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黄昏人  作者: はるハル
骸に縋る者と殺す者
PR
57/93

6




 怒号が轟く。内乱が始まったのだ。

 その瞬間が少女に齎したのは、二つの相反する感情だった。

 歓喜 ―― やっと、一族の無念を晴らすことが出来る。ただ一つ遺されたこの宝刀でもって、故郷を踏み荒らした帝国の人間共の血で大地を洗う。奪われる絶望、恥辱を味合わせてやることが出来るのだと思うと、身体は歓喜に打ち震えた。

 もう一つは、焦燥。

 一方で、頭のどこからか、それともずっと遠くからか、聞こえてくる。果たしてこれでいいのかと問う声が、歓喜に震える全身の動きを鈍らせる。相反する感情の衝突によって生まれた迷いが、アレシアを戦争の一歩手前で踏み止まらせていた。

 彼女の眼前で、フィリアの祈りの込められた講和会談の誓約書は破られた。

 最初からこうなることを、アレシアは知っていた。シェルンから教えられ、あらかじめ知っていたのだ。

 反帝国組織は、帝国と講和などありえない ―― 断固とした決意を表す為に、更に煽るようなこの演出をわざと選んだのだ。帝国軍もその意思を汲み取り、最早、戦いはどちらかが倒れるまで終わらないだろう。フィリアの願っていたことの全く逆の状況。それを知っていながら、彼女は阻止することはしなかった。

 戦いを望んでいたアレシアには、少女がどれだけ悲しもうが、止めることは出来なかった。一族の無念を晴らすためには、戦うしかない。講和など、ありえない。どれだけ思い悩んだところで、答えはそう決まっている ―― けれど。僅かに滲む、この迷いは、焦燥は何なのだろう。

 妹とよく似た華奢な少女、戦いを厭う彼女の祈りを土足で踏み躙るような真似をして裏切ってまで、それほどまでに復讐したいのだろうか。そう問えば必ず、そうだ、という答えは澱みなく返って来る。本心だからだ。それに先に約束を破ったのは少女だ。けれど、少女の悲痛に歪む顔を見るのを厭う心も、本心だ。少女の儚く綺麗な夢を信じてみたい気持ちも。

 どちらを、選べばいい ―― ?

 帝国の人間を殺してやりたい。しかし、懸命に心をぶつけてきてくれた少女を裏切りたくはない。昔のように、守る為だけに刀を振るいたい。でも、それでは報われない。心の底で渦巻く黒い感情を拭うことはできない。

「……教えてくれ、ティエラ……」

 どちらが、いい。

 どちらの選択が、私が私のままでいられる?


 誓約書を貫いた魔物の黒い尾が、金髪の男の右腕を掠り、赤い線がひとつできた。それを見止めた男の口角が鋭く上がり、好戦的な笑みを象ると同時に、魔物の尾は真っ二つに両断された。そのまま男の剣先は天高く突き上げられ、魔物の悲鳴を掻き消すように、開戦の怒号が轟く。

 同時に、砂漠の中に身を潜めていた魔物達 ―― 混血の黄昏人の成れの果てが、次々と姿を現して、帝国の騎士達に襲い掛かる。

 いまだ状況を把握しきれていないのは、フィリア一人だけだった。まったく無防備な状態で戦場の真ん中に突っ立っている少女を見て、アレシアは叫んだ。





「避けろ、フィリア!」

 すぐ後ろから、アレシアの切迫した声が聞こえたが、それが自分に向かってかけられた言葉と理解する前に、身体の右側に何か大きな衝撃が走った。

「……っ!?」

 強烈な激痛。

 フィリアは呻き声すらまともに出せないまま、その場で両膝をついた。少女の右脇腹を抉ったのは、クラーヴァによる鋭い剣突きだった。幅広の刀身が、真っ赤な血でてらてらと濡れている。最初、まさかそれが自分の血だなんてフィリアは信じることが出来なかった。レムングスが咄嗟に後方に引っ張ってくれなければ、長剣は少女の華奢な身体を容易く貫いていたことだろう。

「……まあ、こんなこったろーとは思ったがな」

 がくがくと恐怖で震える身体。至近距離で、豪雨のように降り注ぐ殺気に、フィリアは視線を動かすことすら困難だった。目の前の金髪の男は長剣についた少女の血を振り払い、その広い肩にのせながら、言った。砕けた口調だが、恐ろしい激情を堪えた声色だとすぐわかった。当然だ。彼は目の前で誓約書を破られ、そして魔物に襲われそうになったのだ。

「さて、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんのやり方はよーぉくわかったぜ」

 沸々と、隠し切れない憤怒が空気を不穏に震わせる。レムングスのおかげで直撃が免れたものの、抉られた右脇腹の傷は決して浅くない。経験したことのない激痛に苛まれながらも、フィリアは男の誤解を解こうと必死で叫んだ。

「ご、誤解です……わ、私は……っ!」

「はっ、もう演技はしなくてもいいから、な? まあ、こちらとて和解なんてものははなから期待してなかったしな。予定通りっていうやつか。それにしても俺としたことが、嬢ちゃんがあまりにも無防備なもんで、危うく騙されるところだったぜ」

「違います、お願いっ! 信じてくださ……っ!」

 少女の叫びは、最早クラーヴァの耳に届くことはなかった。その緑の双眸は、とっておきの獲物を見つけたときの野生の獣のように爛々と輝いていた。彼が、強者と戦うことが何物にも代え難い歓喜 ―― 戦闘狂となった瞬間だ。

「さて、黄昏人の純血の力とやらを、見せてみな。召喚士をも凌ぐ、という……!」

「ひっ……!」

 長剣の空を薙ぐ音が間近に迫る。だが、再びそれが少女を傷つけることはなかった。レムングスがフィリアを服の裾を咥えたまま、素早く後方へと跳び退り、アレシアが、クラーヴァの重たい一撃を途中で止めていたからだ。

「アレシアさん……っ」

「レムングス、フィリアを安全な場所まで連れて行け!」

 ぎりぎりと剣を絡ませながら、アレシアが叫ぶ。脇腹を手で抑えながら呻く少女を背にのせたレムングスは助走をつけ、軽やかに跳んで戦場の真っ只中から離脱した。

「そうはさせねぇ、その小娘は俺が、殺す!」

「お前の相手は、私だ!」

 背中に突き刺さる怒声にびくりと震えたフィリアだったが、すぐに意識は脇腹の激痛に奪い去られてしまった。


 熱い。

 太陽は灰色の雲に隠されているから、砂漠が照り返す熱のせいではない。抉られた右脇腹の、じりじりと焼きつくような熱をもった痛みで、へなへなとへたりこんだフィリアは半ば虚ろな意識のまま、辺りと見渡した。少し小高い砂丘に降ろされ、眼前の光景が嫌でも目に飛び込んでくる。

「……戦わないで……って……言ったのに……」

 砂漠の中に魔物達とともに身を潜めていたらしい、反帝国組織の者達は、誓約書が破られたと同時に、奇襲を開始した。まるで、あらかじめわかっていたように、彼らは一斉に、一切の躊躇もなく、剣を振り上げたのである。砂漠と平原の境目で、激しい剣戟と魔物の恐ろしい咆哮にも負けない人間達の怒号が、ぶつかり合っていた。その中にバルトロもいる。組織の中でも柄の悪い、好戦的な男達を率いていた。

 そこでようやくフィリアは、自分の言葉は最初から、ただ空を切っているだけのものだと、思い知ったのだ。

 誰も、少女の言葉など聞いていない。

 黄昏人は、失われてしまった言霊を操ることが出来る、唯一の存在。その純血が聞いて呆れる。笑いが喉から込みあがってきて、少女の口角が歪んだ。


 ―― 言霊など、一体どこに存在するというのだろうか?







 +  +  +






 ひやりと冷たいものが、男の頬を打った。

「雨か、……視界が更に悪くなるな」

 顔を上げると、暗い灰色の天から、ぽつりぽつりと雨の雫が落ちてきた。恵みである筈のそれは、今の状況では視界を悪化させる厄介な存在だ。

 互いの前線がぶつかり合って、随分と経ったようにも思えるが、実際は一刻も経っていなかった。そう感じてしまったのは、衝突して早々、混戦状態となってしまったからだろう。前線部隊はほぼ帝国軍部で占められているが、歴戦で鍛え抜かれた彼らにとっても、見たことのない異形の魔物達を相手に苦戦しているようだった。この様子だと、実戦経験で劣る皇宮騎士団の戦意もそう長くは続かないだろう。事実、想像以上の魔物の異形さと、激しい混戦状態に、後方に控えている総大将であるラインハルトすら、すっかり怖気づいてしまっている。今までの軍議での張り切りようが嘘のようだ。これでは、予想していた働きの半分も期待できないかもしれない。

 前線の様子を、少し離れた場から注視していたヒユウだったが、ふと視線を移すと嘆息して、手綱を引く。

「ケイト、お前はすぐに後方へ下がれと言った筈だ」

 馬上から突然声をかけられ、ケイトの一つに纏められた紫髪の束がはねる。声の主に気付くと、彼女は興奮気味に、高い声をあげた。

「ヒユウ、どうすればいいの、クラーヴァが……!」

 珍しく動揺した様子で、彼女は続ける。

「あの馬鹿、よりにもよって砂漠の中へと入ってしまったわ! 少しの躊躇いもなく……私、止めたのよ。あそこではあいつの召喚獣も出てこれない、危険なのよって!」

 あくまで平原に誘いこんで戦ってくれ、と何度も忠告をした彼女だったが、やはり無駄だったようだ。開戦と同時に彼は、黄昏人の純血の少女に攻撃をしかけ、そして次は赤髪の女剣士と戦闘を開始した。はらはらと見守っていたケイトだったが、止める間もなく、クラーヴァは砂漠の中へと突っ込んで行ってしまい、今ではもう姿も見えない。砂塵が舞い上がって、遠くまで視界が効かなくなってしまっているのだ。

 ヒユウならば何とかしてくれるだろう、というかヒユウくらいしかクラーヴァを止められる存在はいない、と訴えてみたのだが、返ってきた答えは彼女の期待を裏切るものだった。

「やはり、クラーヴァは真っ先に突っ込んだか」

 予想通りだ、とあっさりとした物言いでヒユウは砂塵舞い上がる砂漠へと視線を移した。ケイトは目を見開いて、馬上の男を凝視した。

「ヒユウ……あんた、まさかクラーヴァがこうなることを読んでいたのね? あいつを捨て駒にするつもりだったの!」

「誰かがせねばならないことだ。ただでは、反帝国組織の者達を砂漠から誘き寄せることなどできん」

 案の定、反帝国組織と帝国軍は砂漠と平原の境目で拮抗した状態となってしまった。お互い、己の不利な領域に足を踏み込むことがなかなか出来ない。このままだと、長期戦は必至。それを阻止するためには、敵に有利な範囲に危険を承知で踏み込んで、撹乱する必要がある。馬の足を砂漠にとられ、そして召喚獣の力すら及ばぬ地域。誰も、そんな危険なところへ足を踏み入れたくなどないだろう。

 だが、クラーヴァにとっては己の力を試せる場所。飛び出さぬ筈がなかった。

 ヒユウは最初から、彼を囮にするつもりだったのだと、ケイトは今になって確信した。

「そんなの、私は聞いていないわ!」

「聞いたら反対していただろう?」

 いけしゃあしゃあとした物言いにかちんときたケイトは、戦いの最中だということも忘れて、声を荒げて詰った。

「あんたはなんて冷たい奴なの、いくらクラーヴァだって、死んでしまうわ! あいつは、普通の人間なのよ!」

「誰かがやらねば、長期戦になるだけ。そうなれば、帝国軍部だけではない、帝国が危険な立場に陥るだけだ」

「……!」

 ぐ、と言葉が詰まった。

 悔しいが、正論だった。長期戦になれば、他国からつけいる隙を与えるだけだ。この反乱は早々に決着をつけねばならぬことだった。

 でも、それでも、ヒユウのかけらも動じない様子が我慢ならなかった。一緒に士官学校にて育ってきた仲間だというのに。クラーヴァだって、ヒユウのことを心配しているから、本人は監視だどーの言っているが、きっとここに残ったのも、ヒユウを助けるためだ。自分が戦いたいという気持ちも多分にあるだろうが。それなのに、ヒユウはそれに感謝するような様子は微塵も感じられない。クラーヴァを囮にしても平然としていて、心配するような素振りはない。酷薄な空気に、まるで自分が蔑ろにされたような気分に陥って、ケイトは憤った。

 しかし上手く言葉に纏まらず、睨みつけるだけで精一杯な彼女の様子など気に留めることもなく、ヒユウは馬から降りた。

「どこへ行くの!?」

「クラーヴァ一人だけでは、誘き寄せるのに不充分だ。かといって、皇宮騎士団は腑抜けばかりだからな」

 そう言うなり、ヒユウは外套を翻して背を向けると、砂塵が舞い上がる砂漠へと足を向けた。彼もクラーヴァと同じように、砂漠の中へと攻め込むつもりだろう。

「でも、あんただって、龍はもう使えないのよ!? あ、ヘテイグまで……!」

 ケイトの叫びを無視して、ヒユウは更に歩を速めた。その後を、ヘテイグも追いかける。小さくなっていく二人の背を見詰めながら、止める術をもたぬ彼女は下唇を強く噛み締めた。


「ヘテイグ」

 徐々に足を速めながら、ヒユウは横目で自分の後をついてくる部下を見遣る。彼は、マートレック将軍の補佐で、今は後方にいる筈だった。

「無理は致しません、今の己の限界はちゃんと理解しているつもりです」

 ヘテイグが上司であるヒユウの命令違反をしたのは、これが初めてだった。だというのに、否だからこそ強い意志を滲ませた口調で、ヘテイグは上司の返答を待った。

「……深追いはするなよ」

 僅かな沈黙のあと、ヒユウは仕方が無いなといった様子で、了承を口にした。「御意」と低頭したヘテイグが再び顔をあげたとき、手は剣柄に添えられ、五感を解放した完全な戦闘態勢へと入っていた。そして、砂漠地帯に足を踏み入れた騎士二人を、異形の魔物達が次々と襲い掛かった。

 一段と、雨は激しくなった。





「まさか、砂漠の中に突っ込んでくる奴がいるとはな」

 なかなかの度胸だと、反帝国組織側の指揮をとっていたシェルンは、雨に濡れて頬に張り付く青髪をうっとおしそうに払いながら、独りごちた。

 つい先ほど手の者より受けた報告によると、帝国の騎士達が砂漠に足を踏み入れ、次々と魔物達を屠っているという。たった三人の騎士が恐れることなく異形の魔物を次々と打ち倒している光景を直視したらしく、ひどく動揺していた。それだけでなく、帝国軍部の弓騎兵の射程はこちらの倍近くもあり、それらの援護射撃を上手く用い、砂漠から出ようものならば、堅強な陣形による連鎖攻撃であっというまに殺されてしまう。前線部隊以外でも、冷静で戦い慣れた指揮官がいるということだ。

「そうこなくちゃ、面白くねぇ。いつまで、保つのかが楽しみだ」

 たとえ精鋭の騎士がいようとも、たったの三人。いずれ体力は尽きてしまうだろう。異形の魔物達はまだまだ控えているのを知っているシェルンは、もう少しこのまま様子を見ることにしたのだが、

「シェルン……!」

 自分を呼ぶ声に振り返ると、そこに息を切らせた赤髪の少女がいた。

「何だ、アレシアか。おい、お前なんでここまで下がってきているんだ。お前は前線で思いっきり剣を振り回したいんだろーが」

 バルトロ達だけでは前線で帝国の騎士達と渡り合うには役者不足だ。すぐに戻れ、と顎先で促すが、レムングスとその背に身を預ける少女の姿を見つけ、アレシアの切迫している理由を悟る。

「そんな場合じゃない、フィリアの怪我が酷いんだ!」

「はぁ? お前、嬢ちゃんの怪我のが、心配になっちまったのか」

 奇襲を阻止しなかった段階で、アレシアはフィリアの願いを捨て去り、復讐を選んだ筈だ。そう仕向けたのはシェルンだが、実際に今このときが、彼女が復讐を果たせる最高の機会、舞台である。それなのにその舞台から遠ざかり、少女を連れて戻るのはどういうことだ。何か、アレシアの心に変化があったということなのだろうか。

「うるさい! 思ったより傷が深いんだ、フィリアだけでも、戻らせた方がいい! 本拠地にはダフネ様もいる、そこならば安全だ、ダフネ様なら……」

 必死に言葉を紡ぐ少女を、シェルンは嘲笑を交えながら、遮った。

「相変わらず、ダフネダフネと囀りが煩い雛鳥のようだなぁ」

「何だと?」

「お前は、ダフネが本当は何を望んでいるのかなど、考えたことなどないだろう? 奴が、何者か知っているにも関わらず」

 馬鹿にしたような口調に、アレシアはかちんときて言い返した。その際、すぐ傍にフィリアがいることも忘れて、ぽろりと重要な秘密を漏らしてしまう。しかし、幸か不幸か、朦朧としていたフィリアはそれを聞き逃してしまった。

「彼が、元エルカイル教会の、教皇だったことは知っている! そしてエルカイル教会の酷い現状を知り、嘆き哀しみ、その不正を糺すべく、こうして反乱を……!」

 突然、シェルンは大笑いした。身体を二つに折って、腹を抱え出した。思いも寄らぬ反応に、アレシアは呆然と、顔を片手でおさえて笑う男を見返している。

「だからお前は、何も見えていない。ダフネはな、エルカイル教会を憎んでいるのは本当だが、そんな真っ当な理由で憎んでいるわけでも、離反したわけでもない。奴は自分を否定した奴らを見返したい、ただそれだけの為に動いてる。ちっぽけで矮小な、人間だ」

「っ、お前にそんなことを言われたくない……っ!」

 尊敬するダフネに対してあまりにも無礼千万な言葉を放つシェルンに、アレシアの肩はわなわなと震えた。今にも抜刀しそうな、雰囲気。それに構わず、シェルンは続ける。

「哀れなお前達の為に立ち上がったわけじゃないんだぜ? ただ、隠れ蓑に都合がよかっただけだ。エルカイル教会に反旗を翻す組織ならば、なんでもよかった。そして内乱を起こせるのならば、その結果、組織が壊滅しようとどうでもよかったんだ」

「それ以上ダフネ様を侮辱するというならば、この場でお前を斬ってやる!」

 愛刀を、シェルンの眼前に突きつけた。そのまま、二人は睨み合う。

 その、一触即発の空気を破ったのは、レムングスの低い唸り声だった。はっとしたアレシアは、獣の背にのせたフィリアの顔色が真っ青になっているのに気付くと、鋭い視線をシェルンに投げつけた。

「しゃーねーな……嬢ちゃんを死なすわけには、いかねぇし。一部撤退すっか」

 渋々といった様子で、今後の指揮をバルトロに任せることにしたシェルンは伸びをした。そのままあくびでもしそうな雰囲気で、ふと思いついたように、呟く。

「……だがこのまま、こっそりと撤退すんのも、物足りねぇ。一発でっかい土産を置いていくか」

「シェルン、何をする気だ……?」

 言葉の意味が掴めずアレシアが聞き返したそのとき、視界を暗い影が覆った。どより、と周囲の空気がざわめく。

「み、見ろ……なんだ、あれは……」

 近くにいた組織の誰かが、空を指差して、震える声を上げる。続いて、ひっと引き攣ったような悲鳴があがった。つられて見上げた先に焦点が合った瞬間、アレシアの全身が総毛立った。

「な……あ……あれは……りゅ、龍……っ!?」

「……そんな……」

 激痛で虚ろな意識の中にいるフィリアも、同じように灰色の天を見上げていた。大きな雨粒が目にはいるのも構わず、その真紅の瞳は空を ―― 正確には空に浮遊する巨大な龍の姿を、しっかりと捉えていた。





「ば、馬鹿な! 龍だと?!」

 ほぼ同時刻、戦いに夢中になっていたクラーヴァも、異様な気配を察知して空を見上げ、そして驚愕の色で顔を染めた。

「あれは、ヒユウの龍じゃねぇ……あの方向は、まさか反帝国組織の奴か……? ヒユウ以外に、龍を呼び出せる奴がいたのか!?」

 そんな筈はない。龍召喚は、例外中の例外。ヒユウが召喚できることすら、生きた伝説として扱われているほど、ありえない事実なのだ。彼以外に、別の誰かが龍を召喚できるわけがない。そんなことがあって良い筈がないのだ。そもそも、ケルジャナ砂漠には結界が施されてあり、喚起を行うことすら、出来ない筈である。

 けれど目の前の、ケルジャナ砂漠の中央、その上に出現した龍は、間違いなく伝説の龍そのものであって。

 さしものクラーヴァも、この状況には大きな衝撃を受けた。どういうことなのかと大声で問い質したい気分だった。そして、その衝撃は混乱と動揺を生み出し、クラーヴァに致命的なミスを犯させたのだった。

「……っ……!」

―― しまった。

 クラーヴァが砂漠の空に出現した龍に気を取られた隙を狙って、砂漠の中に潜んでいた異形の魔物が彼の喉笛に襲いかかってきた。戦闘の最中で戦いを忘れるということは、死に直結する。彼がその存在に気付いた時は、手遅れであった。いくら飛び抜けた身体能力を有する彼であっても、この一瞬の油断は、致命傷を負うのに充分な時間だったのだ。

 やられる、そう思った瞬間、身体の奥底から何か得体の知れぬものが這い上がる感覚に襲われた。その感覚を、今まで何度も舌打ちとともに出迎えてきたクラーヴァは、今回も盛大な舌打ちを無意識にしていた。

 絶命の悲鳴が、木霊する。

「てめぇ……この砂漠の中じゃぁ、出れねーんじゃなかったのかよ……」

 危機一髪でクラーヴァを救ったのは、黄金の光に包まれた、一対の翼と三つ目を有した獣だった。彼の身に潜む、召喚獣である。クラーヴァを襲った魔物をその光で消し去った獣は、ふわふわと宙に身を浮かせている。

「ち、ったく……余計なことをしやがって……」

 悪態をつきつつも、いつもよりその語気は弱い。おそらく、あのままだと魔物に致命傷を受けていた自覚があったからだろう。けれど感謝の言葉だけは吐くまいとしている彼の頑固は相当なもので。

 すると、召喚獣はふわりと砂漠の上に降り立つと、そのままぱたりと倒れた。

「な、どうしたんだよ、てめぇ」

 いつもと違って、倒れたまま動かない召喚獣に声をかけるが、反応はない。三つある琥珀の瞳も全て固く閉じられている。白い翼が力無く地について、砂に塗れる。翼すら動かせないほど、弱っているのは確かだった。原因はおそらく、一つしかない。

「まさか……てめぇ、無理してまで、出てきたってのか……?」

 ケルジャナ砂漠はヒユウの龍でさえ拒む結界がある。クラーヴァを守る召喚獣も、やはり拒まれて出現できない筈だった。しかし、こうして出てきたということは、この獣は無理やり外に出ればどうなってしまうのかわかっていながら、それでも出てきたということ。ただ、クラーヴァの危機を救う為だけに。

 クラーヴァは弱っていく獣を見下ろしながら、初めて出会ったときのことを思い出した。

 最初は、まさか召喚獣、その中でも高位の力をもつ存在、そんな大層なものだとは、クラーヴァは思わなかった。たまたま、どこかの野生の獣が怪我をして、違う魔物に殺されそうになっているところを助けただけだ。別になんとなく。弱いものいじめのような構図が気に入らなかったから、気紛れに近い気持ちで、クラーヴァはその獣を助けた。

 それからだ。奇妙な現象が身の回りで起きるようになったのは。

 恩返しなのか知らないが、この獣はそれからというもの、クラーヴァの中に住み着いて、彼の危機には手助けをした。何の代償を受け取ることもなく、無償に。自らのエーテルを削ってさえ、獣は自ら受けた恩を律儀に返し続けていた。

「おい、てめぇ……勝手に出てきて勝手に死ぬなよ」

 そっと、抱き上げる。

 普段の粗野な彼にしては、あまりにも優しい手つきで、獣を抱き上げた。彼から触れたのはこれが初めてだった。見た目通り、柔らかい毛に包まれた獣は、うっすらと三つ目を開いた。数回瞬きを繰り返したあと、ふっとその場から姿が消えてしまう。

 再びクラーヴァの身体の中に戻ったのか、それとも本当に力尽きて消えてしまったのか、彼には判断することが出来なかった。




「おお……、まさか……再び、龍の御姿を拝見出来るとは……。しかし、あれはヒユウ殿の龍ではない。まさか、反帝国組織の者が、龍を召喚……? 龍の加護が、彼奴等にあるとでもいうのか……!」

 帝国軍部の指揮を執っていたマートレックは信じられないものを見るかのように、目を丸くして見上げていた。その他の帝国軍の騎士達も皆、驚愕の表情で固まっている。

 この世界の守護神、信仰の対象として坐す龍は、帝国の治安を預かる彼ら騎士達にとっては正義の在り処そのものであった。ゆえに、この状況 ―― 反帝国組織本拠地の天に龍が現れる―― は何よりも信じ難く、耐え難い。しかも、彼らの将であったヒユウ・イル・リューシアの龍は封じられ、彼は今現在、その力を行使することが出来ない。この二つが意味することは、もしや、龍の加護は既に帝国側にはなく、帝国に反旗を翻す逆賊にある、ということなのだろうか。この場にいる全ての者の頭に、それは過ぎった。

 しかし、それを認めることも受け入れることも当然出来るわけがなく、彼らがその場に縫い止められたかのようになってしまったのも、無理からぬことだったのだろう。

 


「一部が撤退するな……お前はもう戻れ、ヘテイグ」

「ヒユウ様! あ、あの龍は一体……!」

 砂漠の空に浮かぶ龍に酷く驚くヘテイグとは対照的に、ヒユウは状況を冷静に観察していた。反帝国組織の一部が撤退し始めているのにも、気付いていたのである。

「その動揺が奴らの狙いだ。あの龍の謎を掴む為にも、私はもう一度奴らを追う」

 ヘテイグにも撤退を命じたが、すぐに平静さを取り戻した彼はその命令を強く拒否した。

「! 俺も行きます!」

「ヘテイグ」

 名を呼んで嗜めるが、ヘテイグは視線を逸らさず、ヒユウを真正面から見据えた。

「この戦いの前にヒユウ様は仰られた。俺がどうしたいのか、敵は誰か、自分で決めろ、と」

「……」

「考えて……やはり俺の剣の振るう先はヒユウ様の進む道の上にあって欲しい。ヒユウ様の大切なものならば、俺もお守りする、と!」

 それが、ヘテイグの出した答えだった。一時期あった彼の迷いはすっかり、消え去っていた。暫くヘテイグを凝視していたヒユウだったが、やがて諦めたかのような溜息を吐くと、小さな硝子瓶を差し出して言った。

「そうか……では、これを身に振り掛けろ」

「これは」

「祝福の水。お前が砂漠を脱出する際に使ったものだ。これのおかげで砂漠の魔物達から敵と判断されることはなくなる」

 そして、イエジより貰い受けた祝福の水の残りを使い切ったヒユウは、大胆にも撤退する魔物の背に飛び移った。ぎょっとしたヘテイグだが、魔物は襲うどころか、背に跨るヒユウに対して何も反応しない。すぐに彼も、魔物の背に飛び移り、息を潜めた。











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