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「随分、嬉しそうね」
「そうか?」
愛剣の手入れをしているクラーヴァの背中に、突然投げつけられた言葉。そこに含まれた嫌味に気付くことなく、背後にいるのが誰かわかっているので振り向くことも無いまま、クラーヴァは呑気そうな声色で返事した。
相変わらず剣以外には興味の無い男だ。剣と結婚したような男 ―― 以前、どこぞの意地悪くて冷たい男に言われた言葉が浮かんでしまって、ケイトの柳眉がぴくりと引き攣った。
「ねぇ……嫌な予感がするんだけど。あなた、まさか砂漠に突っ込むつもりじゃないわよね?」
砥粉を打つ手が止まる。一瞬だったが、それを見逃さなかった目聡いケイトが大声を張り上げ、天幕を照らすランタンの炎が驚いたように震えた。
「ちょっと! 平原に誘い込むようにして戦うのよ?」
「砂漠の結界様様だぜ! 思ったとおり、忌々しいあいつも、あの砂漠の中じゃあ出てこれねーらしい」
前回ヒユウと一緒に砂漠へ入って魔物と戦ったときに、クラーヴァは確信したらしい。いくらクラーヴァを守る召喚獣とて、出てはこれない、と。ケイトの諫言も聞き入れるどころか、その事実に無邪気な子供のようにはしゃいでいる。なんでそこで喜ぶのよ、とケイトは乾いた呻きを漏らした。
「そりゃ、ヒユウの龍ですら駄目だったんですもの。全ての召喚獣は阻まれてる。あんたのだって、そう。それが、どういうことだかわかっているの?」
ケルジャナ砂漠では、召喚獣は喚起に応じることができない。特殊な結界が施されているのか、召喚獣が魔法を行使することができないのだ。最強の召喚獣とされるヒユウの龍でさえ同様である。いまだその原因は解明できていない。ゆえに魔物達の無法地帯となっているのである。
そのことがどれだけこちらに不利で、危険だというのか ―― だというのに。
「いつ、あいつが出てくるのかイライラしなくていいってこった」
肝心の本人は、その危険性に慎重になるどころか、ますます無鉄砲さに磨きがかかっていて、ケイトは頭を抱えたくなった。
「なんで、あんたはそんなわざわざ危険な目に遭いにいくのよ、馬鹿じゃないの!」
「やかあしい、馬鹿とは何だ、馬鹿とは! てめえに戦いの途中で余計なちょっかい出される俺様のこのむかつく気持ちがわかってたまるか!」
「わざわざ、あんたを守る為じゃない!」
「それが、余計なお世話ってんだよ。誰が、いつ、そんなことを頼んだってんだ! 何回もそう言ってるのに、俺様から出ていきやがらねぇ。ったく、うっとおしい。これだから、召喚獣とか魔法とか、わけわからんもんは嫌なんだ!」
クラーヴァが召喚魔法を嫌っているのは知っている。そもそも、これほど彼が魔法を嫌ってしまったのも、望まずとも己の身に纏わりつく召喚獣の存在のせいだろう。多くの人間が望む、強大な力。何を犠牲にしても、自らの身を差し出しても手に入れようと召喚士を目指すというのに、彼にとっては目障りな存在にしかならないようだ。
「いいじゃない、魔力も精神統一も必要ないなんて、とっても楽じゃない。誰もが望んでいる召喚獣の魔法を、貴方は何の犠牲もなく、使えるのよ。感謝こそすれ、それほどまで厭う理由がわからないわ!」
彼の前でこの話題がタブーだということもケイトはわかっている。それでも、いつも己の力不足に悩んでいる彼女は言えずにはいられなかった。
「でも、これは俺の力じゃねぇ」
「!」
「俺は、俺自身の力だけで、戦いたい」
きっぱりと断言する男に、ケイトはぎり、と下唇を噛んだ。
「……この、戦闘馬鹿脳味噌筋肉鈍感野郎」
「あん、何だって?」
ぼそりと呟いたケイトの言葉は聞こえなかったが、なんとなく悪口を言われたのはわかったのだろう。クラーヴァは眉を顰めて、俯いて表情の見えなくなったケイトに聞き返すが。
「……もう、どうなっても知らないわ。あんたなんて、死ぬほど痛い目に遭うがいいのよ!」
こちらの心配など、クラーヴァは微塵も感じていないのだろう。素直に伝えたところで、きっと余計な世話だとしか思ってはくれない。そう思うとやるせなくて、捨て台詞を吐くと、彼女は天幕から出て行った。
ばたばたと遠のく、慌しい足音。ケイトが怒気を発散させながら立ち去った方に視線をやりながら、クラーヴァは頭を掻いた。
「……何しにきやがったんだ、あいつは」
ケイトのあれほどの怒りと、最後に一瞬見えたどこか傷ついた表情の理由が掴めず、ぼやく。だが他人の心の機微に疎い男が考えてもわかるわけもない。早々に諦めて剣の手入れを再開させようと柄に手をかけたのだが、一旦消えた彼女の足音が再び鼓膜を騒がせた。まだ何か言い足りないのだろうかと、重たい頭を上げる。
ばさりと天幕の入り口が勢い良く開かれ、そこには腰に手を当てて仁王立ちしているケイトがいた。不機嫌丸出しで、目が座っている。その異様な迫力に、クラーヴァは無意識に身構えた。
「……忘れてたわ。ラインハルト総大将が呼んでるわよ」
「は、何で」
てっきり先ほどの口論の続きかと思っていたクラーヴァは、目を丸くして問う。しかし、ぷいっと視線を外され、素っ気無い返事が落ちてくるだけだった。
「知らないわよ。明日の講和会談について、じゃないの」
「あらかた、話はついてるじゃねーか」
ぶつぶつ文句を言いながらも、なんとなくばつの悪い思いを抱えていたクラーヴァは大人しくケイトの後をついて、天幕を出た。
明日に控えた講和会談の代表者はクラーヴァ、他の参加者はヒユウ、ケイト他数名、いずれも、帝国軍部の騎士であり、皇宮騎士団からの参加者はいなかった。当然、総大将ラインハルトも不参加である。
「わざわざご足労を、申し訳ないですね」
全くそう思っていない声色と微笑で出迎えられ、ケイトとクラーヴァの眉尻が僅かに上がる。
大天幕の中を覗くと、この戦に参加する各隊の将全て揃っていた。上座である奥側にはラインハルト及びその取り巻き ―― もとい皇宮騎士団の騎士達、手前側にはヒユウやマートレック、ヘテイグなどの帝国軍部側の騎士達が、各々の席に着いている。今更一体何の話なのだろうと訝しみながら、ケイトは椅子に腰を下ろした。
これで全員が揃ったようで、辺りをゆったりと見渡しながら、ラインハルトは穏やかな口調で話を始めた。彼の醸し出す雰囲気は気品に満ちている為か、物々しい軍議とは程遠い。まるで優雅なお茶会に参加しているような気分だ。
「明日の講和会談の参加者についてですが、少し気になることがありましてね……こうして、皆さんにお集まり頂いたのは、私だけでなく、皆さんにも知っていて貰うべき事実だと、判断したからです」
「まわりくどいな。言いてぇことがあるんだったら、早く言えよ」
「ク、クラーヴァ!」
いらぬ火種を撒き散らす男を諫めながら、ケイトはちらりとラインハルトを見遣る。意外にも、相手からは笑いが零れていた。こういうところが食えない、と思う所以なのだろうか。勿論、彼の周りにいる取り巻き達からは冷えた視線が突き刺さって痛かったが。
「ふふ、そうですね。では単刀直入に言いましょう。ヒユウ殿、貴殿には講和会談の参加をご遠慮頂きたい」
「何だと?! 何故だ!」
反論を口にしたのは、ヒユウではなくその隣にいたヘテイグだった。負傷しているとは思えない程の勢いに、マートレックが思わず彼の肩に手を置いて宥める。
「わたくしも、どういうことなのか知りたいですわね」
いつもの嫌がらせの類かとケイトは呆れながら、それでも自分達のことしか考えていない意味の無いそれに、つい棘のある台詞が舌の上を滑る。
「理由……それは貴殿が一番よくわかっていることでしょう? ねぇ、ヒユウ殿」
手元にあった文書を手にとると、ラインハルトは優雅な所作でこちらへ見せた。黄ばんだ皮紙に、黒い文字が滲んでいる。反帝国組織からの講和会談申し入れの文書だった。
「反帝国組織側の代表者名、フィリア・セーフェヴェア。こちらの名前をよくご存知ですよね。ヒユウ殿……貴殿が、八つのときに引き取った出自不明の孤児。だが、彼女は忌まわしき黄昏人の純血。真に驚くべきところはそこではなく、その事実が上層部に露呈した三年前と今回の二度も、貴殿は助けているということです。……自らを犠牲にしてまで」
ラインハルトの言葉に、場は大きくざわつき出した。
「容赦が無い貴殿らしくない。やはり、青少年期をともに過ごした少女を見殺すのはいくら貴殿でも心苦しいというところですか? 私は、心配なのです。今回も、貴殿が変な哀れみを出すのではないかと思うと……」
帝国の極一部、それこそ、ゼノン、ノエルなど三年前の事件に直接関わった上層部しか知らぬ情報。それを皇宮騎士団のラインハルトは知っていた。
ヒユウが孤児を引き取っていたこと、その孤児が黄昏人の純血であること、三年前にその事実が上層部に漏れて実験体となりかけていた少女を奪い返したこと、以後少女を守り、投獄された彼女を逃がしてしまったことを。
いきなり齎された事実に周囲は驚愕し、動揺の声が場の空気を震わせた。
「何故、あの男がそれを……」
本人より事情を聞いて知るヘテイグの背筋に冷たいものが撫でた。一番厄介な人物に、今のヒユウの立場を更に不利にするような秘密を握られているとは。
ちらりと横を盗み見ると、クラーヴァもケイトも驚愕に固まっている。士官学校時代からヒユウと知り合いである彼らも、やはり知らなかったのだろう。マートレックはというと、彼も同じように目を見開いてはいたが、視線はラインハルト一人に注がれている。ヘテイグ同様、何故彼がその事実を知っているのかに、驚いているようだ。
「二度起きたことが三度起こらないとは限らない。いいえ、むしろ高いでしょう……」
そしてラインハルトは周りに同意を求めるように、再度ヒユウの参加の是非を問いかけた。皇宮騎士団側は当然の如く、ラインハルトの意見に賛同の声を上げる。敵対する陣営の弱点を見つけて、喜んですらいるのだろう。先ほどまでの動揺はすっかり非難へと変化してしまった。
反対にまだ動揺の空気が漂っている帝国軍部側は、ラインハルトの提案にどう答えるべきか、見つけられずにいた。互いに顔を見合わせて、「まさか」という疑念、不安と、「そんなわけがない」という希望に縋った視線を、ヒユウへと向ける。
「好きにするがいい」
「ヒユウ様!?」
「全ての兵の采配を決定する権利があるのは、総大将であられる貴殿のみだ」
ヘテイグを始めとする帝国軍部の騎士達の驚愕をよそに、ヒユウはラインハルトを真っ直ぐに見据えながら、答えた。
いつもと変わらぬ超然とした態度は気に食わなかったが、ヒユウの発言は、彼を敵視しているラインハルトの矜持を満足させる内容であって。自然と、口元が綻ぶ。
「成程、従順なのは良いことですよ、ヒユウ殿。私も貴殿のような優秀な騎士をみすみす失いたくは、ありませんからね」
異論が出るかと思ったが、本人からはあっさりと承諾を返され、己の優位を確信したラインハルトはにっこりと微笑む。心中では、ヒユウの弱点を握った喜びを噛み締めていた。そうして、帝国軍部側に大きな動揺と不満を残したまま、軍議は終わった。
「……三年前の軍部研究施設の大破は、やはりヒユウが絡んでいたのね」
以前より、疑問を抱いていたケイトだったが、まさかこんな形で真実を知ることになるとは思わず、今はただ動揺を抑えるのに精一杯だった。ある程度予想してたとはいえ、まさかあのヒユウが黄昏人の娘を匿っていたとは……己の利益にならぬことはしない男である筈なのに、と解せぬ思いばかりが頭を巡る。
「このこと……マートレック将軍は、知っていたのね?」
士官学校時代からの仲であるケイト達ですら知らなかった事実を。無意識に責めるような語調になってしまい、ケイトは思わず口元を抑えて「ごめんなさい」と謝った。マートレックは消え入りそうな微笑を浮かべて、首を横に振る。
「三年前の魔の戦いで、あの少女が黄昏人の力を覚醒させた場面に遭遇してしまったからな。それは偶然だった。ヒユウ殿を助ける為に、彼女の正体が露呈してしまったのだ……あとは、ラインハルト殿が言った通りだ」
「そう……」
マートレックの沈痛そうな声色に気圧されて、言葉に詰まった。クラーヴァも、いつになく神妙な表情で何事かを考え込んでいる。
「……ケイト殿も、彼が心配か?」
気遣うように問われて、後ろで束ねた紫髪の束がはねる。
「心配というか……今は驚きで頭が一杯だわ。だって、あのヒユウに、慈悲心や自己犠牲精神なんてものがあるだなんて、到底思えないんですもの。利益にならない他人は、平気で斬り捨てられる容赦無い性格だともずっと思ってきたわ。それが、孤児を引き取っていたですって? しかもその孤児が黄昏人で、匿ったあげく、逃して投獄されるなんて……そんなの、まるで良い奴みたいじゃないの!」
「お前……言いたい放題だな」
ずばずばと思ったことを零すケイトに、さすがのクラーヴァも突っ込みをいれた。マートレックも苦笑を浮かべる。しかしそんな彼らの反応も気に留めず、ケイトは思考に耽っていた。
「そういえば……士官学校時代、ヒユウってば絶対に自分の城には誰も来させたがらなかったわよね。休暇となるといちいち帰っていたから、尾行しようと思ったんだけれど。すぐに見つかって失敗に終わってしまったのよね」
「尾行って、お前……」
呆れ返るクラーヴァに、ケイトの力説はなおも続く。
「だって、ほんの短い休暇でも律儀に帰っていたのよ? 彼のご両親が健在なら、まだわかるけれど、幼い頃に亡くしてしまったじゃない? だから怪しんだ生徒達でね……殆ど女性だったけれどね。尾行しよう、あわよくば招待されちゃおう、みたいな勢いで尾行したのよ」
それも全て途中でヒユウに見つけられ、失敗に終わってしまったという。昔話に浸るというのは、やはりそれだけで自然と気分が高揚するものだろうか。当時の様子を思い出しながら、ケイトは興奮気味にまくし立てた。
「当時はフェニキア領を統治する為にせっせと帰還していたかと結論を出したのだけれど……もしかして、あれほど尾行に敏感だったのって、その子を保護して育てていたからかしら? 孤児の女の子を引き取っていただなんて、ヒユウの立場からしたら格好の噂の種だものね。見つけられたくないわけだわ。まあ、だとしたらスキャンダルね! あの姉妹が知ったらどうなるのかしら。もしかしたら、泥沼?」
「いや、単に尾行が嫌だっただけだろ……って、聞いてねーな」
先ほどまでの憂いの表情は消え、明後日の方向へ思考が傾いたケイトの頭には、クラーヴァの冷静な突っ込みも届きはしない。「だから、女はわからねぇ……」と、彼は心の底から、溜息をついた。
ちなみにケイトの与り知れぬところだが、士官学校時代にヒユウの尾行に成功した人物は、ただ一人だけ存在していた。それを機に、彼はヒユウの元に入り浸るようになるが、それはまた別のお話 ――
一方、ヘテイグはというと、軍議が終わり、大天幕より引き上げたヒユウを追って、躊躇いがちにその背に声をかけた。
「ヒユウ様、本当によろしいのですか。まさか、本当に参加されないので?」
「あの男には何を言っても無駄だろう。下手に逆上させたところでただ時間を浪費するだけだ」
「ですが!」
それは正論だが、このまま皇宮騎士団に大きな顔をされるのは、ヘテイグには我慢ができなかった。何より、ヒユウに対してラインハルトが勝ち誇った顔をするのが、見ているだけで腹立たしい。
「……矜持の張り合いをしている暇は、今はない。それよりも、あの情報を誰がラインハルトに漏らしたのかが気になる。おそらくここにいるのだろうが」
「ここに?」
「私が参加を表明した時点では、ラインハルトはあの事実を知らなかった。知っていたならば、その場で反対するだろうからな」
そういえばそうだ。代表者の名前は、反帝国組織から講和会談の提案があった日に、彼らにはわかっていた筈だ。今になってそれを持ち出すのは、確かに違和感があった。皇宮騎士団と帝国軍部の確執にばかり思考が支配されて、適切な判断力を失っていた自分を恥じながら、ヘテイグは記憶を辿る。
「俺に話してくださったときでしょうか。ですが、あのとき周囲に誰もいなかった筈……」
最初に辿り着いたのは、ヒユウがヘテイグに真実を話してくれたあのときだった。しかし、そのときはヒユウもヘテイグも周辺に気配が無いことを確認済みである。
「私も、気配は感じれなかったが……やはり、聖なる手か」
「聖なる手が、ここに……」
聖なる手ならば、ヒユウとフィリアの関係を知っていても不思議ではない。水面下でラインハルトと連絡を取り、情報を流すことも可能だろう。
「講和会談は出れぬだろうが、近くには控えている。奇襲の場合、前線は私とクラーヴァが務め、マートレック将軍が迎撃の指揮を取ることになっている。お前はその補佐をしろ。それで充分だ」
「は……」
ヘテイグは低頭する。
ヒユウが納得しているなら、そう決めたのならばヘテイグに異論はない。あの少女のことはいいのか、と喉まで出かかったが、上官に対して出過ぎた言葉だと思い、何とか飲み込んだ。あとには、苦い味が残った。
◇ ◇ ◇
その日は、今にも雨が降りそうな、灰色の天だった。おそらくあと半刻もしない内に、雨は降り出すだろう。
ケルジャナ砂漠一帯は通常の砂漠気候ではなく、他地域と同じように雨は降る。ただ、龍の結界によって、敵の侵入を阻むために砂漠となっているのだ。ただ、その日の雨は自然の雨ではなく、魔物による降雨だった。いつかフィリアが乗ってきた、あの巨大な魚の魔物。シェルンが、奇襲を乗じやすいように、雨を降らせたのだ。それをフィリアが知ったのは、大分あとのことではあったが。
講和会談の場は、ケルジャナ砂漠と平原の境目にて、設けられることとなった。湿った砂漠の上を駆ける亀に似た魔物に跨ったフィリアは、前に座るアレシアの顔色の悪さに気付いて、声をかける。
「アレシアさん、大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが」
「……いや、大丈夫だ」
どこか強張った表情。視線も合わしてはくれない。
まもなく砂漠の終わりが眼前に広がっていく。帝国軍との対面を控えているからだろう、とそのときはフィリアは思っていた。だから、彼女の様子を不審に感じることはなかった。
砂漠と平原の境目に降り立ったとき、既に帝国側の騎士達はその場で待ち構えていた。騎士団によって、騎士服の色は違うのか、その場にいた人間は白と黒、緋色の騎士服に分かれていた。
ゆっくりと、フィリアは彼らに近づいていく。いやに響く鼓動は緊張のせいだろう、唇を横一文字に引き結び、平静を装っているつもりだが、悟られていない自信はない。すぐ後ろから、アレシアとシェルン、レムングスが少女のあとをついてきている。一人じゃない。そのことが、今のフィリアにとっての支えだった。
帝国軍部側の代表者は、クラーヴァ・ヴィダ・ハンソンという男。シェルンいわく、無自覚の召喚者、とされ、今現在最も注意しなければいけない騎士だ。帝国軍部側から放たれる鋭い眼光を一身に浴びながら、フィリアは彼を探した。
数人の騎士達の中から、一際長身の男が進み出てくる。
「あなたが……?」
正面から向かい合うと、長身のせいもあって、男の迫力に負けそうになる。フィリアは頭をくんとあげて、男を見上げた。少しパサついた金髪と鋭い緑の双眸が、少女を値踏みするように見下ろしてくる。
「クラーヴァだ。嬢ちゃんが、あの黄昏人の小娘か?」
「はい、フィリアと申します」
大貴族の騎士と聞いていたが、その割に貴族らしくない、随分と粗野な口調だと思いながら、フィリアは己の名前を紡いだ。
「ふ~ん」
虫も殺せないような少女を前にしていまいち実感が湧かないのか、クラーヴァは唸ったような声しか出なかった。彼だけでなく、周りの騎士全てからフィリアを観察、監視するような視線を投げられる。逃げたくなる衝動を必死に押さえつけ、フィリアはじっとクラーヴァを見返していると、彼の背後に、帝都から脱出した時に見た紫髪の女性を見つけ、瞠目する。
彼女も他の騎士同様、じっとこちらを見据えていたが、どこかその色は違う。好奇心の混じった神妙なその表情を、フィリアは不思議に思った。
「では、嬢ちゃん側から、条件を提示して貰おうか。その、講和とやらのためのな」
睨めっこにも飽きたのか、クラーヴァはおもむろに本題を切り出した。
回りくどいことが嫌いな彼らしい。普通ならば、黄昏人の純血である少女に対して、言いたいことの一つや二つあるだろうにと、後ろに控えていたケイトは思った。彼女にとっても、それ以外にも、色々と……そう、ヒユウに関しても少女に訊きたいことがたくさんあったのだが。こんな場でもなかったら、きっとケイトは少女は質問責めにしていただろう。
少女も刺々しい言葉の一つや二つを想像していたのか、少し意表をつかれたように目を瞬かせていた。が、すぐに表情を引き締めて、講和の条件をあげていく。
「帝国全土に散らばる組織の撤退と、組織によるテロを完全になくします。人を襲わせないように、と約束します。ですから、私達にも、最低限の生きる権利と、場所をください」
「場所?」
胡乱げに視線をぶつけると、少女はごくりと唾を飲んだ。
「……ケルジャナ砂漠だけで結構です。自治権を、認めてください」
「自治権を帝国が認める、だと? そいつは無理な話だな。誰が、枕の横で獅子を野放しにすると思ってやがる?」
途端にクラーヴァの表情が険しくなる。真正面から研ぎ澄まされた敵意を無遠慮にぶつけられたフィリアは、身が震えるのを止めることが出来なかった。本能から感じる、怯えだったからだ。それでも、ぎりぎりのところで少女は耐え続けた。
「……講和が無理でしたら、停戦でも構いません」
「停戦だと」
フィリアはこくりと頷いた。
「ええ、今すぐに帝国側の人達に理解してもらおうなんて、無理だと思っています。時間をかけて、話し合いの場を設けて、理解して貰いたいのです」
「ふん、話し合い、ねぇ……?」
クラーヴァにとっては予想から外れた、なんとも穏便な、平和主義者な言葉ばかりだった。それが逆に不審を煽るのだが、目の前の少女を見ると、それも霧散してしまう。人の心の機微が疎い彼が見ても、彼女が本心から言っている言葉だとしか思えなかったのだ。試しで、殺気も交えた敵意をぶつけてはみたが、少女からの反応は至ってつまらないものばかりだ ―― 戦いのいろはも知らぬ単なる小娘のように、怯えている。
昨夜ラインハルトより齎された、衝撃を思い出す。彼の話は半信半疑だったが、本当かもしれないと、クラーヴァは頭の片隅で思った。
しかし、かと言って、彼女の言葉を鵜呑みになど出来ない。
少女はともかく、彼女の背後に控える赤髪の女剣士と青髪の男からは、隠しても漏れ出でる敵意が、溢れていたからだ。彼ら二人はこちらの殺気を明確に捉え、鋭敏に反応していた。
クラーヴァは少女を見下ろしながらも、背後の二人に向かって、言葉を投げた。
「まず、人を襲わせないように、だなんて、信用できるわけがねぇな」
「ひ、人質が必要というなら、私を拘束して下さっても構いません」
「!」
これは、彼らの中では予定していなかった言葉だったのだろうか。フィリアの背後にいる二人の表情が揺れるのを、クラーヴァは見つけた。口角が、上がる。
「―― ふ、いいぜ」
「本当ですか!?」
あっさりと承諾の返答を貰って、思わず大きな声で叫ぶ。クラーヴァは再度「ああ」と首肯し、フィリアの提案を受け入れる、とはっきりと口にした。
まだ信じられない思いでいる少女をよそに、クラーヴァはケイトに向かって目配せする。頷いた彼女は一度下がり、また戻って来たときには、その手に一枚の紙切れとインク瓶があった。
それは領主間、国家間との取引などで常用される、契約書だった。
「では、ここに誓約の署名を」
特殊な製法で作られた羊皮紙とインクを使い、署名を施す。そうすると、ある程度の制約をかけることが可能であり、破った際には当事者に手痛いペナルティーが下される。ペナルティーの内容は、誓約者の命を奪うものから掠り傷程度で済むものまで様々だが、誓約者本人の器量に大きく依存する。当事者の器量が大きければ、反動もその分大きくなるようだ。
まず、クラーヴァが署名した。終えると、少女に向かってこちらに来るように促す。フィリアは両手を胸の前で握って、一歩ずつ、足を進めた。クラーヴァも、ゆっくりとこちらに近付いてくる。無表情だったが、敵意と警戒の含んだ視線で少女の一挙一動を見逃さぬように、捕えてくる。
戦う意思は無いと少しでも信じて欲しくて、フィリアは負けじと真正面から視線を受け止めた。互いの距離があと二歩というところ、そこで立ち止まると、フィリアは契約書を受け取ろうと両手を差し出した、そのときだった。
「フィリア!」
「え……?」
アレシアの声だ、と思って振り返ろうとした瞬間、視界の端に何か黒い柱のようなものが走った。びり、と紙の破れる音に視線を戻すと、差し出された契約書を、その黒い柱は貫いていた。地中から突然飛び出したそれは、魔物の身体の一部だった。目を丸くして、少女は目の前のそれをじっと見詰めていた。状況を把握するにはもう少し、時間が必要だった。
「ちぃ……っ!」
契約書を差し出そうとしていたクラーヴァは、持ち前の反射神経で突然の魔物の攻撃を避けた。あと一瞬でも反応が遅ければ、己の腕はこの黒い柱に突き破られていただろう。だが完全に避けれたわけではなく、一本の赤い線が右腕に滲んでいた。それを目にした瞬間、彼の頭に血がのぼった。
「やはり、こういうことか!」
まだ呆然としている少女を見据え、クラーヴァは腰に下げていた剣を素早く抜いて、目の前の黒い柱を両断した。魔物の悲鳴が響き渡ると同時に、契約書が、小さく細かい破片となって、宙を漂った。
周囲から魔物独特の臭いが漂い、それに動じることなく、あらかじめ迎撃体制を整えていた帝国の騎士達がクラーヴァの怒号に呼応する。
灰色の天に向かって無数の剣槍が突き刺した。
一斉攻撃が、始まった。




