕まえようと手を伸ばしてきた。
ローザはその手首を掴んで引っ張り、それによって伸びきった腕の肘関節に掌打を放った。
その打撃により、男の腕は本来曲がる筈の無い方向に折れ曲がる。
「うぉあああ!!」
ローザは、折れた腕を押さえて悲鳴を上げる男の股間を蹴り上げた。
その一撃で悶絶し、前屈みになった男の顔面に、今度は膝蹴りを叩き込む。
男はもんどりうって後方へと倒れ込み、そのまま動かなくなった。
今の一撃で意識を失ったようだ。
ほんの数秒で大男二人を打ちのめしたローザは、残った一人に目を向ける。
あの子供を蹴り飛ばしたのは、この男だ。
身なりなどから見るに、おそらく貴族なのだろう。
その男がローザに向けて何か言おうとしたが、ローザは男がそれを口にする前に、素早く間合いを詰め、男の脇腹目掛けて廻し蹴りを叩き込んだ。
その蹴りをまともに食らった男は、吹き飛ばされて地面を転がる。
男は地面に倒れたまま脇腹を押さえて悶絶していたが、しばらくすると起き上がり、大声を上げた。
「きさっ、貴様! こんな事をしてただで済むと思っているのか! おっ、俺がっ、俺が誰だかわかっているのかっ?!」
怒りと興奮で顔を真っ赤にしながら、男は喚き声を上げる。
男の怒りを意に介さず、ローザは冷たい声音で問い返す。
「さあ? 知らないわね。どこのどなた様?」
「おれッ、俺はっ、ノルトフェストゥング家の者だ! その俺に、こんなっ! ただでは済まさんぞ!!」
「ノルトフェストゥング? ああ……ノルトフェストゥング子爵の四男は素行が悪いせいで家を追い出されたと聞いたわね。あなたがその出来の悪い四男なの? 確かモーリッツって名前だったはずね」
貴族として民を統べ、守るべき立場にありながら、あんな小さな子供に暴力を振るうとは。
家を追い出されたとは言っても、この街はノルトフェストゥング子爵領の中にある。
領都からは離れているが、自領内に留めたままでいるのは、随分中途半端な対応であるように思えた。
ノルトフェストゥング子爵は、追い出した息子がこんな風に街中を我が物顔で歩き回って、好き放題振舞うのを許しているのだろうか?
そのせいで領民に被害が出ているのであれば、その責任は親である子爵が負うことになるのだが。
ローザはなおも喚き続けるモーリッツに嘲りの言葉を返す。
「それで? どうただでは済まないのかしら? 家を追い出された、役立たずで穀潰しのモーリッツ様? 是非教えて頂きたいわね?」
そのローザの嘲りの言葉を聞いたモーリッツは、顔を真っ赤にして憤怒の表情を浮かべている。
しばらくは何も言い返せず、怒りに体を震わせながらローザを睨みつけていたが、突然腰に差していた剣を引き抜いた。
その様子を見たローザは、小馬鹿にしたような口調で語りかける。
「剣を持つ腕が震えてるみたいだけど、大丈夫? 無理はしないほうが良いのではなくて?」
さらなる嘲りの言葉に、モーリッツは金切り声を上げて何事かを叫び始めた。
興奮し過ぎているせいで、何を言っているのかは全くわからない。
そうしてひとしきり喚いた後に、モーリッツが剣を振り上げ、こちらに向かって来た。
それはなんとも見るに堪えない姿だった。
貴族の家に生まれたのであれば、多少なりとも戦うための訓練は受けているはずなのだが、そのような痕跡はまるで見えない。
足も震えているようで、その走り方もガクガクと奇妙な上下動をしていて非常に滑稽だ。
それでもローザの元までたどり着いたモーリッツが、ぎこちない動きで剣を振り下ろしてきた。
ローザは左手でその手首を掴んで止めながら、右拳をモーリッツの顎に叩き込む。
その一撃で顎を砕かれたモーリッツは後方に倒れ、地面に転がる。
倒れたモーリッツは、再びローザに向かって何事かを喚き始めたが、下顎を砕かれているせいで何を言っているのか、まるでわからない。
「何? 何を言ってるかわからないわ。もっとはっきり喋って貰える?」
侮蔑を込めた口調でそう言うと、モーリッツは血と唾液をまき散らしながら、さらに激しい剣幕で喚き続ける。
その様子は、怒りと興奮のせいで今すぐにでも頭の血管が切れて卒倒してしまいそうに見えた。
その声が耳障りであったため、もう一発殴ってやろうかと思い、彼に向かって近づいて行こうとした。
その途端に、ローザの意図に気付いたのだろう。
モーリッツは立ち上がり、よろめきながら逃走を始めた。
ローザはそれを追おうとはせず、深いため息をついた。
それから、道の真ん中に転がっている大男二人をどうするべきか考える。
あの愚か者は、部下二人を見捨てて逃げてしまった。
とりあえず地面に倒れた大男二人のことは後回しにして、先程の子供の様子を見ようと思い歩き出したところで、一人の男が声を掛けてきた。
「お嬢さん、少し良いだろうか?」
男は甲冑を身に着け、腰には幅広の剣を吊るしている。
この街の衛兵だろうか?
呼吸がすこし乱れているようだ。
おそらく、騒ぎを聞きつけて急いで駆けつけて来たのだろう。
「こんにちは。何か御用かしら?」
「私はランベルト。この街の衛兵なんだが……」
「ああ、ちょうど良かったわ。私はローザよ。どうぞよろしく」
挨拶をして握手を交わす。
ランベルトは背筋を伸ばして胸に手を当て、感謝の言葉を口にする。
「まず礼を言わせてくれ。この街の住民を救ってくれてありがとう 」
その言葉を聞いたローザは笑みを浮かべ、先程殴り倒した二人……まだ路上に倒れたままの男達を指差す。
「彼らはその住民の中には入っていないのかしら?」
「ああ、言葉を間違えたな。善良な住民を救ってくれた事を感謝するよ」
そう言ってランベルトも笑みを返してくる。
「見ない顔だが、もしかしてこの街は初めてかい?」
「初めてではないわ。何度か来たことはあるけれど長く滞在したことは無いから、それで会ったことが無いんじゃないかしら」
「そうか。腕が立つようだが、もしかして冒険者か何かかな?」
「ええ、そうよ」
それを聞いたランベルトは、じっとローザの顔を見つめる。
「何か?」
「ああ、いや……良かったら冒険者としての位階を教えてもらえるかい?」
「内緒よ」
そう言って笑うローザに対して、ランベルトも納得したように笑みを浮かべる。
「もしかして、敬語を使ったほうが良かったかな?」
「どうして?」
「いや、なんとなくその方がいいかと思ったんだが……まあ、忘れてくれ」
ランベルトの様子を見る限り、おそらくローザが何者であるか気付いたのだろう。
だがどうやら、こちらに合わせて気付いていない振りをしてくれるようだ。
「この街にはしばらく滞在するのかい?」
「ええ、そうね。今は帝都に戻る途中なのだけど、別行動をしている仲間が合流するまで滞在させてもらおうと思ってるわ」
そう言ってローザは、まだ倒れたままの二人の男に視線を向ける。
「あの男……モーリッツは、以前からあんな感じだったの?」
「いや。この街に来た当初は色々と問題を起こしてたが、ここしばらくはおとなしかったんだがね」
「そうなのね。おとなしくなったのは、何か切っ掛けが?」
「ああ、あいつは外を歩き回るときは、常にどこぞのチンピラを連れて歩いてるんだが、そいつらをあいつの目の前で何度か叩きのめしてやったんだよ。正直あいつはどうしようもないクズだが、あれでも貴族だからな。あいつを殴るわけにもいかないから、取り巻きを代わりに叩きのめしてたんだ。それを何度か続けたら、あまり外を出歩かなくなってね。ノルトフェストゥング家にも何度も報告を上げてたから、家の方からも何か言われたんだろう。それで、おとなしくなったと思ってたんだが……」
相手は貴族の子息だが、ランベルトの言葉に敬意はまるで感じられない。
ローザは笑いながらそれを指摘する。
「クズとか、そんな風に呼んでも大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。あいつがクズなのは周知の事実だからな。この街でそれを咎めたりする奴はいないよ」
「言って無かったけど、私も一応貴族なのよね」
「ああ、もしかして何かお咎めがありそうかな?」
「いいえ。あなたは何も間違った事は言っていないのだから、咎めるようなことは何も無いわね」
その言葉を聞いたランベルトは声を上げて笑う。
「でも、どうしてまたあんな振る舞いをするようになったのかしら?」
「さあ、良くわからない。何故だろうな?」
「あんな振る舞いをしても大丈夫だと思うような出来事が、何かあったのかしらね?」
「ああ……そう言う事も有り得るのか」
「念のため、気を付けておいたほうがいいでしょうね」
「確かにそうだな。忠告感謝するよ」
ローザはモーリッツが走り去っていった方角に目を向けた。
この方向に、彼の住まいはあるのだろうか?
「モーリッツはどの辺りに住んでいるの?」
「この街の北西にある屋敷に住んでるよ」
「そう、ありがとう」
「ああ……あなたなら大丈夫だとは思うが、この街の北……モーリッツの屋敷から東に少し行ったところに墓地があるんだ。もしその辺を通ることがあったら気を付けてくれ」
「墓地? 何か危険な事でもあるの?」
「最近その辺で行方不明になってる者がいてね」
「そう。ありがとう。気を付けるわ」
ランベルトとの会話を終えたローザは、先程の子供と母親のいる場所に近付いて行った。
母親が地面に膝を付き、子供を抱きしめている。
子供は母親の胸にぎゅっと力を込めてしがみついていた。
もう泣き止んではいるが、まだその目は赤く、何かを我慢しているかのようにその唇を引き結んでいる。
「あの、本当にありがとうございました」
「気にしなくていいわ。あなたは大丈夫?」
「はい。本当に何とお礼を言えばいいか……」
母親が、声を震わせながら感謝の言葉を口にする。
ローザはそれに笑みを返したのちに、屈んで母親の胸にしがみついている子供に話しかける。
「大丈夫? まだ痛いところがあったら言ってね。治してあげるから」
「うん。もう大丈夫」
子供は鼻をすすり上げながら応える。
「悪い奴らは私がやっつけたわ。もしまた出てきたとしても、私が追い払ってあげるから、もう心配しなくていいわ」
「うん、ありがとう、お姉ちゃん」
「どういたしまして」
ローザは笑顔で応え、母親の手から子供を預かり、抱き上げる。
「何か欲しい物はある?」
「欲しいもの?」
「ええ。何か食べたい物とか、おもちゃとか……洋服なんかでもいいわ。何でも一つ欲しい物を買ってあげる」
「いいの?」
「ええ。悪い奴らのせいでひどい目に遭ったからね。その前に助けてあげられなかったお詫びをさせて欲しいの」
ローザは子供を抱きかかえたまま、母親に声を掛けた。
「昼食はもう摂ったの?」
「いえ、まだですが……」
「そう。じゃあ、どこかで一緒に食事をしましょう」
「食事をですか?」
「ええ。もちろん勘定は私持ちだから、気にせず好きなものを頼んでいいわ。こう見えて、結構稼いでいるから」
そう言って、ローザは抱きかかえた子供に問いかける。
「何か食べたいものはある?」
「シチューが食べたい」
「シチュー? どこで食べられるの?」
そのローザの問いを受けた子供は、とある方向を指差した。
「こっち?」
ローザが聞くと、子供が頷きを返す。
そうしてローザは子供の指し示した方向に向かって歩き出した。
母親も少し戸惑っているようだったが、その後ろをついて来る。
そうして、親子と話をしながら料理屋へと向かう事になった。
子供の名はリリーで、母親の名はマルテというのだそうだ。
これから向かうのは白鹿亭という名の料理屋らしい。
リリーたちはこの店を、二、三ヶ月に一度程度利用しているのだそうだ。
この街の庶民にとっては、少し贅沢な店という感じなのだろうか?
たまにこの店に連れて来て貰えるのを、リリーはいつも楽しみにしているらしい。
店内はなかなかに賑わっていたが、運良くまだ席は空いていた。
三人はテーブルに案内され、メニューを手渡される。
リリーは期待に満ちた眼差しで、そのメニューをじっと見ている。
「シチューを頼むのよね?」
「うん。白いシチュー」
「どれ? ああ、これ? じゃあ、私も同じのにしようかしら」
リリーが言っているのは、牛の乳と少量のチーズで煮込んだシチューのようだ。
どうやら大人にも人気のメニューらしい。
ローザとリリーはそのシチューを注文し、マルテはあばら肉の蜂蜜焼きという料理を注文した。
「デザートは何がいい?」
「デザートも食べていいの?」
「ええ、もちろんよ」
「じゃあ、果物のパイが食べたい!」
「じゃあ、それも頼みましょうか」
リリーの要望を受け、リンゴとブラックベリーのパイを追加で頼む。
料理が来るまでの間、リリーはずっと楽し気におしゃべりをしていた。
ついさっき理不尽な暴力を振るわれ、怪我をした事など忘れてしまったかのようだ。
出来れば、本当にこのまま忘れてくれれば良いのだが。
しばらくすると、テーブルに料理が運ばれてきた。
さっきまで休みなくしゃべり続けていたリリーは、料理を目にした途端に静かになった。
そこからは黙々とシチューを口に運び始める。
それを見て笑いながら、ローザも自身の目の前に置かれた料理を口に運ぶ。
湯気を立てるシチューを口に運ぶと、煮込まれた乳のまろやかな甘みが舌の上に広がる。
さらに噛むたびに柔らかく煮込まれた野菜の甘さと、肉の旨味が溶け合っていく。
その濃厚で深みのあるコクは、少量加えられたチーズによるものだろうか。
香辛料の微かな刺激と香草の穏やかな香りが、さらにその味わいを深くしていた。
子供が好きになるのも良くわかる味だ。
リリーがシチューを全て平らげると、すぐにパイが運ばれて来た。
切り分けられたものでは無く、一枚丸ごとだ。
それを見たリリーは、目を輝かせながらそれを見ている。
子供が一人で食べるには多すぎる量に見えたが、リリーはそんなことは気にして無さそうだ。
ローザとマルテは蜂蜜入りの香草茶を飲みながら、リリーがパイに挑む様子を眺める。
しばらく見ていると、リリーの食べるペースが落ちてきた。
やはり子供が一人で平らげるのは無理があったようだ。
ローザは笑みを浮かべ、リリーに声をかける。
「無理して全部食べなくてもいいのよ。残ったら持って帰って、家で食べればいいわ」
その言葉を聞いたリリーは、マルテとローザを交互に見てから声を上げる。
「じゃあ持って帰っていい?」
ローザは頷き、店の給仕を呼んだ。
そしてパイの残りを包んでくれるように依頼する。
紙で包まれたパイを受け取り、三人は店を出た。
リリーも満腹になるまで食べることが出来たのだろう。
時折小さなげっぷをしながら、膨れた腹を触っている。
食堂を出てからは、近くにある雑貨屋に寄った。
そこで何か欲しい物が無いかとリリーに尋ねる。
リリーはしばらく店内を見回った後、声を上げた。
「これが欲しい」
「この人形?」
リリーが指差していたのは、毛糸で編まれた兎の人形だった。
その人形を手に取ってみる。
おそらく綿を詰めた布の表面に、毛糸を縫い付けているのだろう。
職人が丁寧に時間を掛けて作った物であるのがわかる。
その表面は柔らかな白い毛糸で覆われており、丁寧に編まれた毛糸の手触りは柔らかく、暖かい。
目の部分には黒くて丸い……石だろうか? が縫い付けられていた。
鼻と口は、淡い桃色の糸で刺繍されており、その表情は柔らかく、愛らしい。
リリーが期待に満ちた目でこちらを見ている。
その横からマルテが、申し訳なさげに声を掛けてきた。
「あの、流石にこれは……」
おそらくマルテは値段を見て躊躇したのだろう。
その人形の値札には金貨三枚と書いてある。
庶民が子供のおもちゃに使うには高い金額だ。
「大丈夫よ」
ローザはそう言ってマルテに微笑んで見せ、その人形を手に取って店員に声をかける。
そうして代金の支払いを済ませたのちに、人形をリリーに手渡した。
リリーは目を大きく見開いたまま、それを受け取る。
両腕で人形を抱きしめながら見つめたあとに、感情を抑えきれない様子でぴょんぴょんと飛び跳ねる。
そうして目を輝かせながら、ローザとマルテに交互に視線を向ける。
「ありがとう! ずっと大事にするね!」
「ええ。可愛がってあげてね」
ローザは優しく微笑み、リリーの感謝の言葉に応える。
マルテは相変わらず、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「あの……本当に良いのですか?」
「ええ、もちろん。こんなに喜んでくれてるんだもの。私にとっては価値のある出費よ」
「そうですか……ありがとうございます」
店を出ると、柔らかな日差しが三人を包んだ。
ローザはそこで足を止めてマルテとリリーへ向き直る。
「じゃあ、ここでお別れしましょう」
そう言って、ローザは手を伸ばし、リリーの頭を撫でた。
「元気でね、リリー」
「うん。お姉ちゃん、ありがとう!」
「ええ、どういたしまして」
人形を抱きしめたリリーが喜びに満ちた声で感謝の言葉を口にし、ローザも微笑みながらそれに応える。
「あの、本当にありがとうございました」
「いいのよ。気にしないで」
マルテの言葉に、ローザは穏やかな声でそう返した。
「じゃあね! バイバイ、お姉ちゃん!」
リリーは母親に手を引かれ、笑顔で手を振りながら去って行った。
ローザもそれに笑顔で手を振り返す。
ずっとあんな風に笑顔でいてくれればと、そう思う。
理不尽な暴力を受けたせいで、トラウマなどが残ったりしなければ良いのだが。
共に食事をして、人形を買い与えた。
たったそれだけのことで、恐怖や痛みの記憶が消えたりはしないだろう。
だが、それらが少しでも和らいでくれればと、そう願いながらローザは親子を見送った。




