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その日、女木島は眩しいほどに夏だった。
梨花は額からあふれる汗をタオルで拭い、窓の縁に手をかける。
息を潜めて背伸びをして窓から中を覗き込むと……。
「あーもう。関口さん。手が止まってますよ」
突然、中から声が聞こえ、梨花は亀のように頭を下げた。
「手はちゃんと動かしてください!」
しかし、中の人はこちらには気づいていないようだ。
ほっとため息をつき、もう一度梨花は窓を覗き込む。
窓の向こうは、眩しい夏の日差しが突き刺さる喫茶店だ。
カウンター席にはカラフルな丸椅子が7つ。奥には革張りのソファー席があるように見えるが、席はそれだけ。狭い店である。
「関口さんがコーヒーを習いたいっていうから、町まで行って美味しいコーヒー豆を用意したのに」
カウンターに座った大きな男が、呑気に軽口を叩いていた。
彼の目の前、カウンターの内側には神経質そうな男が一人。その人は、湯気の上がるケトルを手にして立っている。
その神経質男は巨人男の軽口に、ふてくされるように口を尖らせた。
「やり方を間違えていないか、どうにも不安で手が止まるのです。瀬戸さんが見てくださらないので」
「ちゃんと見てますって。でもずっとは見ていられないですよ。だって僕には宿題の手伝いが」
「せっちー」
……と、巨人の隣からよく陽に焼けた腕が伸びる。
「うち、作文すかん。飽きた」
「すかんくても、夏休みの宿題ですから頑張りましょうね」
それはまだ小学生低学年ほどの少女だ。半ズボンにキャラクターシャツという出で立ちの少女は、巨人の腕を遠慮なくつねりあげる。
「飽きた」
「いた……いたたた……待って待って。手伝いますから」
「ちょっと瀬戸さん。私のコーヒーは手伝ってくれないんですか」
「一気に色々できるわけないでしょ……あ、痛い痛いです、ほんとに」
呻く巨人に、にやける少女。カウンターの内側では困ったように太い眉を寄せながら、ちっとも手を動かしていない神経質男。
呑気なホームドラマの一幕のような風景を、梨花は呆れるように見つめた。
(何なのこれ……)
息を潜め、身をかがめ……腰が思ったより曲がりにくいことに梨花はため息をつく。
食べることが一番の趣味のせいか、気を抜くとすぐに贅肉がついてしまうのだ。
そのせいで、隠密行動には向いていない。
(……別に隠れる必要はないし、堂々と入ればいいんだけど……)
梨花はそっとスマートフォンを取り出して、画面を見つめる。それは、カラフルなレシピサイトだ。
『魚福の人気めにゅう』と書かれたページには、ブリの照焼、鮭フライ、サワラの塩焼きなどの写真が並ぶ。
料理といっしょに映る皺だらけの指を、見て梨花は泣きそうになった。
(お婆ちゃん……任せて。私がやっつけるから)
スマートフォンを握りしめ、目の前の店を睨みつける。
木を荒削りしたような外壁には、ネームプレートみたいに店名が埋め込まれていた。
喫茶ダニエル。
それがこの店の名前。
(……鬼姫を)
そして梨花が倒すべき鬼は、この中にいる。
祖母、香西サチ江が亡くなった……と、東京に住む梨花の元に連絡が入ったのは数ヶ月前、春の頃だ。
慌ただしい葬儀を終えて遺品を整理してみれば、そこには80歳のサチ江には似合わない最新のスマートフォンがあった。
すわ詐欺か闇バイトかと騒ぎになったが、そんな大げさな話ではない。
中を見ると祖母の営む定食屋、魚福を宣伝するSNSアプリがずらりと並んでいたのである。
思えば65歳を超えてからパソコンやスマホに目覚め、孫である梨花以上に使いこなしていた人だった。
アルバムに並ぶのは、祖母の料理ばかり。
高性能スマートフォンを買った理由は料理を美しく撮り、SNSにアップするためだ……と気づいた親族はほっと安堵した。
しかし、そのアプリの中に一つだけ不思議なものがあることに梨花は気がつく。
それは素人から玄人まで、誰でも自由にレシピを投稿できるアプリだ。
見てみると、祖母のアカウントでレシピが投稿されている。どれもこれも、店の味である。
ただ、問題はそのコメント欄だ。
普通は料理の味を称え合う、穏やかなコメント欄ばかり。しかし祖母のページだけ、どうにも毛色が異なっていた。
祖母は鬼姫と名乗るアカウントと、激しいコメントバトルを繰り返していたのである。
思えば趣味のゲートボールでも、正論を相手にぶつけては諍いを起こしていた祖母である。
喧嘩のきっかけは恐らく、祖母だ。祖母から突っかかったのだろう。
しかし鬼姫のコメントは、あまりにも舌鋒が鋭すぎる。孫として看過できない。
梨花が祖母から受け継いだのは、怒りっぽい性格だ。朝までコメントを読み込み、DMまで読み込んで……そして気がついた。
祖母は、この鬼姫とこの夏に会う約束をしていたのだ……ということを。
(……だから、来たのに。どいつよ、鬼姫って……)
すっかり熱くなったスマートフォンをカバンにしまい込み、梨花は再び店を睨んだ。
真夏だというのに、この店は窓は全開。入り口の扉は半分だけ開いている。
おかげで中が覗きやすいが、逆に近づきすぎると向こうからも見えるということだ。
見つからないように梨花は入り口の隣に滑り込むと、隙間からそっと店内を覗き見た。
(さて……どこにいる?)
そこに、梨花の探す人物がいるはずなのだ。
(今いるのは……男と男と……女の子……もしかして、あいつ……女っぽいコメントしてたけど、実は男だったの?)
ここまでの道のりは完璧だった。
予定通り早朝に起きて第一便の船に乗って、女木島へ。
女木島は子供の時に臨海学校で来て以来、20年ぶりである。
懐かしさについついあちこち見て回りたくなる気持ちをぐっと堪え、梨花はまっすぐにこの喫茶店を見つけ出した。
最初にかける言葉もすでに考えてある。
料理をするときも下ごしらえが全ての基本だ……と、常々祖母は語っていた。
だから梨花は料理だけじゃなく、どんなときでも下ごしらえや準備を怠らなかった……はずなのに。
(私としたことが)
梨花は乾いた唇を噛みしめる。
(鬼姫の本名も性別も調べずに来るなんて!)
サイトのDMに残されていたのは、夏に女木島の喫茶ダニエルで待ち受ける、ということ。
「ええっと。夏休みの作文のテーマは将来の夢ですよね。パン屋さんとかお花屋さんとか。なりたいものを好きなように書くのがいいですよ。なりたいものなんて、いくつあってもいいんですから」
梨花が悶々と思い悩む間にも、店内は呑気に時間が過ぎていく。
巨人は作文用紙を広げ、少女に差し出す。
何かを書かせようとするが、少女はすっかり飽きた顔で鉛筆を転がして遊ぶばかりだ。
「夢え?」
「うーん、まず1行書いてみては?」
「うちなあ、お魚になりたい」
「お魚さんかあ……」
瀬戸が呻くように呟いた瞬間。梨花の足元に何か温かいものが触れる。
思わず悲鳴をあげかけ、梨花は口をむぎゅっと押さえた。
(……な、なに)
足元を見れば、でっぷりと太った一匹のキジ猫がこちらを見上げている。
(猫!?)
猫は声をあげずに鳴くと、梨花の足に思い切り体当たりをした。
つま先をあげて店内を見張っていた梨花は、ひとたまりもない。
歌舞伎役者よろしく、と、と、とと開け放たれた入り口の前に滑り出してしまう。
「わ……」
店内の三人が驚くような顔でこちらを見た……それに気づいた途端、梨花の頭に一気に血がのぼる。
「た……たのもう!」
想定と異なる言葉が飛び出てしまったのは、祖母の遺品からでてきた時代劇のDVDをうっかり見てしまったせいだろう。
梨花はだらだらと流れる汗を拭うことも忘れて、立ち尽くす。
「あの……お客様……でしょうか?」
巨人男も梨花に負けず劣らず声が大きい。彼もまた飲食店の人間だからだ。
……そう思うと、なぜか無性に腹がたった。
ええい、ままよ。梨花の中に、また時代劇が蘇る。
「たのもう! 鬼娘!」
ぽかんとこちらを見つめる三人を順番に睨み返し……誰が目的の鬼娘かわからないためだ……息を吸い込んだ。
「婆ちゃんの名誉をかけて、こ……このあたしと、勝負しろ!」
「おやおや。蝶子さんのことでしょうか」
一世一代の勇気を振り絞って叫んだ一言。
だというのに、その言葉はカウンターの内側にいる神経質男の言葉によって軽々と受け流される。
「もう亡くなってますよ」
そして、気遣いのないその追い打ちの言葉が梨花の心をポキリと折った。




