表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
阿吽  作者: 北天の護人
PR
3/22

第二章 煩悩

煩悩ぼんのうとは、心をざわつかせる欲、怒り、迷いのこと。


安元元年(1175年)、奈良・円成寺。

運慶は、初めて一体の仏像を任された。


堂内はひんやりと静まり返り、木の香が空気に溶けていた。遠くから聞こえる読経の声が、まるで木の中に染み込んでいくようだった。


運慶は鑿を握り、木に向かう。

だが、木の中に仏の顔は見えなかった。

見えるのは、自分の手の迷い、問いの残響。


「守るためか。祈るためか。己のためか」


その問いが、木の奥から響いてくるようだった。


仏像づくりは、木を選ぶところから始まる。

仏像に使うのは、粘りと香りを持つヒノキ。運慶はその木肌に触れながら、仏の姿を探した。墨で輪郭を写し、荒彫りに入る。鉈で大まかな形を削り出すたび、木屑が舞い、堂内に香が満ちた。


だが、形が現れても、仏はまだそこにいなかった。


中彫りに入ると、筋肉の起伏や衣の流れを彫り込む。

運慶は木の繊維を読みながら、仏の姿を「探る」ように鑿を動かした。だが、彫るたびに、自分の煩悩が浮かび上がる。


「名を残したい」

「父を超えたい」

「都の仏師に認められたい」

その欲が、鑿の先に宿る。


ある日、運慶は木の前で手を止めた。鑿を置き、ただ木を見つめる。木目が波のように揺れていた。そこに、誰かの顔が浮かび上がる――平清盛。源頼政。そして父康慶。


「仏とは、何を映すものなのか……」


その問いに答えるように、運慶が気づかないうちに傍にいた老僧が言った。


「大日如来は、すべての仏の根源。その顔には、すべてが宿る。怒りも、慈悲も、迷いも、悟りも――すべて」


運慶はその言葉に沈黙した。

「すべて」とは、何か。

自分の中に「すべて」があるのか。

それとも、彫ることで「すべて」に近づくのか。


仕上げ彫りに入ると、運慶の手は静かになった。

表情の細部、指先の曲線、衣文の端の揺らぎ――仏の気配を宿す部分を、木と対話するように彫った。鑿はほとんど音を立てず、堂内の空気はさらに静かになった。


そして、瞳の部分をくり抜き、玉眼を嵌め込む。

水晶の奥に描かれた黒瞳が、像に生の気配を与える。

その眼差しは、ただの木像ではなく、誰かを見つめ返す仏のまなざしだった。


ある夜、堂の外で焚き火を見つめながら、運慶は独り言を呟いた。


「彫るとは、煩悩ぼんのうを刻むことなのか……」


その言葉に、風が答えたようだった。

木々がざわめき、火が揺れる。

煩悩ぼんのうは消えない。だが、煩悩ぼんのうの中にこそ、祈りの種があるのかもしれない。


そして、開眼供養かいげんくようの日。

僧が読経を唱え、香が焚かれ、灯明が揺れる。

(玉眼でない場合は、この時に僧侶が筆で目を入れる)。

この儀式を終えて、木だったものが、仏になったのだ。


供養が終わり、堂内の人々が静かに去った後、運慶は像の前に立っていた。

その仏像の顔は、若々しく、柔らかく、どこか不確かだった。

怒りでも祈りでもない。問いの途中にある者の、まだ定まらぬ手の跡が、そこに刻まれているのかもしれない。


「これは……問いの形か」


その言葉を聞いていた老僧が、運慶の脇に立ち、静かに言った。


「問いの形やもしれぬな。その答えは、誰かの心の中に宿るもの。

この像が、迷う者の傍に在れば、それだけで、

その者を温めうるかもしれぬ」


運慶は像の頬に刻まれた線を見つめた。

それは、自分の迷いの痕跡だった。

だが、迷いの中にも、灯はあるのかもしれない。


その夜、運慶は夢を見た。

木の中に、無数の顔が浮かび上がり、問いかけてくる。


「おまえは、何のために彫るのか」


運慶は答えられなかった。

ただ、鑿を握りしめていた。

大日如来は宇宙の真理そのものをあらわす、密教の中心仏。


煩悩ぼんのうとは、仏教における人間の心を悩ませ、苦しませる精神的な働きのこと。簡単に言えば、欲望・怒り・無知など、私たちの心を乱す感情や執着の総称。煩悩ぼんのうは、私たちの苦しみの原因とされる。例えば、

• 欲しいものが手に入らない → 苦しみ

• 他人と比べて嫉妬する → 苦しみ

• 怒りに振り回される → 苦しみ

仏教では、これらの煩悩を乗り越えることが悟りへの道とされており、修行や瞑想によって煩悩を減らすことが目指される。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ