第七章 回天
回天とは、流れをガラッと変える力。
治承4年(1180年)、以仁王の令旨が発せられ、源頼政が挙兵した。
その声に呼応したのは、南都の寺院――興福寺、東大寺。
平家は、仏法を敵と見なし、武力で制圧しようとした。
治承4年12月、平重衡が南都に進軍し、火を放つ。
東大寺の大仏殿は焼け落ち、千年の祈りが灰となった。
その業火は、仏の形を奪った。
だが、祈りの気配は、まだそこに在った。
その年、伊豆では源頼朝が静かに立ち上がる。
治承4年10月、富士川の戦い。水鳥の羽音に驚いた平家軍は撤退し、頼朝は関東に根を張る。
一方、信濃では木曾義仲が台頭し、治承5年(1181年)5月、倶利伽羅峠で平家を破る。
義仲は京へ入るが、政治の手綱を握るには未熟だった。
後白河法皇との軋轢が深まり、源氏の内部にも亀裂が走る。
寿永2年(1183年)、頼朝は弟・義経と範頼を派遣し、義仲を討つ。
源氏の中で、誰が武士の世を導くのか――その問いが、静かに燃え始めていた。
寿永3年(1184年)、一ノ谷。
義経は断崖を駆け下り、平家を奇襲する。
鵯越の逆落とし――それは、世に源義経の名を轟かせた。
険しい崖を馬で駆け下るという常識外れの戦術は、敵の背後を突き、戦局を一気に覆した。
大胆な奇襲と俊敏な戦術は、武士の美学を体現するものとして語り継がれる。
この戦で、南都を焼いた重衡が捕らえられる。
彼は仏に帰依し、法然との対話を望んだ。
「我がような罪深き者も、救われるのか」
と問う重衡に、法然は
「念仏を称えれば、阿弥陀の慈悲はすべての者に及ぶ」
と答えた。
だが、焼かれた祈りの報いは重く、元暦2年(1185年)、重衡は山城国木津川の河原で斬られた。
処刑の直前、阿弥陀仏像の手と自らの手を紐で結び、念仏を唱えて最期を迎えたという。
平家は西へ西へ逃れ、屋島に拠点を築く。
文治元年(1185年)2月、義経は海路で屋島を急襲。
義経の戦術は、奇抜でありながら的確。彼の名声はさらに高まる。世に言う、屋島の戦いである。
そして、文治元年3月24日――壇ノ浦。
潮の流れが、すべてを決した。
義経は潮の干満を読み、海戦において優位を築く。
平家の船団は潮に翻弄され、次第に劣勢に。
義経の指揮のもと、源氏は猛攻を仕掛ける。
敗北を悟った平家の人々は、次々と海へ身を投じた。
安徳天皇は、祖母・二位尼(平清盛の妻、平時子)に抱かれ、海へと沈む。
その小さな命が波に消えたとき、ひとつの時代が終わった。
この光景を、入水したものの源氏方に助けられて生きながらえた建礼門院(平清盛の娘、安徳天皇の母)は後にこう語ったという。
「今は亡き安徳天皇は、祖母に抱かれて海に沈まれました。
『波の下にも都がございます』と仰ったその言葉は、まことに哀れで胸を打ちました。
そのお姿を目にしたとき、私の心も体も砕けるような思いでございました。」
平家が滅亡し、源氏が勝者となり、武士の世が本格的に始まる。
その勝利のすぐあと、文治元年(1185年)、源氏の武士の世の始まりを祝うかのように、ある儀式が行われた。
東大寺の大仏の開眼供養である。
筆を執ったのは、後白河法皇。
その筆先に宿ったのは、戦乱の終焉を告げる祈りか。
あるいは、武の世に仏を据え、秩序と慈悲を取り戻そうとする意思か。
焼かれた祈りに、再び光を灯すための筆だった。
復興を担ったのは、重源。
宋の技術を取り入れた「大仏様」建築。
それは、焼かれた祈りを形に戻すための仕事だった。
炎から波へ。
焼かれた仏と、沈んだ帝。
その間に、武士たちは戦い、仏師たちは仏像と向きあい、問いを刻み続けた。
この五年間は、ただの戦ではなかった。
それは、文化と信仰と、人の生き方そのものを揺るがす時代だった。
南都焼討の業火は、祈りを焼いた。
壇ノ浦の波は、命を呑んだ。
そして、再建された大仏は、静かに時代の問いに応えようとしていた。
怒りでもなく、祈りでもなく。
ただ、為すべきことと。




