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黄昏人  作者: はるハル
哭ぶ獣
21/93

4


―― “しっかしなぁ……あの事件が起こるまではお前は、随分と今と違ったらしいじゃねぇか”



 そして思い出したのは、真っ赤に燃ゆる炎。

 その中に浮かぶ漆黒の影 ―― それはまるで、踊っているようだった。

 龍との初めての接触も、血と炎の中だった。







 



「今日の姫様は、一段と明るいですわね」

 一人の女官が、何か眩いもの――太陽を眺めるときのように目を細めて言った。その視線の先には、美しく着飾った一人の少女。きらきらと光の粒子が舞い降りたように輝く金の髪は絡み合うことを知らず、腰下まで見事な流れを作っている。長い睫毛に縁取られた瞳は透き通った空色で、憧れの姉と同じその色彩を彼女は気に入っていた。

「やっぱり……違うドレスの方がいいかしら? ねえ……わたくし、どこかおかしいところはない……?」

 おっとりとした口調、だが落ち着かない仕草できょろきょろと全身を見渡す少女に、傍にいた女官はくすくすと笑った。

「はい、サラ様。よくお似合いですわ。きっと、ヒユウ様も驚かれるに違いありません」

「本当に? ありがとう」

 少し照れくさそうに少女はふんわりと柔らかい笑顔を浮かべた。そして、嬉しさを隠せない様子で、待ち人のいる部屋へと向かっていく。それを、少女の下について五年以上にもなるその女官は、彼女をそっと見守る姉のような心地で送り出した。


「姉君であられるユリアーナ様と違って少々……というか大分内向的なお方ですけれど、ヒユウ様がいらして下さる時は、本当に明るくなられますわね」

「恋をすると女は変わると言いますしね」

 女官が感心したように呟くと、他の女官達も揃って力強く頷いた。

「それはそうよ、なんたってヒユウ様が来られるんだもの! たとえ重病で臥せっていようが、たちまち元気になるに決まっていますわ」

「先程、屋敷の入り口で馬車からお降りになったところを拝見したのですけれど、相変わらず凛々しくて素敵でしたわ~」

「まあ、ずるい!」


「……それで、今日はいつもより化粧に気合入った子が多いわけね」

 一旦口火を切ると女官達の雑談は際限なく続く。一番年長の女官が呆れたように周りを見渡すと、そう口にした。年頃の多い女官達は図星なのか皆視線を宙に泳がせていた。




 そんな彼女達の話題の中心になっているとも知らずに、サラが部屋にノックをして入ると既にヒユウはいた。サラを出迎えるようにヒユウは優雅に騎士の礼を取る。久しぶりに見る男の姿は少女の鼓動を高めるには充分だった。彼女にとって、昔から憧れていた理想の騎士そのままなのだ。

 少女はドレスをつまみ、腰を折って礼をとる。姉のユリアーナと比べると気品や妖艶さは劣るものの、美貌では引けをとらない。あと数年もたてば、ユリアーナと並び立つくらいの存在になるだろう。

「お待たせして申し訳ありません、ヒユウ様……。お忙しいのに来て下さって、本当にありがとうございますわ」

「加減はどうだ、サラ姫」

 ヒユウはサラの手を取りながら、ソファへと導いた。

「はい……今はとても気分が良いんですの」

 ヒユウ様がいらっしゃるから……とは心の中でだけで付け足して、サラはソファに腰を下ろした。見上げて満面の笑みを浮かべると、ヒユウから穏やかな微笑が返ってきて、ますます心は舞い上がる。

 ヒユウが向かいのソファに腰を下ろすのを見つめながら、サラはどきどきする心臓の音を抑えようと何か話題を探した。内気で人見知りな彼女がこうやって、会話の際に自ら話題を探そうとすること自体が初めてだった。

 たどたどしくも、一生懸命な少女を見守りながら、黒騎士は優しく楽しいひとときを、彼女に与えた。


「そういえば……あの……聖祭の最終日の夜会に、お姉様にお会いになられたでしょう……?」

 ヒユウが「ああ」と頷くと、サラは少し言いにくそうに口篭る。僅かに頬を赤く染めながら上目遣いで男の様子を窺った。

「何か、変なことをおっしゃっておられなかったでしょうか……?」

「……いや」

 ユリアーナの言っていた噂とやらを思い出す。確かサラはそれが気になって夜会に出たいと言っていたそうだが、もしかしてそのことだろうか。他に思い当たる節もないが、本人はどうやらそれを自分には知られたくないようなので、ヒユウは否定を口にする。すると案の定、少女からは「そう、よかった……」という安堵の声が漏れた。

「せっかくヒユウ様が出ていらっしゃるから、わたくしも出たかったのですが……やはり人の多いところは苦手で……」

 サラは内気で消極的な性格だった。姉と違い、社交的な話術も殆ど身につけていない。それは父や姉の過保護に寄るものだろう。常春のような屋敷の中で溺愛されて育った少女が、人見知りで他人を警戒するようになってしまうのも当然と言えば当然だった。そういうところが、余計周囲の庇護欲を煽っていたりするのだが。

「夜会など気詰まりばかりする場所だ。サラ姫が無理をしてまで行くような大層な場所ではない」

「でも……ヒユウ様はお姉様と踊られたのでしょう……?」

 じっと、少し拗ねたような表情で見上げるサラに、ヒユウは苦笑した。

「まさか。ユリアーナ姫は既にアーヴィス卿に嫁いだ身だ。夫を差し置いて、一介の騎士である私が誘うわけにもいくまい」

「……ヒユウ様はお姉様と踊りたかったのではありません?」

 求めていた応えと違っていて、サラは不安に揺れた瞳を向けながらしつこく食いさがった。その二人の間に割り込むように飛び込んできたのは、扉をノックする音。ヒユウが扉に視線を向けると、外から聞き覚えのある老年――この屋敷の執事だろう――の声がした。

「申し訳ありません、ヒユウ様。ホーザック様がお呼びです」

「わかった、すぐに向かう」

 ヒユウは執事に向かってそう返すと、振り返って「名残惜しいが、これで失礼する」と騎士の礼を取った。洗練された所作でこの部屋を立ち去る男の背中を、サラは愛おしそうに眺めていた。

「もう……お父様の馬鹿」

 多忙な彼がこうやって訪れるのは多くない、来てくれたとしてもそう長い時間のことではない。短い逢瀬だが、それでも確実に募っていく彼への思慕をサラは大事に育てていた。

(ヒユウ様がお姉様を今でも好きでも、いいの……)

 嫉妬する気持ちもある。けれど、それ以上に自分が姉を尊敬しているから。憧れているから。彼女だけには敵わないと思っているから、サラはそれで十分だった。自分はヒユウの婚約者なのだから、焦る必要はないと言い聞かせていたのだった。




 執事の案内で辿り着いた部屋には、既に中央に配置されたソファに壮年の男が腰掛けて待っていた。彼はこの屋敷の当主であり、サラ、ユリアーナの実父である。彼女達の実の父親であるということは、すなわち、現皇帝の弟ということである。皇族には金髪が多く、彼もまた白髪が目立つものの眩いそれだった。またユリアーナ、サラの父、レヴァインの叔父と言われれば思わず納得できそうなほど、面影は似ていた。

 ヒユウが礼を取り、沈黙したまま向かいに腰を下ろす。するとどこからともなく侍女が現れ、機械的な動作で二人分の紅茶を注いだ。壮年の男が片手を軽く上げて人払いの合図を送ると、執事も侍女も部屋から姿を消した。

 暫く、壮年の男は紅茶から立ち上る湯気ごしに宙を見つめていた。何か言葉を探しているようだった。


「もう、わかっておるだろう。皇族は教会側へついた。すなわち……わしに選択の余地はないということだ」

「……貴殿の場合は、そう簡単にはいかぬだろうな。軍部への資金提供以上に、様々な機密を知りすぎているその身では」

「わ、わかっておる! だからわしはどちら側にもつけないと言っておろう!」

 焦ったようにホーザックは、逸らしていた視線をヒユウに向けた。途端にぎくりと肩を震わせる。向かいに座る銀髪の男の青い瞳には、凄絶ともいえる残酷な光が宿っていた。

「成る程、死んでも中立を貫くというわけか。娘二人の身柄をそれぞれ両側に渡した以上は、それが賢明だろうな」

 ヒユウの無慈悲なその言葉はホーザックの心臓を抉るには充分だった。恐怖なのか、屈辱なのかわからない、小刻みに震える膝の上に拳を置いて握り締める。向かいに座る銀髪の男からは、いつ対峙してもその思考が読めることなどなかった。それが恐ろしくて、一言話すだけでも酷く体力を使った。娘を人質同様にされているのも原因の一つではあったが。

 皇族の一員として生まれ、貴族社会の中で腹に一物も二物も抱えた人間を多く相手にしてきた彼とて、ここまで神経を磨り減らす相手はそういなかった。


「……最早、わしは手をひいたのだ。これ以上の情報はもちあわせてはおらん。……例の件についても、現在どうなっておるかなど、知ることさえ出来ない状況なのだ」


 これは嘘偽りのない言葉だった。だからもう、ヒユウに対してこれ以上は何の協力もしない、出来ない、ということだった。ホーザックはこれを口にするのにとても勇気が必要だった。相手が一癖も二癖もある厄介な人物で、このまま大人しく引き下がるとは思えなかった。また彼でなく、軍部が自分に対してどのような処断をするかがわからない。だが、かといって軍部側につくこともできないのだ。


「どうやら、そのようだな」

 項垂れたホーザックに哀れみも怒りも感じさせないで、ヒユウはすっと席を立った。そのまま一切の興味を失ってしまったかのような態度に、ホーザックは反対に動揺して立ち上がった。彼は本来、冷静沈着で穏やかな男だった。そして周りの目には娘想いの優しい父親と映っていた。けれど、今の姿を見れば、驚いて目を見開くことだろう。それほど彼は慄いていた。


「待て! 貴殿は娘……サラをどうするつもりだ」

「別にどうもしない。親が犯した罪を子に報わせるつもりは毛頭ない」

 立ち上がって睨み付けるホーザックに、ヒユウはつまらなそうに言って、そのまま身を翻した。

 かつかつと靴音が遠ざかっていく。廊下からも気配が消えた頃、大きな虚脱感と疲労が襲い掛かってきた。歳を重ねた身でそれを耐えるのは辛く、こめかみを指で押さえる。



「手遅れではないか……、既に娘の心は奪われておる……」


 何の疑いもなく、あの無情な男を慕っている娘が哀れでならなかった。そしてそれを告げられない自分にも吐き気がした。所詮、自分も己の身が一番可愛いのだろう。

「三年前の、あの実験に関わらなければこんなことには……」

 こうやって、心臓を鷲掴みにされて、常に己の生死を握られている恐怖を味わうこともなかった。娘の心と身体の自由も、奪われることもなかった。


 ホーザックはよろよろとソファに腰を下ろして、そのまま弱弱しく下がる頭を両腕で抱えた。溜息とともに吐き出される声も、悲しいほどに掠れていた。


「これが、わしへの報いというのか……」










+ + +







 

 すっかり全快したフィリアは城下町へ来ていた。

 女官業に復帰して早々、お使いを頼まれたのである。病み上がりでは辛いだろうとネイミーが代わりを務めようとしたのだが、フィリアはそれを断った。何日も寝台に横になっていたので、身体がなまってしょうがない。外の空気に触れたくて仕方なかったのだ。

 聖祭も終わって城下町は普段の賑わいに落ち着いていた。といっても、それでもフィリアにとっては信じられないくらいの人混みだ。

「世界には、これだけの人がいたんですねー……」

 帝都にきて良かったなぁ、と思うのは、世界の広さを少しでも知ることができたことだ。大通りの賑わいは、行き交う人とぶつかりそうになったり迷子になりそうになったりするけれど、好きだった。生き生きとした色で満ちていて、見ているだけで元気を貰えるような気がした。

 頼まれていたお使いは済んだし、少し散策してみようかとフィリアは珍しく思った。


 帝都には大通りがいくつかあって、それぞれの色というか、客層がくっきりとわかれざるをえないつくりになっている。どういうことかと言うと、たとえば一番人のごった返す大道というと、いわゆる商店街と呼ばれる通りで、大陸中の行商人が首をそろえる。一日中、軽妙な話しぶりで客引きをする露天商で賑わいに満ち、ここにはあらゆる物が集まるという。凱旋門から大神殿まで一番の近道でもあるために、帝都の民、旅人、異民族など関係なくここを通る。そのためか、『聖道街』と呼ばれていた。

 そのすぐ隣にある大通りでは主に武器などを扱う行商を抱え、『天日矛あまのぬぼこ通り』と呼ばれている。

 やはりというか、いかにもな厳つい風体の旅人や兵士の姿がよく見られる。他にも、旅芸人や見世物師が集まる芸術街もあり、一番華やかで見るだけで楽しい通りといえばそこだろう。華々しい民族衣装を纏った旅人が多い。あと、フィリアは勿論行ったことがないが、色街などもあるらしい。ちなみに美女がよりどりみどりらしい。

 それらの大通りから脇道に入ると途端に、帝都民でも迷子になってしまうほど、道は入り組んでいる。帝都を東西南北に分けるとして、先日フィリアが足を踏み入れてしまった貧民街は西部に当たるらしい。それ以外は平民の家々が並び、治安は良いという。


 話を戻して、今フィリアが散策をしているのは芸術街である。帝都の道は貧民街や一部の路地裏を除いて、石もしくはレンガできっちりと舗装されている。緩やかな坂となっている大通りを上りながら、フィリアはほうと感嘆の溜息を吐いた。

 ロウティエ帝国の都であるベルツグは様々な異名を持つ。

 『龍王のお膝元』、『龍の飛来し大地』なども、狭義では帝都ベルツグを指す。おそらく、“龍託”の発せられる地だからであろう。それ以外にも、一攫千金などの野望や夢を果たそうとやってくる者からは『如意宝珠を奉ずる都』、中でも騎士を目指しやってくる地方の若者からは『騎士の源泉』と、憧憬を込めて呼ばれている。

 他にもあげるとキリがないくらい、多い。それほど、この帝都は広大で豊かなのだ。この大陸のあらゆるものの生まれいずる地であり、返ってくる地でもあった。

 それは経済、軍事だけでなく、芸術の面でもいえる。

 芸術方面で一番発達しているのは建築技術であり、これは実際に足を踏み入れて周りを見渡すと、嫌でも理解できてしまう。圧巻、壮大、優美、典麗、豪華という、お決まりの美麗賛辞が似合う建物がずらりと立ち並んでいる。優れた彫刻師なども多く、この通りでも地面に麻布を敷いて、その上に繊細な彫像を並べている者もいた。なんでも、即席で自分の似顔絵ならぬ似顔彫像を作ってくれるらしい。他にも踊り子が楽師を侍らせて、楽しそうに踊っている。それらを眺めて楽しむ観客の中には旅人や観光客が多かったが、中には明らかにお忍びで、高貴な生まれを隠すために平民に扮装しているだろう者もいた。


 少し先にひときわ大きな人だかりがあった。どれもが華やかで目を奪われるものばかりだったが、その中でもとくに人々の注目を集める存在なのだろう。好奇心を刺激されたフィリアがひょいと人垣の隙間から覗くと、目を瞬かせた。


 人だかりの中心には、一人の少女がいた。

 薄紅色の髪を二つにわけて高い位置で結っている。見るからに明朗快活そうな少女で、軽快な口調で人々の視線を独り占めしていた。

 一見すると普通の娘なので何故だろうと思っていると、どうやら少女は召喚士らしいのだ。

 召喚士というのは選ばれた者しかなれないという稀少な職業である。

 大抵は帝国軍入軍を目指す者が多く、そうでなくとも戦う力を得る為に習得する。召喚士の殆どが卓越した戦闘力を持つことから、一般人にとって恐れの対象として捉えられている。だが、目の前の人畜無害そうな少女をそういう目で見るのは難しい。元気溌剌で身振り手振りの動作にはちょっとコミカルな演技が含まれていて、軽快、そういう意味で目が離せないのだった。

 それにしても、召喚士の大道芸人なんて珍しい。

 しかも女の子とくれば、尚更のこと。

 召喚士ならば、たとえ帝国軍に入れずとも、貴族や豪商の護衛として高額で雇ってもらえたりする。そちらの方が大道芸人としてよりも遥かに日々の生活も待遇も良かろうに。何故、そうしなかったのだろうと思っていると、他の客も不思議に思ったのだろう。疑問をぶつける声が上がった。少女はよくぞ聞いてくれましたという風に息を吸うと、「あたしは召喚士の異端の異端、落ちこぼれの中の落ちこぼれっ! ああ、誰が想像できるだろう……っ、選ばれし存在である召喚士となって名誉を手に入れるどころか、まったく正反対の意味での選ばれし者となるなんてっ!」と、よよよと泣き真似をして大袈裟に嘆いてみせた。

 フィリアは感動した。これだけ大勢の人間に向かって臆することなく話す、というだけでなくて、演技までするなんて。自分はきっと、一生かかってもできないだろう。

「苦労に苦労を重ねて召喚獣と契約まで結んだはいいもののっ!」

 少女は手で何か印を忙しく結びながらも、観客に向かって道化の口調を続けた。

「手にした力は、炎を吐く蛇か!? 氷の刃を降らせる大鳥か! はたまた天を轟かせ神罰の雷を下せし猛虎か!!」

 少女が、両手を空に掲げて、声高に叫んだ。

「いいや、もしかしたら金貨の雨を降らす黄金の獣かもしれぬ!!」

 少女の言葉に観客は思わず笑い、噴出しそうになった ―― が、すぐにそれは驚嘆の声に変わった。



 白。

 黄色。

 水色。

 少女の髪と同じ薄紅色。

 視界いっぱいに広がる、色とりどりの、小さな花。

 淡い花々が、空から尽きることなくふわりふわりと降ってくる。


―― 花吹雪! すごい、すごい綺麗……っ!!

 フィリアは思わず、空に向かって両手を広げた。掌に、肩に、頭の上に花びらが舞い落ちる。優しく撫でるように頬を掠める。ふわりと甘くて儚い芳香が鼻孔をついた。

 他の観客も皆茫然と空を見上げていた。とくに女性や子供は大喜びで、花嵐を堪能しているようだ。


 少女の召喚獣は、花の妖精だった。

 「残念ながら、あたしが齎すのは金貨の雨ではなく、小さな花の雨のようでした」とおどけながら、少女が言う。そして、観客が朗らかに笑う中、次から次へと街路の脇に植えられた木の花を咲かせたりして楽しませ、貴重な香草から抽出した香料や薬草を売り物として出したりしていた。

 美を保つ為に四苦八苦する女性にとって、香料は絶対必需品だ。こればかりは平民貴族関係ない。少女の持つ、朝露濡れた清々しい草原の朝を連想させる名香に女性たちは殺到した。それだけでなく治療薬、媚薬、毒薬としても草花は人々に大いなる恩恵を齎すのだ。薬草として買い求める人々も多かった。

 香水などつけたことのないフィリア、こんな素敵な香りなら一度はつけてみたいなぁとは思ったが、そんな贅沢をしてる身分ではないし、そもそも持ち合わせもない。貧乏くさいが、この場で香りを楽しんで満足したら帰ろう、と思った。

 そのとき、突然、なんだか違和感のようなものを感じて視線を巡らした。

 召喚士の少女の背後は宿屋らしい建物だった。視線を上げると、出窓のある赤い屋根が見える。

 その屋根の上に、大きな爪の四足を持った、獣がいた。


 犬を何倍にも強面にして、口を耳元まで裂けさせて、金色の眸を鋭く吊り上らせたようなそれ。全身真っ黒な毛に覆われ、長い尾は二本ある。後頭部から背に続くラインが盛り上がっていて背骨が浮き上がっている、薄く開かれた口から鋭利な牙が覗き、その隙間から真っ赤な舌がだらりと垂れ下がっていた。涎が滴り落ち、血と肉に飢えたような獰猛な息遣いでこちらを見下ろしている。

 フィリアは咄嗟に呼吸を忘れてしまうくらい、全身粟立った。

 他の観客も気付いた者が何人かいて恐怖で顔を引き攣らせたが、すぐに「あれも見世物か」と感嘆の表情に変わった。少女は落ちこぼれだと言ったが、あれは前座で、自分達を驚かせるために言ったのだ、とまで思ってしまった。今度はどんなものを見せてくれるのか期待する者までいた。それほど、少女に魅せられていたのだ。

 だがすぐにその期待は粉々に打ち砕かれる。

 観客の視線の先を辿った召喚士の娘が驚愕の色に顔を染めて、金切り声を上げて逃げ出したからだ。

 その逃げ足の早さに声をのむ間もなかった。


「まっ、魔物だーーー!!!」


 誰かが発した悲鳴が、華やかな芸術街を一瞬で恐怖のどん底に落とす合図となった。恐怖は混乱を、混乱は更なる恐怖を呼んで、我先へ逃げようとする者が互いに邪魔をする結果となってしまう。屋根上の獣は、眼窩のこの光景を怖いくらい静かな目で見下ろしていた。ただ、渇きに苦しんだような息遣いが絶え間なく牙の隙間から漏れて、それが人々の恐怖感を煽るのだ。

 フィリアも無理やり獣から視線を剥がして、あわあわと言葉にならない声を漏らしながら、人波に乗って逃げようとした。だが少女の視線が離れたと同時に、今まで屋根から微動だにしなかった獣が動き出した。

 たん、とその大きな胴に似つかわしくない軽やかな音を立てて、屋根を蹴った。空中で、獣らしいしなやかな動作で身体を一回転させて大通りの石畳の上に降り立つ。獣の爪が、がりがりと耳障りな音を立てて石畳に深く突き刺さった。人の肉だけでなく骨まで引き裂けそうな鋭利なそれは、簡単に石の地面をはいで中を抉る。人々の悲鳴がますます悲壮で、奇声めいたものになった。

 突然、フィリアは目の前に降り立った獣によって行く手を阻まれたばかりか、足が竦んでその場から動けなくなってしまった。

「……ぁ、……な……っ……」

 な、何で、よりにもよって!

 このまま、自分は最初に食べられてしまうのだろうな、と思った。周囲の人々はとっくに逃げ去ってしまっている。ああ、寄り道なんてせずに真っ直ぐ城に帰ればよかった。少し帝都の地理を覚えたから、散策してみようなんて、そんなこと思わなければよかった。後悔先に立たず、まさにその通りだ。

 獣の金色の双眸にじっと睨まれて、恐怖からか、一瞬意識が遠くなった。立ち眩みだろう、ふらついて後ろに倒れそうになった。何とかたたらを踏んで堪えたのだが。

 そして、いつ自分は食べられるのだろう、という半ば錯乱状態に陥ったときに、違和感を感じた。


―― 襲ってこない?

 獣は、ただフィリア一人だけを金色の双眸に映しているだけだった。飢餓を訴える息遣いとは裏腹に、すぐに食いつくような様子は何故か見当たらなかった。

 見定められているのだろうか。

 そういう視線だった。食べておいしいのかどうか、そういう次元かもしれない。飢餓状態の獣にそんな物色をしている余裕があるのかどうか疑問だったが、とにかくそういった、全身を見渡し、確かめ、突き刺すようなものに見えた。

 フィリアは恐怖と疑問によって、瞬きすら恐ろしくて――その瞬間に、襲い掛かられそうでたまらなかった――獣から目を離すことができなかった。



「ぐ……ぅ、ぐぐ……」


 激痛を堪えるようなうめき声が獣から漏れる。獣は苦悶に頭を揺らし、それから逃れるように地面を蹴った。




「……っ!」


―― 食べられる!!

 そう覚悟したとき、奇妙な浮遊感に包まれると同時に左足に強烈な痛みが走った。人々の悲鳴が遠くで響く中、「危ねぇ!」という男の声が近くで聞こえた気がするが、その痛みのせいで頭に留まることなく耳から耳へと素通りした。






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