事例 3
――ああ、そう言えばこんなことがありました。
あれは確か、十数年前の事でしたか……。
一人の男の方が、このお店を訪れたのです。
その方は、まあ大層くたびれた身なりをしておりまして、目にも覇気が全く感じられませんでした。
……いえ、一応スーツを着てはいましたが、手入れをしっかりされていないのか、ところどころしわが寄ったり汚れていたりしていまして。
髪の毛はぼさぼさで伸ばしっぱなしというありさまでしたし、髭は無精髭を通り越して武将髭とも言えるほどもじゃもじゃしておりました。
それに何より、身にまとう雰囲気というか、一挙一動から暗い物が漂っている感じがしたのを、よく覚えています。
最初にその方を見たときは、『これは素晴らしいお客様が来た』と思ったものですよ。
……まあ、その理由はおいおい話して行きましょう。
その部分が、このお話の中心となる部分ですからね。
その後はまあ、とりあえず恒例となったこのお店についての説明を行い、趣旨を理解していただきました。
この方の場合は、完全に否定はされませんでしたが、頭から信じてもらえもしませんでしたね。
半信半疑――というよりは、何に対しても積極的な興味を持っていないようにも見えました。
全てにおいて流されるまま、何でも受け入れて、何でも流す……。
どうも、そんな生き方をしていらっしゃるようです。
……まあ確かに、あまり良い生き方とは言えませんね。
言ってしまえば、主体性のない他人任せの生き方、ということになりますから。
直接的な軋轢を生むことはないでしょうけど、完全に異なる正反対の意見すらも受け入れかねないその姿勢は、本人にとっても周囲の方にとっても良い物にはなりえません。
いわば、消極的な八方美人というやつですから。
本当の意味での友人は、できないでしょうね……。
……まあ、そんなどうでもいいことはさておいて――おや、どうしたのですか? なんだか脱力しているようですが。
……最初から言っている通り、私が大切にしているのはあくまで自信のみです。
それを生み出している人間たちへ最低限の敬意は払いますが、自信をやり取りする以上の干渉は致しませんし、するつもりもありません。
それが、私の主義でございます故……。
……話を戻しましょうか。
その方も完全に納得はしていなかったようですが、ともあれ先ほど述べたような性格でしたので、私に促されるまま自身の――自信の悩みを話し始めました。
そしてその話を聞いていくうちに、私が当初彼に抱いた期待がどんどん確実な物へとなって行ったのです。
……彼は、自分に全く自信を持てていなかったのです。
彼が持っていたのは、自分が周りの誰よりも劣っているという思いと、そんな周りの人たちに対する妬みだけでした。
どんなことに手を出しても中途半端で終わり、誰からも負け続ける人生。
それが、彼の日常だったのです。
……自分に自信が持てないということは、確固とした自分がないという事です。
それ故に彼は『自分』という物をしっかりと定義できず、自らを他人へと預けてしまったのでしょう。
楽な生き方であることは認めますが、面白みは全く感じませんね……。
……ですがそれ故に、私は彼の中に素晴らしい自信があるのを確信いたしました。
……それはですね、『自分が駄目である』という自信です。
……おや、ずいぶんと不思議そうな顔をしていらっしゃいますね。
ですが、別に何の不思議もありませんよ。
劣等感だって立派な自信たりえます。
……私の思う自信という物は、『自分はこういう存在である』と定義する心の強さの事です。
それ故に、『自分がダメであり、他の全てに劣る存在である』という劣等感も、自信の一つなのです。
言ってしまえば、マイナス方向の自信、ですかね。
……別におかしい事ではありませんよ。
物事は表裏一体になっていることが多く、方向性さえ考えなければ、すべての自信は心の強さと言えるのです。
そして、私はその時までそれほど強烈な輝きを放つ劣等感を見たことがありませんでした。
その輝きは、比較的冷静で落ち着きがあると自負している私ですらも一瞬で虜にしてしまうほどに大きく、それでいて濃厚な光でした……。
……ああ、あれは今思い出しても素晴らしい光でした……。たとえ一日中眺めていても飽きないほどに……。
……っと、失礼、少々思い出し興奮をしてしました。
まあ要するに、その方の持つものは、私にとってはとても価値があるものだった、ということです。
しかもそれは状態が安定しているものではなく、言葉通り気持ちひとつで価値が下がってしまいかねないものでした。
ですので、普段より少しだけ性急でしたが、取引を進めることにしたわけです。
……さて、そこからが大変でした。
私の方から『あなたの劣等感をいただきたい』と交換条件を先出ししてしまいましたので、交渉の場での立場において私の方が劣勢になってしまったのですから。
なんとしても彼の劣等感が欲しい私は、彼の要求を飲まないわけにはいきません。
彼も私の口調からそのことを悟ったのでしょう、最初はぎこちなく、しかしだんだんと大胆に要求を吐き出し始めました。
その姿勢からは遠慮という言葉は微塵も感じられず――いえ、むしろそれまで遠慮し続けてきたが故の反動だったのかもしれませんね。
『勉学への自信』、『スポーツへの自信』、『人間関係への自信』……
その他様々な自信を、彼は己の劣等感と引き換えに持って行ったのです。
まあ、彼の劣等感は先ほども述べた通り膨大でしたので、大抵の自信はお分けできたのですけどね。
私もお止めしたのですが、その方の熱意に負けてしまいまして……。
……彼は長年、自分の無力さに苦しんできました。
それはおそらく、どのようなきっかけかは不明ですが、幼少のころに得てしまった小さな劣等感が原因の一因となっていたのでしょう。
自信とは自身を定義する力。
彼は自身の望まぬまま『駄目な自分』と定義し続けていたのです。
それでは成功の確率も下がってしまって当然でしょう。
成功したくとも成功できないという現状から更なる劣等感が生まれ、そしてまた成功の確率を下げていく……。
そういう負の連鎖を起こし続け、そしてそれまでの彼が形作られたのです。
……『自分は誰にも勝てない存在だ』。
彼は心のどこかで自分をそう定義付け、無意識のうちにそれを勝てない免罪符として利用していたのでしょう。
その証左が、彼の『全てを受け入れる』というスタンスです。
自分に自信が持てないからこそ、その姿勢を保ち続けることに疑問がわかなかったのでしょうね。
……ここで注意していただきたいのは、『自信という物はあくまで能力を引き出す力でしかない』という事です。
劣等感が彼の足を――存在自体を引っ張っていたということを差し引いても、彼自身の能力値はそこまでではありませんでした。
並程度の能力に、膨大な自信を詰め込んだ存在。
それが、その方の未来でした。
それまで劣等感に苛まれ、周囲に溶け込むように過ごしていた人物が、いきなり分を超えた自信をまき散らせばどうなるか、想像できますか?
……おそらく、お客様の想像以上だと思われます。
『出る杭は打たれる』と申しますが、彼の場合はいきなり何の前触れもなく飛び出して来たようなものですからね。
周囲の方の反発もひとしおだったことでしょう。
下手の横好きでは、すまされなかったでしょうからね。
過度な自信は身を滅ぼします。お客様も、お気を付け下さいませ。
……まあ、何があっても私には関係ありませんが、ね。




