表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/61

第12話「群馬県南西部(2)」

「結局、何もわかんなかったな」


 そう呟く俺に、ゼンは黙ったまま応じない。

 

 車はもと来た道を通って新宿のアジトへと向かってる。雲はだいぶ流れたが空はまだ暗い。日が昇るまで1時間以上かかるだろう。体はかなり疲労している。だが神経はこれ以上なく張りつめていた。


 走り出して30分近く過ぎるのに、ゼンはほとんど口を利かず、フロントガラスの向こうを見つめている。おしゃべりなゼンの沈黙は、相手に耐えがたい緊張を強いる。空調は動いてる。けど汗が止まらない。返答を待たずに、俺は次の言葉を探す。


「それにしても、けっこうあっさり潜入できたよな、びっくりした」


 トンネルを抜けた後、俺たちは林道を外れて深い茂みに分け入り、山を駆け登って、通常のルートからかなり迂回してN村へたどり着いた。前を行くゼンは恐ろしいスピードで走り、俺はなんとかついていった。

 ディアーボを警戒し森を捜索する警察と出くわさないかと冷や冷やしたが、一度も遭遇しなかった。敵兵や猛獣、ひと噛みで象をも殺す毒性生物の潜む密林での戦闘に慣れたゼンが、人の気配をうまく避けてくれたのかもしれない。俺たちは普通なら数時間はかかるだろう迂回ルートを、1時間足らずで進んだ。


 村へ向かう途中の小休憩の際、俺は、ゼンに「お願い」を1つした。


 ……あの村に行くのは、もちろん今さら反対はしないよ、気は進まないけどな、でもディアーボが襲った現場を調べたらケンジたちにつながる手がかりがあるかもしれないしね、いや実際どうかはわかんないけどさ、

 それでも今のところ、他に可能性はないんだろ? 行くしかないんだろ、それはわかってるよ、

 ただ、だけどさ、殺すのはよしてくれないか、いや警官とかマスコミとかのことだけど、村にはいるわけだろそういう人たちがさ、それを、殺したり傷つけたりしないでほしいんだよ……


 ダメもとでそう伝えると、ゼンは心から不思議そうな顔で俺を見てから、思いついたように一度頷き、約束しよう、と薄く笑った。自分で頼んでおきながら、ヤツがどうして了解したのか、俺にはわからない。


 休憩の後、ほどなくして現地に到着した。傾斜のある山肌100メートル四方にへばりつくようにして、9軒ほどの住居が点在するさびれた集落に、これでもかというほどの報道陣が群がり、それを多勢の警察・機動隊が規制していた。異様な光景だった。警官とは違う制服に身を包んだ機動隊員が大勢いるためだろう、まるで暴動の現場を見物しているような錯覚に陥った。


 俺たちはそれらの人目を避け、道路ではなく、一帯を囲む森に沿って上方へ移動し、いい具合に村を見下ろせる高台に行き着いて、潜入の方法を探った。


 事件現場となった家々の前には警官が立ち、家屋はところどころブルーシートで覆われていた。けど家屋以外にシートが被せられている場所は見当たらなかった。ディアーボの襲撃時、住民たちは家の中にいたようだ。村全体が寝静まった頃に襲われたのかもしれない。


 ほとんどすべての家屋が警察によって固められていた。だがゼンが、村外れの家に警察の姿がないのを、見つけた。その2軒は報道陣がひしめく集落の東端から、ちょうど村を挟んで反対の西端にあった。

 他の家屋と同じようにシートがかけられているものの、確かに人のいる様子はなかった。報道関係者が騒ぐ場所から離れているからなのか、現場検証が済んだのか、あるいは警察の人員が足りなかったのか……理由はわからないが、とにかく、その付近だけ警察の姿が見えない。誰も傷つけることなく潜入するには願ってもない状況だった。


 俺たちはその2軒に狙いを定め、高台から降りて再び森を通り、家屋のそばへ移動した。森のきわから顔を出し遠巻きに眺めても、やはり人がいる気配は感じられなかった。


 いずれの家屋も、玄関や縁側がブルーシートで覆われている以外に、ここで惨劇が起きたことを窺わせる要素はない。木の陰から周囲を警戒しつつ、腰を落として構え、一瞬のうちに十数メートル離れた手前の1軒にゼンが近づいた。彼の合図に従い、俺も同じように森を飛び出した。


 そのようにして隣接する2軒に俺たちは潜入した。ディアーボもそこから侵入したのか、縁側の戸がいくつか、奥に向かって倒れてる。戸はスッパリと切断されていて、俺は樹海のあの黒い怪物を思い出し、背筋が寒くなった。

 一方で、非常識だとわかってはいるが、村へ忍び込む過程も、他人の家に無断で立ち入る際も、異常な高ぶりを覚えた。当初、潜入には乗り気でなかったはずなのに、気づけば精神が高揚していた。ケンジ、アイリ救出の手がかりを見つけるため……という切実な動機は鳴りをひそめて、俺はいつしか、自分自身の刺激を求めて足を踏み出していた。


 だが、忍び込んだどちらの家でも、大した情報は得られなかった。目にしたのは、黄色い非常テープがそこかしこに渡された、寝床と思われる和室、そこに敷かれた布団にべったりと染み込んだ、血の跡だけだった。予想はしていたが、遺体はとっくに運び出されていた。

 荒らされた形跡はほぼ見られず、枕脇の電気スタンドも足元の桐ダンスも、傷ひとつなかった。廊下に面した4枚の障子だけが、縁側の戸と同じく横なぎに切断されて畳の上に置かれ、ところどころに、飛び散った犠牲者の血液が付着していた。

 

 生々しい殺人現場であるにもかかわらず、動揺や吐き気は覚えなかった。どうしてなのかははっきりしない。だがあとで考えてみると当然だった。樹海の街での体験のせいだ。


 あの郷土料理屋で、俺は100を超える死を目撃した。顔の下半分をそっくり失った女性の光のない瞳と視線を交わし、バスに乗った数十名が、文字どおり一瞬で首と胴体を切断されるさまを目の当たりにした。

 その経験で、慣れた。死、それも暴力的で理不尽な死に、慣れてしまったに違いなかった。


 いずれにせよ、あっけなく集落に潜入できたこと、そして殺人現場を見てもほとんど動揺を覚えなかったことで、俺の、強力な刺激を欲する危うい興奮は急速に鎮まった。

 かわりに、何でもいい、アイリたちを救う手がかりになるもの、打ち手のない現状を打破するヒントを手に入れたい欲求が、頭をもたげた。


 そして、他の家屋も確かめたい、という強烈な衝動に駆られた。


 寝たまま首を切られたのか枕元だけが異常に血で汚れた布団の並ぶ2軒目の寝室でその衝動に見舞われた直後、ほとんど無意識に、俺は縁側から続く廊下を駆け戻って外へ出ようとした。別の家を見て回ろうと、体が勝手に動いたらしい。


 だが外には飛び出さなかった。ゼンが、俺の肩をつかんで止めたからだ。


 右肩に何かが触れたと感じた次の瞬間、とてつもない圧力が肩から下を襲った。冗談ではなく、恐ろしく巨大な万力が肩口をがっちり締め上げるイメージが瞬間的にはっきりと頭に浮かんだ。気づけば俺は足をとめ廊下の中ほどに立っていた。


 振り向くと、さっきまで部屋の奥にいたゼンの顔が真後ろにある。ゼンは寝室の戸口から突然廊下を疾走した俺に一瞬で追いつき、片腕で動きを制したのだった。同じ覚醒者、などではない。俺が未熟なのか、ヤツが規格外なのか、どちらにしてもゼンとの力の差は歴然だった。知るほどに、この男が人間だとは思えなくなる。


 ゼンは肩に手をかけたまま、俺をじっと見つめ、ゆっくり首を振った。帰ろう、という意味だった。ヤツの圧倒的な腕力と、ブラウンに澄んだ涼しげな目に、冷静さを取り戻した。わかったよ、俺はゼンの手をそっとどけながら、そう頷いた。


 ケンジたち、マフィア、ディアーボ……それらにつながる何の収穫もないまま、ゼンと俺は、集落を後にしたのだった。


「お、あそこに何かあるぞ」


 俺が言い、ゼンがスピードを緩めて、車を停めた。走り始めて1時間が過ぎていた。山深い林道を出たあたりで、古びたビニール製の屋根の下、数台の自動販売機が沿道に寂しく並んでいた。


「何だ、自販機か」


 俺はさっきから喋り続けてる。ゼンからの反応は期待してない。ただ、何か言葉を発していないと、落ちつかなかった。理由の知れないゼンの無言、そこから沈黙へとつながることが、どうしようもなく怖かった。


 喉が渇かないかい、ゼンはそう言って車を降りた。俺も続いた。確かに何か飲みたかったが、それだけじゃない。


 緊張に満ちた狭い車内から早く離れたかった。ゼンが後にした運転席に、ヤツのオーラが残留して俺を圧しているような気がした。殺気ではない、と思った。RPGのマフィアに拷問を加えようとして発した残忍なオーラとは明らかに異質だったからだ。俺に向けられたものだとも思えなかった。だから余計にわからない。プレッシャーの正体が明確でなく、にもかかわらず耐えがたい緊張を強いられるのは、落ちつかず、恐ろしく、そして不快だった。

 

 ゼンは、何を考えているのだろうか。


 車とゼンから距離をとろうと、俺は誰も通る者のない未明の道路を渡って反対の沿道へ歩いた。自動販売機の弱々しい明かりですぐ足元に畑が広がっているのがわかる。だが空に日はまだ見えず、遠くまで見渡すことはできない。外に出たというのに、開放感はまるでない。それでも深く息を吸い込むと、ほんの少しだけ、気分が楽になった。


 ゼンが、音もなく隣に立った。手にしたスポーツドリンクとミネラルウォーターを差し出す。俺はまごつきながら礼を言ってスポーツドリンクを受け取り、ひと口飲んだ。横にゼンがいる。けどさきほどまでの強烈な圧迫感は不思議と感じられない。俺の神経が回復したのと同時に、ヤツも、外の空気を吸ってリラックスしたのだろう……そう納得しかけたとき、まったくふいに、そのことの異常さに気づいた。

 

 ぞっとした。

 

 あのゼンが、わずかにでも、緊張した?

 俺が何の情報も見つけられなかったあの集落で、ヤツは、いったい何を見て、どんな事実に気づいたんだ?


「あのさ、そろそろ、教えてくれないかな」


 車に戻り再び走り出した後、俺はそう切り出した。これ以上耐えられなかった。ゼンから発せられるプレッシャーにではない。潜入以降、ゼンが少なからず動揺しているのではないか、という自分自身が抱いた疑念に、だ。


 絶対的な強者を前に、周囲の人間が抱く感情はきっとさまざまある。劣等感、緊張、恐れ、恥、妬み、憧れ、期待……あるいはそれらがごちゃ混ぜになった複雑な感情かもしれない。ただ、ひとつはっきりしてるのは、安心だ。圧倒的な力を持つ者は、相手に安心を与える。この人の仲間になれば、この人が味方なら、自分の安全は守られるという、依存の情だ。

 俺も例外じゃない。ゼンを100パーセント信用しているわけではもちろんないが、ヤツの超人的な戦闘力と、百戦錬磨の経験、どんな状況でも眉ひとつ動かさず対応する冷静さは疑いようがなかった。そこに寄りかかろうとする依存心は間違いなく俺の中にあるし、言い方を変えれば、それは信頼とも呼べるだろう。


 その信頼が、今、揺らいでいた。ゼンでも、ゼンほどの強者でも、緊張を覚える事態なのか、という揺らぎだ。今すぐゼンから、安心と依存に足る根拠を得たいと思った。強烈に、切実に、そう思った。だから聞いた。


「あの集落を出てからずっと変じゃないか、黙ったままだし、何なんだ? あの家か? 何もなかったじゃないか、いや血も飛び散ってたし殺人現場だから何もないっていうのは変だけど、おかしいぞさっきから、なんていうかさ、その、あんたらしくないんだよ」


 責め立てるような口調で一気にそう話す俺を、ゼンは一瞬目を丸くして見つめた。それから何かに納得したように笑みを浮かべ、正面を向いて頷き、ブレーキを踏んだ。スピードが徐々に下がり、止まったところで、サイドブレーキを引く。夜明けが迫っているのだろう、どこからか鳥たちの声が響く。

 俺はヤツの横顔をじっと見た。


「君の言うとおりだね」ゼンが細く息を吐き出す。「どうも、ボクらしくないな」


 俺は間を置かず同意した。「そうだよ、絶対に変だ、あんたが深刻そうに黙ってるのなんて」


 ゼンはもう一度こちらを見る。「そうかい? そんなに、おかしいかな」


「ああ、何だか気持ち悪いね、あんたはいつもニヤニヤ笑ってないとダメだ」


 そう話すと、ゼンははじめ堪えるように忍び笑いをもらしていたが、やがて我慢できなくなったのか、腹と目元に手を当て、声を立てて笑った。俺もつられて笑う。

 

 ゼンが俺の指摘に素直に同意したことで、俺の中で一気に緊張が解けた。そのことが、意外なほど嬉しく感じた。俺は突然、彼に対し親近感を覚え、有頂天になって、今までになくフランクに、思ってることを伝えた。


「それで」互いの笑いが収まった後、俺は話を戻した。「何だったんだ? どうして様子がおかしかったんだよ」


「嫉妬だ」少し考えるそぶりをしてから、ゼンはそう答えた。


 意味がまったく理解できず、しばらく無言でヤツを見て、俺はもう一度聞いた。


「何だって?」

「嫉妬だよ」

「聞いてるのは、あんたの調子がおかしかった理由だぞ?」

「ボクは、あの2軒を見て、嫉妬したんだ」

「さっぱり理解できない、どうしたんだよ」

「なぜボクが君の厄介な注文を受け入れたか、わかるかい」

「何のことだ?」

「誰も殺すな傷つけるな、という君のお願いのことさ」


 ゼンが何を言おうとしてるのか本当に理解できなかった。ただ、最後の言葉で、集落へ向かう途中に俺がヤツに頼んだお願いを思い出した。なぜあんな頼みをゼンが聞き入れたのか……一度考えはしたものの、そんなことわかるわけがない、と俺は諦めたのだった。


「森をうろつく警察・機動隊を排除して、集落に群がるマスコミを蹴散らし、家屋の周囲を固める警官を無力化したうえで、殺害現場をじっくり見て情報を収集し誰にも見つからず帰還する……そんな仕事はボクにとって朝飯前だ、空を飛ぶヘリだって対処のしようはある、でもね、そんなことは、ボクには退屈でしかない、わかるかな、散歩やシャワーを浴びることと同じ、ごく日常的なことでしかないんだ」


 そこまで聞いて、唐突に、以前ヤツが言った言葉が浮かんだ。


 ……退屈はボクにとって、いやすべての人にとってじゃないかな、致死性で遅効性のウイルスみたいなものだろ、じわじわと腐って死んでいくような、忌むべきものなんだ……


 ゼンのそのセリフが頭の中を流れたとき、俺は理解した。俺が、分をわきまえず厄介な条件を出したことで、ゼンは退屈な潜入ミッションに楽しみを見出したのだ。

 この男は何よりもまず退屈を嫌い、恐れるのだろう。前に言ったあの言葉どおり、つまらない日々というのは、ヤツにとって死と同じことなのかもしれない。


「わかったよ」と俺は言った。

「退屈なのが嫌ってことだろ? わかるよ、けど、それが何なんだ? そのことと、嫉妬ってのと、何の関係があるんだよ、それより、様子が変だったのは……」


「快楽だ」ゼンが俺を遮る。「快楽なんだ」


 俺はヤツの言うことが再びわからなくなる。


「いいかい、人が殺された場所に行くとね、何というか、うまく言語化できないんだが、感じるものがあるんだ、殺人を行なった者の、快楽の燃えかすが残るとでもいうのかな……残された血の跡、荒らされた室内、殺された人の悲鳴や絶望が、その場から消えずとどまっているような感じだ、そんな感覚をね、確かに抱くものなんだよ」


 何も言えなかった。真偽なんてわからない、わかりたくもない。ただ、殺人という行為において、ゼンは、間違いなく権威だ。妙な言い方かもしれないが、人を殺すことに関して、ゼンの知識や直感は、おそらく正しい。俺が口を挟めることなどひとつもない。


「その感覚が、ボクに告げるんだ、今回は違う、これは、ディアーボのしわざなんかじゃないってね」

「ちょっと待てよ、何言ってるんだ、じゃあ、何が、誰があの集落を襲ったんだよ」


 俺の問いかけに、ゼンはしばらくの間、黙った。シートに背を預け、目をつぶり、天井を仰ぐ。


「初めてのことだよ」ゆっくりまぶたを開けて、ゼンはそう言った。その目は天井を見つめたままだ。

「ボクは、初めて、他者に嫉妬を覚えた、初めてだ、サクヤくん、君は、人がなぜ嫉妬するか、知ってるかい?」


 リラックスして始まったはずのゼンとの会話が、いつの間にか狂気をはらんだ異様なものへと変わってしまったことに気づいた。ヤツの質問に、俺は首を振った。知ってるかどうか別にして、異常な雰囲気の中、頭が混乱し発するべき言葉を見つけることができない。


 俺の回答を待たずゼンが続ける。


「その答えも、快楽なんだ、自分と同等か、それ以上の快楽を味わっている誰かが存在するという事実に、我慢ならなくなるのさ、

 そしてボクはこれまで、そんな他者に出会ったことはなかった、あらゆるエクスタシーを経験してるからね、だからボクよりも上等な快楽をむさぼる誰かなんて、絶対にいないと信じて疑わなかった、いるはずがないと思っていたんだ」


 そういうことをひと息に喋った後、ゼンは再び目を閉じた。そして天井に顔を向けたまま、ボクよりも上等な快楽、ボクよりも上等な快楽、ボクよりも上等な快楽……小さな声で繰り返しそう呟いた。隣に座る俺のことなど、完全に忘れてるようだ。


 耐えたがい空間だった。だが動けなかった。息を吸うことさえ許されない気がした。念仏のように同じ言葉を唱え続けるゼンの邪魔をすれば、その瞬間に殺される、そう思った。


 ゼンは呟き続けている。俺はそのゼンから、目を離せない。ドリンクで潤ったはずの喉はカラカラに渇いてる。だがホルダーに置かれたボトルへ手を伸ばすことができない。額からあごから首から背中から、ひっきりなしにあぶら汗が流れる。


 この緊迫に、もう耐えられそうにない。そう思ったときだった。

 

 ゼンが、ふいに呟くのをやめた。そして目を開き、俺のほうを見た。まるで夢から醒め今初めて俺の存在に気づいたように、首を傾げながら数回まばたきをして、ああ思い出した、というふうに、あっと口を開けて笑った。


「ああ、悪い悪い、帰る途中だったね」


 そう言って、サイドブレーキを戻し、アクセルを踏む。

 車は再び走りだした。


 しばらくの間、俺たちは何も話さなかった。助手席の窓から見える雲のない空は白み始めている。だが俺の心はまったく晴れない。決して終わらない悪夢にでも迷い込んだようだった。


「音楽でも聴くかい?」


 やがて、村に向かうときと同じように、ゼンがそう聞いた。そんな気分ではなかったが、断るのさえおっくうで、俺は曖昧に頷いた。


 ゼンがラジオをつける。チャンネルは往路で聴いたときのままで、スピーカーからはニュースが流れてきた。よく通る低い声の女性アナウンサーが、たった今俺たちが現場を見てきたN村の事件について事務的に報じていた。

 最終的に確認された犠牲者は21名であること、それは集落に住む全住人の数と同一であること、襲撃犯は付近の森を警戒する捜索隊の網にも捉えられていないこと、などを淡々と告げた。


 そのニュースを終えると、アナウンサーは次に、ナガミネについて触れた。渋谷での、あの演説の際のものと思われる音声が流れた。過剰なほどのエネルギーに満ちた、ナガミネの太い声がラジオから聞こえる。

 アナウンサーによれば、今回のN村襲撃の報を受けて、いよいよ現実のものとなりつつあるディアーボの大群襲来にパニック気味の国民から入党希望が殺到し、その数は2万を超えると推測されているという。具体的な対策を何ら語らない政治結社に、この数は異常としか言いようがない……ある専門家のそんなコメントを最後に付け加えて、アナウンサーはニュースを締めくくった。


 無理もない、と俺は思った。俺だって、何も知らなければ彼らと同じ行動をとるかもしれない。ナガミネにどんな力があるのか、まだまったくわからない。

 けど一方で、この男はすごいことをやってくれるはずだ、そういう期待を抱かせる何かがナガミネにはあった。自信に溢れた声と表情のせいかもしれない。できないことなど何もない、と聴く者に思わせる圧倒的な熱量が、彼には確かにある。


 窓の向こうの空の下、電線にびっしりと留まった鳥の群れを眺めながら、俺はそんなことを考えた。


 ふいに、音声が途切れた。


 ゼンだった。黙ってラジオを聴いていたゼンが、ラジオを消したのだった。ゼンは意味深に俺を見た後、視線を前方に戻し、そのまま運転を続けた。

 

 ほんのわずかの間視線が合ったヤツの目は、俺が黒いディアーボに襲われたあの日――アイリたちをさらい病院から逃げる獲物を車で追跡したあの晩と同じ、暴力的で無慈悲な輝きを宿していたように見えた。


 わけがわからずに横顔を見続ける俺に、ゼンはギラつく獣じみた目と、不敵に歪めた口をはりつけた表情のまま、言った。


「彼に会おう」こちらを向き、繰り返す。


「ナガミネに、会いに行こう」


 そしてアクセルを踏み込んだ。


 俺たちを乗せた車は、後続車も対向車もいない薄暗い畑道を、恐ろしいスピードで駆け抜ける。轟くエンジン音に驚いた鳥の大群が、悲鳴に似た鳴き声をあげて、一斉に夜明けの空へと飛び立っていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ