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「……金色の、目……」
黄金に輝く双眸をフィリアは呆然と見入っていた。
獅子の鬣のように雄雄しく、獲物を前にしたような野性的な鋭さが宿っている。なんだかどこかで見たような、懐かしいような色だ。だがそんなことよりもフィリアは突然の変化に頭がついていけなかった。
どうして、いきなりヒユウの瞳の色が変わってしまったのか。
さっきの呪文みたいなもののせいだろうか。なんだか彼であって彼じゃないような不思議な感覚に囚われてしまう。自分を抱えているヒユウは間違いようもなく、ヒユウである筈なのに。
琥珀の双眸がそうさせるのだろうか。
一方、ヒユウと対峙していたケイトは唇を噛み締めるときつく瞼を閉じた。背後で騎士達に戦慄が走ったのを肌で感じ取りながら、このままではいけないと思った。しかし、彼女もそれ以上に動揺していて、早鐘のように心臓は脈打っている。握り締めた掌にはじっとりと汗が滲んでいた。皮膚を裂かんばかりに爪が食い込んでしまっている。どうにか、これ以上ないくらいに煩い鼓動を鎮めようと努力して、渇いた唇を動かした。
「そう……仕方ない、わね」
自分は、軍人。帝国に忠誠を誓った騎士だ。先刻、ヒユウに言われた言葉の中にあったが、帝国軍部の騎士は何よりもまず、この国の剣であり盾でなくてはならない。
この豊かな大地を、そこに暮らす民を守る為に。その剣である騎士団を率いる立場にある自分は、私情を挟んではいけない。常に冷静に、客観的に状況を判断せねばならない。決して、動揺を見せてはいけないのだ。
ただでさえ、動揺や混乱は小石の投げ入れられた水面の波紋のように伝播するのだから。
思った以上に掠れた己の声に驚いたが、そんなことに頓着している時ではなかった。自分に言い聞かせるように呟き、心中でも暗示を冷たく繰り返す。
――― 今、私がすべきことはただ一つ。
瞼をかっと上げる。そこに先程までの動揺は一切見られなかった。敢然と、右手を真っ直ぐ上に伸ばして、声を張り上げる。
「帝国軍第三騎士団副官として、貴方がたを逃がすわけにはいかないわ!全騎士団、抜剣!!」
厳しい号音と同時に、一斉に高い金属音が鳴り響いた。
「ま、待ってください……! ヒっ、ヒユウさまっ!」
無茶だ、お願いだから、止めて下さい。すぐに牢に戻るから。
言葉が溢れて、混乱してフィリアは叫んだ。
どうしてこんなことになっているのだろう、とフィリアは目を疑った。耳を疑った。これは夢ではないかと何度も思った。今の状況はとても信じられるものではない。
剣を高く掲げた騎士達。その誰もが厳しい覚悟をした表情で、見ているだけで痛々しかった。目の前の誰もが、ヒユウと戦いたくないということはひしひしと感じることが出来た。それはそうだろう、彼は帝国軍の上に立ち、騎士全てを率いる将軍なのだから。帝国ではなく彼に忠義を示す者、彼を志す者も多くいると聞いた。そんな彼に剣を向けることなど有り得ないと思っていた筈だ。したくないに決まっている。それなのに。
だが、そんなフィリアの声など届くわけが無かった。最初から、彼女の言葉を聞く者などこの場にはただの一人もいなかった。
「全員を相手している暇などないな……さて、しっかり掴まっていろ」
「えっ、あ……!」
ぐっと膝裏に回していた腕に力が込められる。そして唐突に、ぐんとヒユウの背後に向かって頭が引っ張られるような感覚が襲った。フィリアは軽い悲鳴を上げてヒユウの軍服を掴んでそれに堪える。次に上から重圧がかかったかと思うと、その一瞬後にふわりとした浮遊感が少女を襲った。
「!?」
彼は自分を抱えたまま、跳躍していた。
彼の肩口に顔を埋めるようにして必死にしがみついたフィリアが目を開けると、下には五十を超える騎士達の姿があった。彼らはまだこちらに気付いていない。姿が消えてしまって、動揺しながら元いた場所を見ていた。いつもは空のように高い天井が、近い。ほぼ助走も無い状態で全く音もたてずの、人間の身体能力とかけ離れた跳躍に、羽がはえているのかと思わず背中を確認してしまったほどだ。
「う、上だ!」
「矢を射て!!」
誰かが気づき、声を張り上げる。命令と同時に弓を構えた騎士達が矢を放った。が、そのどれもが空を切り、ヒユウを捕らえることができなかった。
ケイトが焦ったように叫ぶ。
「着地点を狙って!」
「ひえ……っ」
追いかけてくる騎士達の頭上で弧を描いて、その後ろで弓を構えている騎士達の放った矢が飛んでくる。フィリアは悲鳴を上げて頭を伏せたが、矢が自分達を射ることはなかった。まるで矢が途中で力を失ったかのような不自然な弧を描いて地面に落ちていくのだ。
「くっ、やはり結界か!」
後方から悔しそうな舌打ちが聞こえた。軽々と騎士達の頭上を飛び越えたヒユウは着地してそのまま、出口に向かって床を蹴る。
「逃すな! 出口を固めなさい!!」
焦ったようなケイトの声。騒動を聞きつけた新たな兵士達が続々と出てきた。あっという間に前後を固められたが、ヒユウは速度を落とすことなく、そのまま兵士の列に突っ込んでいった。
「ヒ……っ!?」
震駭した兵士の、続く言葉は音にはならなかった。爛々と輝く琥珀の瞳は獲物を狙う獅子のごとき迫力で、それだけで大抵の者は気圧されてしまう。その隙をついてヒユウは腰に下げた剣を抜くこともなく、空いてる右手の指先まで神経を尖らせて手刀を作った。
神速の、一陣の風。
手の甲に衝撃が走り、握っていた剣が床に叩きつけられる。兵士は何が起こったのか気付く間も無く、斜め後ろにいた兵士の倒れる音を聞いた。振り返ると他にもうつ伏せに倒れている幾人もの兵士がいた。
ヒユウは次々と兵士の手の甲、あるいは項に手刀を食らわせていったのだ。その速さはとても人の動体視力で追いつけるようなものではなかった。ただ、男の琥珀の双眸の残像だけが頭にこびりついて離れなかった。
「な……」
それを後ろから追ってきたケイトが見て、声を失った。広間から廊下に出た時には、既にヒユウの姿は無く、あるのは倒れている兵士達と、手の甲をおさえてうめいている兵士達。仮にも帝国軍を支える兵士達が手も足も出ないなんて、こんな光景を見るとは思いもしなかった。
ケイトは今まで彼の力を近くで見てきた。魔物討伐や紛争解決の為に、少ないながらも彼がその力を振るうこともあった。その度に感嘆したし、尊敬もした。さすがは帝国軍の最高幹部なだけはあると、まるで自分のことのように誇りに思ったことはあった。だが、これほどまでに愕然としたものを感じたのは初めてだ。まるで赤子の手足をひねるかのように――いいや、もっと酷い。これはまさに蚊を追い払うかのような素振りだ――、あしらわれた。あれは『召喚士』としてはまだ序の口だというのに。それがわかっているからこそ、敵対してしまった事実をいまだに信じたくないのだ。
左手でしっかりと少女を抱えながら五十を超える騎士を軽々と飛び越えて、右手だけでおよそ数十人の兵士の壁をくぐりぬけた彼は、誰も殺してはいなかった。
誰一人として、死んではいない。
だがケイトは知っていた。この場で彼が誰一人として殺さなかったのは、人を殺すのを厭ったからという意味ではない。かつての仲間を殺すに惜しいと思ったからでもない。
――― ただ、殺す手間が面倒だっただけだ。
ヒユウという男は殺戮を好むような危険な性癖があるわけではない。だからと言って、殺しに躊躇するようなこともない。必要とあらば逡巡せずに殺せるような人間だった。それをケイトは知っていた。
あくまで彼の今の目的は、最短時間でこの場を潜り抜けることだった。だから、一番手っ取り早い方法を取ったのだ。かといって、本当に必要最低限の手間と時間でこなしてしまう男が憎らしく感じた。
「……まだ憑依の初段階のようですね。それだけでいとも簡単に帝国軍騎士団の包囲網を潜り抜けるとは。まあ、こちら側としては相手が彼では躊躇してしまう気持ちの方が多いでしょうから、致し方ないと言いますか」
「ノエル殿!」
いつのまにか、緑髪の男がケイトの傍までやってきていた。
ノエル ―― 帝国軍部の研究者達を纏めている人物。
常に長い白衣を纏い、まるで太陽の光の代わりに月の光を吸い取って生きているような青白い顔色で、丸い眼鏡越しに他人を値踏みするような視線を投げつけてくる嫌な男。
彼に対するケイトの印象は簡単に言えばそんなかんじだ。だが今は、貴族の礼装に身を包み、鋭い黒の双眸を眼鏡で隠しもせずに晒している。白衣でないだけでかなり印象は変わったが、それでも他人に与える印象は刺々しく、あまり近寄りたくない類の人間だと思わせるものだろう。
彼は実験を観察するようなそんな興味深そうな瞳で、廊下に倒れ付している兵士達を見下ろしていた。ケイトが名を呼ぶと、彼の細い目がさらに鋭さを増した。
「……ケイト殿、なんですか、この体たらくは。仮にも騎士団を率いる貴方がそのようでは、部下の士気に関わる」
「申し訳ありません……」
ノエルの厳しい口調にケイトは項垂れた。彼の言う通りだ。自分はもっと毅然としていて客観的な人間だと思っていたのに。ヒユウのまさかの裏切りに動揺して、まともな指示をすることが出来なかった。手も足も出ずに、彼を逃してしまったのは自分の責任だ。
悔しそうに足元を見つめるケイトを、ノエルは無表情のまま見下ろしていたが。
「……まあ、いいでしょう。概ね、予定通りです」
「え……?」
意味の掴めない言葉にケイトが頭を上げる。ノエルは身を翻して、ヒユウの立ち去った方へ整然とした足取りで歩を進めていた。




