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第一章 西国の覇者・黒江清長

「姫様、間もなくお着きにございます」

小夜に付き従ってきたマツが、緊張した面持ちで告げる。

小夜は、小さく顎を引いた。輿の隙間からみえた城の門前には門火が焚かれているのが見えた。


控え間に通され、化粧を施し、白い装束に着替える。その間にも侍女が忙しそうに動きまわり、外では小者が輿入れ道具を運び込んでいる。小夜だけが一人取り残されたように、その場に座っていた。


しばらくすると、厳かな足音とともに侍女から声がかかった。

これより、輿入れの儀式が始まるのだ。静かに開いたふすまの向こうから大きな男が姿を現した。その男は白直垂姿で、小夜はこの人が黒江清長だと理解した。側に控えていたマツが「尾張の血筋、小谷の姫君にございます」と告げる。

襖が閉められると、だだっ広い室内には、小夜と清長、そして小夜の後ろに控えるマツと、黒江の侍女の四人だけが残された。

室内に厳かな静寂が立ち込める。

まだ十三歳の小夜にとって、目の前に現れた男は、あまりにも巨大な「大人の男」だった。今年で二十三になるという若き当主は、ながらく西国を治めてきた家の当主に見合う覇気を纏っていた。穏やかに細められた目元には、冷徹な底知れなさが同居していた。何より六尺を越えると噂されるほどの巨躯は、部屋を一瞬で支配するほどの威圧感を放っている。

室内に足を踏み入れてくる衣の擦れる音と香の匂いが、小夜を緊張させた。

小夜の向かいに男が腰を下ろすと、黒江の侍女の手によって盃に酒が注がれる。

家と家を結びつけるため「三献の儀」が始まろうとしていた。三献の儀では小・中・大の三つの盃に注がれる酒を交互に飲んでいく。

儀式が始まり、一番小さな「一の盃」が男の前に出される。目の前の男は、静かに口をつけ、三口で飲み干した。

次は小夜の番である。「一の盃」に同じように酒が注がれる。

小夜はわずかに震える指先で盃に手を添えて、持ち上げる。酒の熱さが喉を焼く。清長はただ静かに、小夜の一挙手一投足を見下ろしていた。

酒に慣れていない小夜は、「二の盃」を飲み干したあたりから息苦しさを感じていた。喉の熱さは一向に引く気配がない。

その時、「三の盃」を飲み終えた清長の目が微かに動いた。そして黒江の侍女に向けて、顎をほんの一寸だけ下へ引いた。

その清長のわずかな行動にマツは気がついていた。黒江侍女が「三の盃」に酒を注ぐ。

注がれた酒の量は、器の底をかろうじて満たすほどの、ほんの一滴にすぎなかった。小夜は盃を持ち上げて、酒の量が少ないことに気が付いた。小夜は唇を盃の縁につけて、飲む真似をする。わずかな酒で潤んだ小夜の唇が和らいだ。小夜の肩から、緊張がほんのわずかに抜ける。

小夜は盃を置くと、これまで怯えたように畳に縫い付けられていた視線を、ゆっくりと正面の男へと向けた。

それまで、小夜の胸の中には「乱暴な方だったらどうしよう・・・」「恐ろしいひとだったら・・・」という恐怖と緊張で満たされていた。

顔をあげた小夜の瞳に驚くほど整った冷たい容貌が映った。

(このお方が、黒江清長様・・・私の夫になる人)

相変わらず底知れぬ瞳と、堂々たる覇気を纏っているが、小夜の胸に暖かい小さな、小さな灯が生まれた。


輿入れの儀式が終わると、張り詰めた空気から一転。黒江の親族や家臣が招かれ賑やかな祝宴が始まった。

山海の珍味が振舞われ、華やかな芸事が披露された。戦国武将たちにとってお酒をたくさん飲むことは、豪胆さの証明でもある。家臣たちは進んで浴びるように酒を飲み、どんちゃん騒ぎである。しかし賑やかな中にも、不思議な緊張が漂っている。

その不穏な空気が、酒に緩んだ男たちの口から洩れ始める。

盃を傾けている家臣の男は、小夜に冷ややかな視線を向けながら、隣の男に声を潜めた。

「・・・見てみろ、あの細い首を。まるで風が吹けば折れそうではないか。」

「声を落とせ。だが、噂通りまともに口も利かぬ能面のようだな。」

それも、仕方のないことだった。黒江家からみれば、小夜は豊臣秀吉の送り込んできた間者に等しい。まだ和睦してから日の浅い、豊臣と黒江には緊張が残っていた。その緊張は、この婚儀にも引き継がれ、小夜は居心地の悪い思いを抱えることになる。

あちらこちらで小夜に対する噂話はされているようだった。

誰よりも厳しい視線を向けていたのは、清長の叔父にあたる吉川元春と小早川元景であった。

周囲の誰もが小夜を敵とみているこの広い城の中で、小夜は独りぼっちになったみたいだった。

顔を隠すように下を向いた小夜の視界に、きつく握りしめ震える自身の拳が見えた。


その時、隣からドサリと重々しい衣擦れの音が響いた。喧騒に包まれていた宴席が、水を打ったように静まり返る。

小夜が恐る恐る視線を横にずらすと、思いのほか近くに白直垂の袖が迫っていた。

「尾張殿は、大層肌が白いですな。」

黒江清長が小夜の顎を持ち上げるようにして、顔を覗き込んだ。

男の指先は、驚くほど熱く、大きい。

「確かに噂通りだ。」

その言葉に座がざわめいた。小夜も自身の噂を知っている。

—能面のようだ

—ニコリとも笑わない

—何を考えているか分からず、口もきけぬ

そんな噂をされていた。小夜は値踏みするような視線に耐えかねて視線をそらした。

「噂に聞く通り、まことに見事な美貌だ。まだ年若い、これほどの姫君を迎えられたことを嬉しく思う」

清長の朗々とした声が響く。

清長はそう言って、手を離すと盃をぐっと煽った。

「まだ年若い姫君」という言葉の裏にある真意を、叔父たちや聡明な重臣たちは悟った。

清長は暗に、「まだ幼い姫君に、寄ってたかって敵視するな」と告げたのである。

ピりついていた重臣たちの空気が僅かに揺らぐ。元春が小さく息を吐き、元景が「・・・ふむ」と頷いた。誰もそれ以上、小夜を嘲るような言葉を口にすることはできなくなった。

再び座に、賑やかさが広がった。清長も冗談を飛ばしながら、家臣と笑っている。

小夜はその横顔から目が離せなかった。

(ああ、この人となら・・・)

そんな小夜を、後ろに控えていたマツは、じっと見つめていた。

マツの胸に、言葉にできない安堵の涙がこみ上げてくる。小谷城で生まれたばかりの小夜を抱き上げてから、マツは小夜を主として付き従ってきた。小谷から逃げるとき、北ノ庄での出来事、岡田義永へ輿入れするときも、マツは小夜の安寧だけを願っていた。

マツの願いはむなしく、この度の婚姻で、姫様はとうとう壊れてしまうとそう思っていた。

しかし、小夜の夫となる男が見せた気遣いに、張り詰めていた心の糸が解けていったようだった。

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