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序章—春をまつ

建物が軋む音。ゴウゴウと音を立てて空高く燃える炎。黒い煙を深く吸い込むとイガイガする喉。震える誰かの指を握った。

生まれて数か月の少女が、乳母の腕の中でみた最初の世界だった。


——天正元年(1573年)ー小谷城落城


北近江を治めた浅井家は、織田信長との戦に敗れようとしていた。

浅井長政は、嫡男・万福丸に家臣をつけて城から逃がし、正室・お市の方と四人の娘、茶々、初、江、末妹・小夜を織田方へ引き渡した。最後の仕事を終えた浅井長政は、燃えゆく城の中で自害する。小夜が父の顔を知ることはなかった。


その後、姉妹は母とともに岐阜城に移ることになる。

岐阜城の城主は母・お市の方の兄にして、天下に最も近い男――織田信長である。

戦に明け暮れる男の城でありながら、幼い姉妹に与えられた日々は、穏やかなものだった。作法を学び、文字を習い、時には庭を駆け回る。

「江姉様、待ってください・・・」

「小夜は遅いわね!こっちよ!」

小川に沿って走る江の声が青空に響く。小夜は息を切らしながら、その背を追った。

小川では笹舟で競争し、魚を追い、江と小夜は日が暮れるまで遊びつくした。

活発な江に連れまわされた小夜はすっかりくたくたになっていた。帰り道を自力で歩く体力も無くなっている。

「・・・もう歩けませぬ」

小夜はその場にしゃがみ込み、ふくれた顔で膝を抱える。江は振り返り、呆れたように腰に手を当てた。

「本当に小夜は体力がないんだから、まつに背負ってもらったら?」

小夜付きの侍女・まつが困ったように微笑む。

「・・・ゃ・・です」

小夜は膝に顔を埋めモゴモゴと何か言った。

「なによ?」

江は小夜の側まで寄ってきて耳を寄せた。

「やです、姉様がおぶって・・・」

小夜は腕を広げて、「さあ、私をおぶってください」というような顔をした。

「甘えん坊なんだから」

江は呆れながらも背中を向ける。

年の近い二人はよく一緒に過ごした。江は年上の茶々や初には甘えていることも多いが、小夜にはこうして姉らしく振舞うところがあった。四姉妹の気質は、それぞれ違っている。

長女・茶々は妹たちを従える勝気さと責任感の強さがあった。面倒見もよく、そんな茶々に江や小夜は甘えっぱなしだった。

次女・初は、穏やかで、姉妹の間を取り持つ優しさを持っていた。小夜と江の喧嘩の仲裁をするのも初である。

三女・江は好奇心旺盛で、誰よりも自由で前向きな性格である。実は四姉妹の中で一番怖いもの知らずかもしれない。

そして、四女・小夜は、頼れる姉たちに囲まれた甘えん坊で、よく泣き、よく笑う子だった。誰かの袖を掴んでは甘える。それを姉たちも放ってはおけなかった。

 江に背負われた小夜は、そのまま眠ってしまった。年の近い姉にとって、眠った子どもの重さはなかなか骨の折れることだった。

「もう・・・重いったら」

見かねたまつが、小夜を受け取る。

「ふふ。姫様も姉上様と遊べて嬉しかったのでしょう。いつもよりはしゃいでおられて心配なくらいでした。」

江は「仕方ない子ね」と呆れた。その頬は夕焼けに染まっていた。


しかし、穏やかな日々は長くは続かない。姉妹の運命は、戦乱によって大きく揺らぐことになる。



——天正十年六月。

織田信長が、本能寺にて討たれた。

その死は天下の形だけでなく、姉妹の運命も揺るがすことになる。やがて母・お市は信長の重臣である柴田勝家に再嫁した。小夜たち四姉妹もまた、母とともに越前・北ノ庄城へと移り住む。

けれど、北ノ庄城での暮らしは長く続かなかった。


——天正十一年四月。

羽柴秀吉と対立していた柴田勝家は、ついに北ノ庄城へ追い詰められていた。

城内には張り詰めた空気が漂っていた。廊下を急ぐ足音と鎧の擦れる音が、そこかしこから聞こえてくる。

小夜にも、何か良くないことが起きているのだと分かった。

籠城戦となる中、母は四人の娘たちを呼び寄せた。

「母は柴田殿とこの城に残ります。あなたたちは、あの輿に乗って抜け出しなさい。」

その声は、糸を張ったように静かに響いた。ひどく穏やかに話を続ける母に、小夜は恐ろしくなった。

「いや・・・っ」

小夜は涙を流し、母の袖にしがみついて首を横に振る。

「母上も一緒に参りましょう・・・!」

江もまた、声を上げて泣いた。けれど母は答えなかった。泣き崩れる娘たちを抱きしめ、優しく髪を撫でた。

「妹たちを頼みましたよ」

涙をこらえる茶々の肩へ、そおと手を添えた。

「織田と浅井の血を絶やしてはなりません。」

母の背筋はどこまでもまっすぐだった。母の姿が茶々の胸へ深く刻まれた。

四人の姫たちは一台の輿に乗せられ、大勢の女中とともに送り出された。茶々は、母が秀吉にあてた「娘たちを保護するように」と書かれた書状を強く握りしめていた。

輿の中でも、小夜の涙は止まらない。

「いつまで泣いてるの?・・・しゃんとしなさい」

目を赤くした江が、小夜の頬に流れる涙を無理やり拭った。

「ははうえ・・・」

なおも涙がこぼれる小夜に、ついに江の瞳も再び潤んでしまう。江は妹には涙をみせまいと、初の袖の陰に隠れた。初は何も言わず、その背を撫でる。姉妹の沈んだ空気を破ったのは茶々だった。

「泣いてはなりませぬ。母上が小谷でのことをどれほど悔いておられたかを知っているでしょう。」

長女・茶々が背筋をのばして、妹たちに語り掛けた。その指はかすかに震えている。

「母上は浅井と織田へ覚悟を示されたのです。それを嘆く理由がありましょうか。」

茶々は震える指を袖の中へと隠した。

この時、長女・茶々は十三歳、次女・初は十に歳。三女・江は十歳、四女・小夜は九歳の頃であった。


母を失った姉妹は、その後、従兄・織田信雄の庇護をうけて、叔母・お犬の方のもとに身をよせる。

この時から茶々は一層武家の姫として誰よりも強くあろうとし、妹たちにを厳しく躾けるようになる。そんな茶々に江が反発する姿も見られ、初は2人の間を取り持つことも多かった。目まぐるしく変わる環境に、姉妹たちは子どもではいられなくなっていた。しかし、下の妹たちは体がついていかないようで、茶々はそんな妹の将来を危惧して厳しく接していたところがあったのかもしれない。初には茶々が長女として妹たちのことを気負っているように見えた。

この頃から、小夜は塞ぎこみがちになり姉たちを心配させた。部屋に閉じこもることが増え、窓の外ばかりを見るようになる。

「小夜、一緒にお庭で遊びましょう?」

引きこもりがちな小夜を心配して初が声をかけた。小夜は小さく頷いて、手を引かれるままに庭へ出る。

「ほら、段々暖かくなってきたのよ。」

日差しは明るく、風もどこか暖かい。

「姉さま!小夜!あっちの花はもう咲き始めてるわ」

庭で遊んでいた江が初と小夜に気が付いてかけてきた。江は小夜と初の手をグイグイ引っ張って連れて行こうとする。

「まあ、お琴の稽古はどうしたの?」

「・・・逃げてきたたの。お琴は苦手なんですもの」

江は口を尖らせる。初は呆れたように笑った。

「小夜はお琴が上手よね!また小夜のお琴が聴きたいわ」

江は慌てて話題を変えようと試みた。

「そうねぇ、小夜のお琴は私もまた聴きたいわ」

江は初の目が小夜に移ったことに、ほっと胸を撫でおろした。しかし三人の背後に近づいてきた人物には気が付かなかったらしい。

「こら、話をそらそうとしても無駄ですよ」

背後から聞きなれた声がした。

「・・・ッ‼」

江は驚きに肩をはねさせた。振り返った先にいたのは、茶々だった。

「もう姉上様!驚きました!」

「お江、大井殿が探しておられましたよ」

江の顔がみるみる曇る。

大井殿とは江の乳母兼教育係で、稽古から逃げ出した江をよく探している。

「困らせてはいけないでしょう。」

初に続いて、茶々にも窘められてしまった江は、しぶしぶ稽古へ戻っていった。

残された三人は、春の庭を歩く。

「暖かくなってきたわね」

「そうですねぇ」

茶々と初は話しながら、小夜を見る。小夜は2人の会話が聞こえていないのか花と花の間を飛ぶ蝶を目で追っていた。

そんな小夜に姉たちはため息が出た。呆れたのではなく、反応の鈍い妹を心配してのことだった。


——天正十二年・春。

江が、織田信雄の家臣・佐治一成へ嫁ぐことになった。嫁ぎ先には、叔母・お犬の方がいる。幼いころから面倒を見てくれている叔母の存在は、姉たちにとっても、江にとっても幾分かの安心でもあった。

「江なら大丈夫でしょう」

初はそういった。茶々も同意するように頷いた。

江は泣いて、怒って、感情を表に出して甘えることが出来る子だった。快活でまっすぐで、姉たちの心配は少なかった。

問題はもう一人、小夜だった。

小夜もまた、織田信雄の家臣・岡田義永へ嫁ぐことが決まっている。

その知らせを受けたとき、姉たちは顔を見合わせた。まだ幼さの残る妹は、母を失ってから笑うことが減った。

「小夜のことが心配だわ・・・」

茶々は庭先を見る。陽だまりの中、小夜がぼんやりと花を見つめている。

「まさか、私たちよりも先に妹たちが嫁ぐなんて・・・」

初がぽつりとこぼす。

「江にはお犬の方様がいらっしゃるけれど」

言葉はそこで止まった。

眠る前には決まって姉たちの姿を探す小夜。そんな妹を、一人送り出さねばならない。茶々は落ち着かなかった。

小夜を心配した茶々は、小夜の輿入れについていく小夜の乳母・侍女・腰元に至るまで全員に小夜のことをよろしく頼むように言って回ったほどである。

小夜は嫁ぎの日、何度も振り返った。けれど最後まで「行きたくない」とは言わなかった。強くあろうとする茶々に、これ以上の心配をかけられないと思ったからである。小夜もまた、姉のことが心配だった。頑張ろうと思ったのだ。

そんな小夜の思いを、初は感じていた。

——どうか、妹たちが無事でありますように。

初が、姉とし願える全てだった。


しかし小夜と岡田義永の婚姻関係は長くは続かなかった。

このころ、姉妹を庇護していた織田信雄は徳川家康とともに秀吉と対立していた。その最中、小夜の夫・岡田義永に秀吉への内通の疑いがかかる。疑いははれぬまま、義永は誅殺された。

小夜が嫁いで1年もたたない冬のことだった。

小夜は連れ戻され、姉たちと再会した。帰ってきた小夜を見たとき、茶々と初はあまりの変わりように驚いてしまった。

体は薄くなり、表情が消えていたた。送り出した一年前のあの日までは、まだ話しかければ答えてくれて、控えめながらも笑顔もあった。それが一年でこんなにも変わってしまうものなのだろうか。


小夜が織田家の庇護下に戻ってからすぐのこと、信雄は徳川家康と同盟を結び、羽柴秀吉と対立した。信雄と秀吉の争いは尾張を戦場へ変え、各地を巻き込んだ。だが、争いの末信雄と秀吉は和睦する。

結果として、信雄は所領を減らすこととなり、織田の世は終わりを迎えつつあった。やがて天下は秀吉のものとなっていく。



——天正十四年。

姉妹には、それぞれの進むべき道が迫っていた。

四姉妹を庇護している織田信雄は、すでに秀吉の勢力下にあった。それは四姉妹の婚姻もまた天下人・秀吉の意向が強く反映されることを意味している。母・お市がそうであったように、四人の姫たちもまた覇権を争う者たちの「政略の駒」として、その渦中で数奇な運命を辿ることになる。

秀吉は、もともとの主家であり、未だに影響力をもつ織田家とのつながりを保つため、秀吉は茶々を望んだ。

茶々は求婚に対し、まずは妹たちの縁組を整えることを求めた。

それは長女としての責任であり、なにより母と交わした約束のためだった。

やがて、姉妹の嫁ぎ先が決まる。

初は、秀吉の直臣で、浅井家の主家であった京極家当主・京極高次へと嫁ぎ、近江へ。

江は離縁を経て、秀吉の甥・豊臣秀勝へと嫁ぐこととなった。

そして、小夜の縁談もまとまった。

相手は、西国十余国に影響を持つ黒江氏の若き当主・黒江清長である。

瀬戸内海えを支配する黒江水軍を配下にもち、畿内にも近い広大な領地を治める。西国の覇者とも呼ばれた黒江家は、豊臣政権にとって極めて重要な存在であった。数年にわたり豊臣政権と争ってきた黒江氏との関係を強化するために、黒江清長と小夜の婚姻はを推し進められた。小夜が清長に嫁ぐことは豊臣政権と西国の和睦の証であった。

茶々は小夜の婚姻に不満をもつとともに、上手くいけばこれ以上のものはないとも思った。

茶々も、初も、そして江も、それぞれ浅井・織田や豊臣に近い家に嫁ぐことになった。しかし小夜は、これまで一つも縁のない家家に嫁ぐことになる。行き来も手紙のやり取りも容易にできないことが想像できた。

「・・・これで良いのでしょうか」

初がぽつりと漏らした。茶々はしばらく黙っていた。

「・・・織田にとっても、豊臣にとってもこれ以上にない縁でしょう。」

そう言って、茶々は視線を逸らす。これが妹のことを想っての発言ではないことは自覚していた。

守るべき家と妹を天秤にかけた上での言葉だったから。

「けれど・・・」

言葉は続かなかった。

「小夜は、強い子です」

初が静かに言う。

「あの日、小夜は姉上のことを心配していたのですから」

初は、岡田義永に輿入れするときの小夜のことを思い出していた。

「・・・小夜」

茶々は小さく笑った。

二人の間に静かな空気が流れる中、それを壊すような足音が響いてきた。

「姉上様!小夜の嫁ぎ先が決まったのは本当なのですか?」

ドスドスとなる足音とともに入ってきたのは、江だった。小夜を引っ張ってきている。

「・・・はあ、江ったら」

「足音を立てすぎですよ」

二人の姉は、頭を抱えた。この妹の元気さを小夜に分けてあげてほしいくらいだ。

「静かに歩くなんてできません!黒江家とは何ですか!」

江は、姉たちに詰め寄った。

「小夜が・・・小夜が、遠くへ行ってしまうではないですか・・・」

最後は消え入るような声へとしりすぼみに言った。畿内とはいえ、小夜が嫁ぐのは今まで一度も縁のない家、それも敵方だ。和睦の証と言えば見栄えも良いが、簡単に言えば人質である。再び対立すれば殺される可能性すらあった。

江もそれは分かっていたが、殺されるかもしれないなんて恐ろしいことを口には出せなかった。

「・・・」

「・・・・」

江の言葉に姉たちも沈黙した。

小夜は、一番の当事者でありながら、少しも表情が変わらない。

江はそんな小夜をちらりと見た。そして声を潜め、ある噂を口にした。

「ある噂を聞いたのです。黒江清長という男は、人の血が通っていないような瞳の男だって聞いたわ・・・それに、身の丈六尺を超えるような大男だって・・・」

江は、心配するように小夜を手元に引き寄せた。

「小夜はこんなに細いのよ・・・そんな大男に腕を掴まれただけで壊れちゃうわ・・・」

江の瞳は、今にも泣きだしそうなほど潤んでいる。

「江、不確かな噂で小夜を脅すものではありません」

茶々が厳しい声で制した。

「でも・・・心配なの。小夜は私の可愛い可愛い妹なのよ!」

江は噂に聞いた黒江清長という男にすっかり怯えている。そんな妹を落ち着かせながらも、茶々自身の指先も、心なしか冷たくなっていた。茶々も噂程度は聞いたことがある。西国を治める大名家の若き当主で、冷酷な判断を下す男だと。

「姉上様・・・」

今まで黙っていた小夜が口を開いた。小夜の声はか細く震えて伝わる。

「・・・わたしも、母上の娘です。武家の家に生まれたときから覚悟はできております」

そんな小夜の言葉に、初と江は小夜を抱きしめた。茶々だけが心配そうに妹たちを見つめていた。


数日後、姉妹は豊臣秀吉と対面する機会が与えられ、京都・聚楽第へと呼び出されていた。

正式に婚姻が決まったことの通達、そして茶々の輿入れが目的だった。

金箔瓦で飾られた豪華絢爛な天守や御殿、それに負けず金箔がふんだんに使われている室内で姉妹は豊臣秀吉と対面していた。この時、秀吉は五十歳。人当たりの良さの裏に、底知れぬ計算と支配欲を隠している。

「おお、これはこれは!揃いも揃って、なんと美しい花々じゃ。浅井の姫たちは、やはり天下に二つとない宝よな」

上座に現れた男は、人懐っこい顔をして笑った。体は小柄で、一見するとどこにでもいる「人のよさそうな爺」である。だが、その一挙手一投足から放たれるのは、織田信長の死後、天下をもぎ取ってきた貫禄を持っていた。

秀吉の目が、並んで額を下げる四姉妹をねめ回す。その視線は、美しい女性を愛でる男のそれではなく、手に入れた極上の名物を品定めするコレクターのようであった。

「茶々、お初、お江・・・そして小夜、お前たちの美貌は近いうちに天下にとどろくことになる」

秀吉は満足げに顎を撫でた。

(—わしの作り出す、この天下において、な)

言葉の裏にある含みを、姉妹は察知した。浅井の姫でも織田の血を引く気高き姫としてでもなく、秀吉の天下を盤石にするための、便利な「駒」として、天下に鳴り響くのだと、この男は言っている。

秀吉はそんな姉たちの緊張を愉しむように笑い、最後に、列の端で微動だにせず平伏している四女・小夜の前で視線を止めた。

「・・・しかし、不思議なものよな」

秀吉はふっと、低く粘り気のある声を出した。

「小夜よ」

秀吉はにこやかに笑った。

「そなたは随分静かな娘じゃのう……まるで能面のようじゃな。」

場をなごませるような声色だった。

揶揄するような言葉。その場にいた侍女たちの背中に、冷たいものが走る。

江が思わず顔を上げようとしたが、初がその袖を裏から強く引いて止めた。

「先の夫を亡くしたことが、それほど堪えたか?」

小夜の方が、ピクリと揺れた。

 ――先の、夫。

その言葉が耳孔に飛び込んできた瞬間、小夜の視界から聚楽第の黄金の光が掻き消えた。岡田義永は小夜の目の前で殺された。その光景が浮かんできた。呼吸の仕方が分からなくなる。深く息を吸い込もうとすると、喉の奥がイガイガと焼け付くように痛んだ。あの日、生後数ヶ月で吸い込んだ小谷城の黒煙が、いまも小夜の肺腑にべったりと張り付いて、彼女の心を蝕み続けている。畳に押し付けた小夜の指先が、目に見えてガタガタと震えだした。今すぐこの場で泣き叫びたい衝動に駆られる。けれど、声の出し方すら忘れてしまった。

「されど武家の娘とは難儀なものよ。泣こうが、喚こうが、嫁がねばならぬ。黒江の者たちも気難しい。じゃが安心せい。あれもわしの臣じゃ。粗略には扱うまい」

 畳に押し付けた小夜の指先が、目に見えてガタガタと震えだした。今すぐこの場で泣き叫びたい衝動に駆られる。けれど、声の出し方すら忘れてしまった。男は優しげに笑いながら、小夜の心の一番柔らかく、血の滲む傷口を、指先で楽しげに抉り回しす。「武家に生まれた覚悟」という言葉の本当の恐ろしさを、小夜は、息の詰まるような黄金の空間で、初めて肌で理解させられていた。

そんな小夜に秀吉はわざとらしく溜息をつき、今度は「優しい身内」の顔に戻って見せた。

「この度の妹たちの婚姻に際しての、関白殿下の格別なお計らいに感謝しております」

茶々が鈴の鳴るような、しかし一点の曇りもない凛とした声で短く応えた。

その声に籠められた揺るぎない芯の強さに、秀吉は一瞬だけ笑い声を止め、茶々をじっと見つめた。だが、すぐにまた「良き爺」の顔に戻り、「なに、大したことはない」と手を振った。

 姉の声を聞きながら、小夜は平伏したまま、静かに畳の目を凝視していた。

その横では、初が、そして江が、唇を血が滲むほど噛み締め、浅い呼吸を繰り返している。

(ああ、本当に私たちは、駒になってしまった・・・)

妹のむき出しにされた傷を庇ってやることもできず、畳に爪をたてた。

茶々のように秀吉の視線を受け止めることもできず、小夜を庇うこともできない。ただ大人の圧倒的な謀略の前に平伏するしかない己の無力さに、初と江もまた、己の覚悟の甘さを突きつけられ、激しい絶望に震えていた。


小川で笹舟を浮かべて笑い転げていた幼き日々は、もう二度と戻らない。少女の無垢な季節を聚楽第に置き去りにしたまま、四姉妹はそれぞれの家を背負い、別々の道を進むことになる。

姉妹が全員そろって再会するのは、数十年後のことである。


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