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がきん、と鈍い金属音がして、きつく瞑っていた目を開けると、獣の爪と短剣で対峙している男がいた。
「あ……っ、あなたは!」
信じられない。あのときの、あの人が、なんで!?
地面に尻餅をついた状態で、フィリアは自分の目を疑った。自分を庇ったのは、数日前、ハデス司祭の行方を聞きに行った際に会った水色髪の騎士だった。なんというか、細身で、飄々とした軽い性格だったので騎士には見えないなぁという第一印象だった。それなのに、大の男よりも大きな獣相手に、短剣一本だけで渡り合っている。素早い身のこなしで、魔物の凶暴な爪や牙をかわし、時に短剣で受け流していた。だが、それでも長くはもたないだろう。
爪と絡ませ合った短剣の腹をくるりと返してつまびくと、硬い金属片をしこんだ靴先で、体勢を僅かに崩した獣の鳩尾を思いっきり蹴り上げた。魔物が初めて、荒々しい息遣いではなく、苦痛による短い悲鳴を上げる。
そして、水色頭の男はフィリアの腕を引っ張り起こし、脇道へ押し込んだ。半ば放心状態だったフィリアだが、視界から獣の姿が見えなくなって少し緊張から解放される。すぐに、助けてくれた男に礼を言おうと顔を上げるが、彼は少女の足を見て叫んだ。
「げっ、怪我してるじゃねーか!」
つられるように視線を下げると、膝からは結構な血が流れていた。先刻感じた強烈な痛みはこれだろう。あの魔物の爪痕なのか、三本並んだ平行線がくっきりとある。一見すると派手な傷に見えたが、それほど深い傷ではないらしく、痛みはあるもののなんとか立っていることもできた。
「だ、大丈夫です、かすり傷ですから。それより助けて下さってありが」
「かすり傷じゃねーって! あああ、これバレたら怒られる……」
「え?」
「い、いや、なんでもねぇ。とりあえずここは他の騎士に任せてずらかるぞ」
そう言うやいなや、水色頭の騎士はフィリアを抱き上げた。
「え、ひゃっ」
男の肩越しに背後を見ると、魔物と対峙するように数人の兵士がいた。おそらく騒ぎを聞きつけた見回りの者だろう。だが、いくら兵士とはいえ、あんな獰猛な獣相手に大丈夫だろうかとフィリアは不安になった。今まで確認されたことのない魔物らしく、取り囲みはしたものの二の足を踏んでいるようで。剣を構えながら、じりじりと隅へ追いつめようとしている。だが魔物はそれらを嘲笑うかのように高く跳躍して、軽々と塀を越えてしまった。そのまま街の外へと姿を消してしまう。それは一瞬の出来事だった。
あまりにもあっさりと逃げ去ってしまったので、そこに居合わせた者は皆、まるで狐に化かされたような顔をしていた。逃げようとしていた水色頭の騎士も眉間に皺を寄せて、魔物の消え去った方をじっとうかがっていた。
奇妙な沈黙。
遠くで子供のすすり泣く声がいくつか聞こえるだけだ。
取り囲んでいた兵士達も互いの顔を見合わせて、腑に落ちない表情をしている。追い詰められて逃げるしかなかった、というようには到底見えなかった。どちらかというと、逃げてやった、という方がしっくりくるのだ。強張った顔のまま、辺りを見渡すが、正体不明の魔物が暴れまわった爪痕が生々しく残っているだけで。
「う~ん、どういうことかねぇ……」
水色頭の騎士は独りごちながら、傍にあった建物の入り口に続く階段に、フィリアをそっと降ろした。別に自分に訊かれたわけでもなかったが、フィリアもその疑問に深く考え込んでしまった。
どうして、こんな街中まで魔物が……。それにさっき、あの魔物が逃げる直前、目があったような気がしたけれど、気のせいだろうか。
水色頭の騎士が腰布を破って膝の応急手当をしてくれたので、フィリアは慌てて考え事を中断して「ありがとうございます」と頭を下げた。すると、軽い口調で「いーって、いーって」と返ってくる。
その声にかぶさるようにして、馬車の車輪の音が通りに響き渡った。
遠巻きに避難していた人々が不審そうな目で追う。それは騒ぎの中心となったすぐ手前で止まり、人々はざわめき出した。
上等な素材でできた天蓋付きの箱馬車。その多くは貴族が個人で所有しているものだ。もしや馬車の窓から下々の騒ぎの残り香を楽しもうとする上流階級の人間かと、そこにいた平民達はうんざりと思ったのだった。そうだとしたら、きっと怒りに拳を震わせながらも、押し黙って頭を伏せるしかないだろう。下手に何か訴えたり反抗的な態度をとろうものならば、容赦のない罰を受けるからだ。人々は日々の鬱憤を晴らすかのように馬車を睨んだ。悪風に染まった貴族の顔をこの目で焼き付けようと思ったのだ。だが。
確かに、その馬車は貴族の所有するものであり、そこから現れたのも貴族だった。しかし、貴族の礼装に身を包んだその男が馬車から降り立つと、渾然とした場の空気が瞬時に引き締まった。男の厳しい表情からはそういった貴族の欠片は微塵も感じられなかったのだ。何者なのかと人々は戸惑い出す。
そんな中、兵士達の顔が見る見る蒼白になっていった。一人がはじかれたように背筋を伸ばして騎士の礼を取ると、残りの者達もそのあとに続く。
「こ、これは、リューシア将軍閣下!」
「例の魔物か」
「はっ! ど、どうやらそのようであります」
ヒユウが瓦礫と化した大通りの一部を見据えながら問うと、一人の兵士が緊張した声で返事をした。滅多に拝むことのできない -―― 事実、下級兵士である彼は国事レベルの行事で遠くから拝見したことがある程度だ -―― 最精鋭の騎士団を率いる将軍の登場に酷く動転しているようだった。多くの噂に上るその名を耳にして、人々も動揺しているようだ。ざわめきが、再び大きくなる。
ヒユウは魔物の立ち去ったであろう塀を一瞥したあと、振り返って大通りを見渡した。
悲しいことだが、魔物による負傷より、恐怖に支配され理性を失った人々によって負傷した人間の方が多かった。別に互いに進んで傷つけあったわけではなく、逃げ惑う内に知らず他人に怪我させてしまったり、衝突して転倒してしまったという事故での負傷――いわゆる二次災害というものだ――という意味なのだが。幼い子供が親とはぐれたり、転倒した挙句踏まれたり蹴られたりで、ちょっとした暴動の後のようだった。
すぐさま兵士達に負傷者の手当て、街の混乱を鎮めるよう、そして軍部に騒動の詳細を報告するように言った。澱みなく発せられる命令に、冷静さを完全に取り戻した兵士達も素早く対応する。他の区域の見回りをしていた兵士達も駆けつけてきた。負傷した一般人に応急手当を施す。恐怖で震えていた人々も兵士達の迅速で適切な対応に安堵したのか、徐々に平静を取り戻していった。
ヒユウは一通り命令を出して場の収拾を図ると、即座にこちらに歩いてきた。
それまで遠くのものを眺めるようにぼんやりとしていたフィリアはぎくりとして、思わず水色頭の騎士の後ろに身を隠すようにして俯いた。殆ど、無意識による反応だった。
「……どうやらご機嫌伺いは早くに終わったようで、ご苦労様でっす」
「なんだ、その腹の立つ労いの言葉は」
「別にぃ。こちとら、魔物に襲われて大変だったーてーのに」
じとりと半目で睨むヒユウに、水色頭の騎士はわざとらしく唇を尖らせて返した。その男の背後に隠れるようにして、フィリアは俯いている。それを訝しげに見下ろしたヒユウだが、左足に巻かれた布、しかもうっすらと血が滲んでいるそれに視線を留めると、当事者であるフィリアではなく、何故か水色頭の騎士に対して不穏な声を投げつけた。
「……怪我をしたのか」
「うげっ」
フィリアが何か答える前に男が奇妙な呻き声を上げて、明後日の方向へ視線を彷徨わせた。何故彼が焦っているのだろうと二人を交互に見遣っていたフィリアだが、ばっちりとヒユウと視線がぶつかってしまい、慌てて視線を逸らした。
あわわ、不自然なことしちゃった……。
自己嫌悪に陥って、ますます頭が重くなって顔を伏せる。
「来い」
「だ、大丈夫です、これくらい……」
まさか膝の手当てをしてくれるつもりなのだろうか。畏れ多いことだし、正直、これ以上ヒユウといるのは心臓がもたない。 早く、この場から立ち去りたい。けれど目の前の男の有無を言わせない雰囲気に気圧されて、弱弱しい声になってしまった。
困っていると、横から水色頭の騎士にまで「ちゃんと手当てしないといけないからな、おいでおいで」と背中を軽く押され、馬車に乗らざるをえなくなってしまった。
幌馬車や平馬車はともかく、天蓋付きの箱馬車なんて平民がそう滅多に乗れる代物ではない。
しかもその中でも上等な、黒塗り金紋の箱馬車、帽子を被った御者に黒鴨仕立ての馬丁、毛並みを揃えた二頭の馬。これに乗ってきたヒユウも貴族の礼装に身を包んでいる。漆黒の軍服姿しか見たことがなかったので、こういった上流貴族の姿を見ると、ますます世界の違いを感じてしまう。
なんとなく腰がひけていると、水色頭の騎士が馬車の扉を開けて乗るのを待っているようだった。
「あの、よろしければあなたのお名前を……」
危ないところを助けてくれた彼にはちゃんとお礼をしなければ、と思って尋ねると、男は意表を付かれたようにきょとんとした顔をした。が、すぐに人懐っこそうな笑顔を浮かべる。
「これはこれは、俺としたことが。名乗り遅れましたが、ツヴェルフと申しますよ」
「ツヴェルフ様ですか、……私はフィリアと申します。あの、危ないところをありがとうございました……って、わわっ」
そう言ってぺこりと頭を下げたのだが、馬車の扉の前でぐずぐずしていたのがいけなかったのか、突然ヒユウに担ぎ上げられてしまった。そしてそのまま馬車の中まで運ばれて、椅子の上に降ろされる。目を白黒させたまま扉の方を見ると、ツヴェルフが呆れたような顔をしていた。
「……お前なぁ、嫌がらせのつもりか? それとも、さっきの意趣返しのつもりかよ」
愚痴のこもった文句をさっくりと無視したヒユウは、御者に城へ戻るよう命令した。
がらがら、と石畳の上を滑る車輪の音が響いている。
うう、ツヴェルフ様はどうしていないんだろう……。一緒に乗ってくれると思ったのに。
彼は馬車には乗らず、どこかに行ってしまったようだ。馬車という密室の中でヒユウと二人っきり、そんな状況に、フィリアは窒息しそうだった。長い足を組んで右隣に座るヒユウは何事か思案しているのか、押し黙ったままで、なんというか正直、怖い。
右半身だけ、硬直してしまったかのように、麻痺している。
なんでこんな状況になっているのだろう。帝都をちょっと散策するつもりだったのに……いきなり魔物に襲われて、膝を怪我してしまって、助けられて、治療のために馬車に乗っている現在。しかも、ヒユウの隣でなんて。
早く城につかないかなぁ、とフィリアは後ろめたい気分で項垂れていると。
「……ハデス司祭のことだが」
ぽつりと零された言葉にフィリアはがばりと顔を上げた。今まで感じていた居心地の悪さなどすっかり忘れて、ヒユウをまっすぐ見上げる。
それは訊きたいことが多くある中でも、一番フィリアが知りたいことだ。でも、先日のツヴェルフのようにそう簡単には教えてもらえないと思っていたし、自分自身、彼を避けていたこともあってそんな機会もなかった。
ハデス司祭が行方不明になって、もうどのくらい経ったのだろう。随分と時間が経ったように感じられるのは、短期間に色々なことが起こりすぎてしまったせいだろうか。
「ツヴェルフから聞いたのだが、先日、軍部の方まで尋ねて来たのだろう」
「は、はいっ……ご、ごごめんなさい」
ヒユウの耳にまで届いているとは思わず、フィリアの顔からさあっと血の気が引いた。
ついこの前、取り乱しながらヒユウにハデス司祭の行方を聞いたのは自分だ。彼は帝国軍の最高幹部の一人だ。最精鋭である黒印魔法騎士団の将軍も務め、この帝国の中でも責任においても多忙さにおいてもトップクラスの人物だというのに、必ず見つける、とわざわざ自分に約束してくれた。あの時は取り乱した自分を落ち着かせる為に仕方なく言った可能性は高いけれど……。
そもそも、人捜しというのは彼自身の仕事の範疇ではないような気がするのだ。捜し人が皇族や大司教といった重要人物ならわかるけれど(ハデス様、ごめんなさい……私にとっては最重要必要人物なのですが)。彼には黒印魔法騎士団将軍として、帝国軍の要としての多くの指揮権を持つと同時に大きな責任を背負っている。やらねばいけないこともたくさんあるのに。自分になんかに構っている時間なんてないだろう。それなのにその彼の言葉を信じていないような行動をしてしまったことに、フィリアは今更ながら後悔した。つい謝罪の言葉が口から出てしまう。
別に彼の言葉を疑っているわけじゃない。ただ自分が情緒不安定で不安でいっぱいなだけで……と我ながら情けない説明をしようとしたが、ヒユウは苦笑してそれを遮った。
「ああ、別にお前を責めているわけではない。むしろ、その逆だ」
「え……?」
逆……?
「……もう少し、堪えてくれないか」
正面から視線が絡まり合う。怜悧な貌を僅かに歪めて、彼はそう言った。
「辛い思いをさせるが、すまない」
「え、いえっ、そんな、あや、謝らないでください! 私になんて!」
フィリアはこれ以上ないくらい、焦ってしまった。まさかヒユウに謝られるとは思っていなくて、そしてどうして彼がこれほどまでに自分に申し訳無さそうな表情をするのか全くわからない。顔をぶんぶんと左右に振って、ヒユウの表情を元に戻そうと試みた。
「ヒユウ様が謝る必要なんてありません! わ、私こそ、何もできないくせに、出過ぎた真似をしてごめんなさい……。ツヴェルフ様にも、困らせてしまって」
「いや、お前が不安に思うのは当然のことだろう。出過ぎた真似などとは思わん。ツヴェルフに謝る必要もない。それより……」
「は、はい」
内心、ヒユウの言葉にすごく驚きつつも、姿勢を正して続きを待った。
「レヴァイン皇子には、気をつけろ」
「へっ!?」
あまりにも予想外の言葉に、フィリアは奇妙な声を上げるしかできなかった。
……え、えっと、どうしてレヴァイン皇子の名前が出てくるのだろう……。というか、なんかこんな台詞、前にも聞いたことがあるような、とうろたえているとヒユウはじっとこちらを見透かすような目で、問いかけてきた。
「……殿下に、何か妙なことを言われなかったか」
「え……? ……え、えっと……その」
フィリアは冷や汗をだらだらと流しながら、しどろもどろになった。なんでヒユウにこんなことを質問されるのかわからないまま、そういえばレヴァインには色んなことを言われたなぁと思い出していた。その中に、彼にも「ヒユウには気をつけた方がいいよ」と言われたことがあるのを思い出して、思わず顔が引き攣ってしまった。
まさか、彼にもあなたと同じことを言われました……なんて言えやしない。
「ええと……べ、別に大したことは……は、はい」
誤魔化すように笑うと、明らかにヒユウが不審そうな顔をしてしまった。
うう、自分の態度が非常に怪しかったのだろうか。確かに、レヴァイン皇子の言動は妙だし、臭い台詞も並べるし……けれど、やたらと自分に構うのはメイリンの親しい友達だからとか、そもそも浮名を流す彼にとっては挨拶程度なのだと今でも信じたいのだ。それに……。
『そもそも君の記憶喪失の元凶は、あの男……ヒユウ・イル・リューシアだからだ』
どうしよう。もしかしたら、これを聞くべき時なのだろうか。今なら、答えてくれそうな気もする。フィリアが迷いながら顔を上げたとき、ちょうど馬車がとまった。
いつのまにか城門をくぐり、城壁の内部に入っていたのだ。
馬車の周りには出迎えの兵士が数名、直立している。既に先ほどの城下での騒ぎの件はここにも届いているのだろう。ヒユウが地に降り立つと、兵士の一人が近寄って告げた。
「ゼノン様がお呼びです」
「……わかった。少々遅れると伝えておけ」
「はっ」と返した兵士が、そのまま後ろに下がろうとした際に、ちょうど馬車の中にいる少女の姿に気付いたのか、ぎょっと目を見開いた。その動作にフィリアこそ驚いて、慌てて奥へと身をひっこめる。……なんだか、見られたらいけない場面を見られた気分だった。
けれども、その兵士の驚きは一瞬のことで、すぐに彼はその場から立ち去ってしまう。
そして少女はというと、軍部の医療施設らしいところに連れて行かれてしまった。




