プロローグ
夜の後宮は静かに寝静まっていた。遠くから響く虫の声、鳥の声、今聞こえるのはそれだけ。
建物は、私がもといた世界で例えれば、おおむね中華風の木造建築だ――とても大規模ではあるけれど。
でもどこか東欧ふうのデザインやアールデコ調の意匠も含まれていて、ここにいたるまでに複数の文化が入り混じっているように思えた。
この世界には電気なんてなくて、今も燭台の明かりだけが夜の闇をわずかに押しのけている。
寝台の上で、薄い掛布団を腰にだけ載せていると、部屋の中の別の寝台で横になっていたはずのダンテが、私の上に覆いかぶさってきた。
「……だめだよ、ダンテ」
ダンテは浅黒い肌に猛禽類のような金色の瞳の持ち主で、やややせ型なのに――いや、引き締まった筋肉質なやせ型だからこそ、夜中に見ると奇妙な迫力がある。
彼の年齢は二十二歳らしい。私はもといた世界では二十七歳だったから、彼のほうが少し年下。
でも、今の私の体は二十一歳。私のほうが年下だからというわけではないのだろうけど、彼はまるで遠慮なしに、仰向けになった私を上からのぞき込んでいる。
私はつい、胸元の薄衣を合わせた。
「なにがだめなわけ? いいじゃん、これくらいのことはさ。みんなやってるでしょ、きっと」
彼は辺境の小国とはいえ若くして一国の将軍位にあるのに、この軽さだ。
剣の握りすぎで固く荒れた手の指が、私に伸びてくる。
ダンテ――断帝・アル・ハルキリンガムの身長はたぶん百八十センチ近い。やや青みが買った黒いミディアムヘアで、後ろ髪を伸ばしている。その髪の先も、さらりと私の上に降ってきた。
「だめ」
「いいって言いなよ、リア様。じゃなきゃ、無理矢理みたいだろ」
リア。正確には璃杏・ハウザール。それが今の私の名前だ。
この世界に転生する前の名前は木洩日初乃。食品流通とそのコンサルタントを手掛ける会社で営業事務をしていた。
転生することで、少し身長は低くなり、歳は若くなって、見た目はだいぶ……かなり、きれいになった。リアは、誰もが認める美女だ。
それは正直ありがたいとも思う。思うんだけど、今の状況は決して楽観できない。
「……無理矢理じゃないのよ。私、だめだって言ったよ」
「違うよ。リア様は、本当はいいよって思ってくれてるに決まってる。そうでしょ? ……」
ダンテの指がさらに伸びた。
私の枕元に置いてある、紙の束へと。
私はそれをさっと取り上げて寝台から飛び降りる。
「だからー! 詩くらい自分で書きなよ! なんで私のをカンニングしようとするの!」
課題の詩作に行き詰まり、とうとう寝台で寝っ転がりながらうんうん悩んでいた私は、とりあえず思いついた詩的な言葉をとりあえずの紙にとりあえず書き留めていた。
「いーだろそんくらい。おれ詩なんて書いたことねえんだもん」
藪にらみに私をにらんでいるダンテが、顎のあたりをさすっている。
私の腕に残る感覚からするに、寝台から降りた時に私の肘がダンテの顎に入ったらしい。
いきなり覆いかぶさってなんてくるから、自業自得だ。
「そんなの、私だって書いたことないよ! 学校の授業でちょっとやったくらいで!」
「学校ぉ? リア様が行ってたのは学校っつっても、王族学校だろ。それこそ詩とか演劇鑑賞とかばっかじゃんか」
「……そうなの? でもほら私、記憶喪失だからあ……」
私がそう答えると間抜けな沈黙が部屋の中に降り、かたわらからぱんぱんと手を叩く音が聞こえた。
私のメイドのアゾだ。二十代後半の女性で、すらりとした姿勢が暗い中でも目を引く。
「ダンテ様、リア様、その辺で。というかリア様は後宮に入った身として詩作は義務のようなところがありますが、ダンテ様はそんなことをなさる必要はないのでは」
「だって。なんかおれだけできなかったらむかつくじゃん」
なんだそれはと嘆息しつつ、私はアゾがいるのとは別の部屋の隅に目をやる。
そこには、ダンテの弟のホウメイがあきれたような顔で寝台に座っていた。この四人部屋では、全員に一つずつ寝台が与えられている。
ホウメイ――崩明・クル・ハルキリンガムは、兄よりもやや短めの髪型なのだけど、今はロングヘアのウィッグをかぶっていた。体系は縦も横もダンテより少し小ぶりだけど、すでに実践経験充分の副将軍だ。本来は。
「兄上、あまり意味のない行動をとられないほうがいいのでは。リア様にもご迷惑でしょう」
「ああ!?」ダンテが立ち上がる。できれば、私の寝台の上に立つのはやめてほしかったけど。「なに言ってんだ愚弟ッ、リア様がおれのすることを嫌がるわけねーよ!」
私は半眼になり、
「……どこからくるの、その自信」
と突っ込んだ。……実は当たらずとも遠からず、ではあったけども。
さっきのしかかられかけた時も、二人きりだったらだいぶ危なかった、かもしれない。顔が赤くなってないか、指先でこっそり頬に触れて確認した。……熱い。
でもだめだ。好感を持っちゃいけない。間違っても、推してはいけない。
アゾがダンテに、寝台から降りるように促し、
「ダンテ様、お召し物の襟が崩れております。ただでさえ女物など着慣れないでしょうから、もう少ししとやかにお過ごしください。それとあまり大きな声を立てられませんよう」
ダンテは(寝台から降りないまま)くるりとターンして、半裸に近いほど着崩れた、中華風着物を見下ろした。柔らかな布地の女物は、着ているというよりもむしろ巻きつけているに近い状態になっている。
こっちが目のやり場に困るほど、叩き上げの将軍としては薄目らしい胸板も、その胸から続く研ぎ澄まされた腹筋も、くっきりと浮き出た腰骨まであらわになっていた。
蠟燭の明かりの中で、私は男の人の肌が作り出す細かい陰影に、目を奪われそうになってしまった。
……ダンテだから、かな。
確認のため、今度ホウメイに腹筋見せてもらおうか。
いやだめだめ、なにを考えているんだ。
「なんだよ、おればっかり。言っとくけど、ホウメイのほうがよっぽど女装で喜んでるからね。はっ、うきうきしやがってむっつりすけべが」
「なっ!? なぜ僕が、女装で喜んだらすけべなのです!? あいやちがう、喜んでもおりませんよ! 信じてくださいますね、リア様!?」
「えっ? あ、ああうん、そうだね。でも別に喜んでてもいいと思うけど……」
「おりませんっ!」
「お静かに」とアゾ。
「あーこのヒラヒラした服本気で落ち着かねーわ。あと、この香? 甘ったるくて気持ち悪くなるんだけど。胤の文化ってどれもこれも好きになれねーんだよな、建物はなんか辛気くせーし」
「ダンテ様。胤の文化は大陸の中枢なのです、間違っても人前でそのようなことをおっしゃられぬよう。あなた様の国に類が及ぶことになりますよ」
アゾの小言は、中央国であるこの胤に到着してから、いとまもなく続いている。
後宮への潜入任務は、前途多難かもしれない。
今はまだ、この後宮にいる女の人はみんな五体満足だ。そう。今はまだ。
やっぱり私は後宮は好きになれない。この世界では、特に。
ここにくるまで、結構長かった。でも、これからが本番だ。
戦争を防げるかどうかは分からない。この後宮を潰せるかも、まだ分からない。
でもやれるだけのことはやろう。
私は二人の女装男性と一人のメイドを見つめながら、決意を新たにした。




