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まだ微熱と身体の気だるさが抜けないフィリアは、寝台の上で退屈な時間を過ごしていた。今まで溜まった疲労を回復させるのにいい機会だと思ったのだがそれも最初だけで、その内ずっと横になっているのが酷く苦痛になってきてしまった。何もやることがない分、考え事ばかりしてしまう。現状の少女の頭に浮かぶ考え事といったら、ろくでもないことばかりなので、余計疲労が溜まっていくような気がしたのだ。
寝台の横には大きな窓があって、そこから見える中庭の風景が唯一の癒しかもしれない。だがそれで長い退屈な時間を潰すのは無理だ。良い喋り相手のネイミーも女官の仕事が忙しくて、滅多に来れない。その他に訪れる人物と言ったら、薬湯をもって様子を見に来る医術士か、決まった時間にご飯を運んできてくれる女官しかいなかった。
だから、フィリアは最初目を疑ってしまったのだ。
「まあ、それほど驚きなのかしら」
レヴァインの側室であるパオラが扉の前に立って、首を傾げている。いつもの彼女を取り巻く女官達もいなくて、部屋には二人だけだ。
「パオラ様……」
「あなたが蛇の毒で倒れられたと聞いた時は驚きましたわ。でも助かったようで、よろしかったですわね」
目を見開いたまま凝視する少女を愉快そうに見ながら、パオラはゆっくりと傍までやってきた。
「それにしても恐ろしいですわね。毒蛇を寝台に忍ばせて襲わせるなんて。噂でもレヴァイン様の寵を競う者の嫌がらせだと言われてますが、わたくしもそう思いますわね」
自分もその中に含まれるというのに、パオラは平然とそう言いきった。
「わざわざ、パオラ様お一人で来られるなんて……本当にありがとうございます」
まさか彼女が自分を見舞いに来るとは露ほどにも思ってなかったフィリアは、驚いた表情を隠せずに頭を下げて礼を述べる。それを見たパオラは肩を竦ませた。
「あなたは……相変わらず平和なお方なのですね。まあお気をつけなさい。この白亜のお城はね、確かに一番安全で華やかですが、わたくし達にとっては、戦場なんですの。この重くて美しいドレスはね、鎧なんですの。この扇子はね、剣であり、盾なのですわ」
「戦場……」
「そうですわ。ですから、これからはご自分の行動にはお気をつけなさい……。今回の毒蛇も、あなたへの警告でしょうから」
パオラの口調にも、フィリアに対しての警告が含められていて、少女は押し黙ると僅かに顔を伏せた。皇宮に入ったのは全て偶然で、自分は巻き込まれたのだからと、他人事のように中途半端になっていたのかもしれない。いや、かもしれないではなくて、そうだったのだ。それをきっと周囲も嗅ぎ取っているのだろう。だからこそ、フィリアは浮いた存在のままなのかもしれないと、パオラに指摘されて改めて思った。
「レヴァイン殿下は……この頃の殿下はよくわかりませんわ。平民の踊り子などを側室に上げたばかりか……」
扇子を口元に当てながら、パオラは珍しく焦燥にも似た憂鬱の色を滲ませた。
「何かをしようとしていらっしゃる……、そしてあのメイリンという踊り子も」
「メイリンさんが……?」
「あなたも、あのメイリンという娘には気をつけた方がよろしいですわね。あなたはあの娘を慕っているようですが、毒蛇が出た日の昼間、メイリン付きの女官があなたの部屋の近くにいたという証言もありましてよ」
「! そんなの、嘘!」
パオラの言いたいことを悟ったフィリアは、初めて会った時以上に非難の声を上げた。じっと、視線を逸らさずにパオラを見据える。いくら、パオラに対して警戒心などは無くなったものの、それ以上の言葉を聴けば、彼女を許せなくなる。そう、目で訴えた。
「……信じる、信じないはあなたの自由ですわ。わたくしは忠告しにきただけですから」
少女の反応につんとした表情になったパオラは、それきり素っ気無い口調のまま、「ではご機嫌よう」と言い残して出て行った。
ぱたん、と扉の閉まった音が、静寂の訪れる合図。
途端に、どっと疲労感が押し寄せてきた。フィリアは寝台の上で膝を抱えて、溜息を吐いて、顔を埋めた。
+ + +
ツヴェルフが主に宛がわれた執務室に入ると、ヒユウは一人で黙々と書類を捌いていた。
「二日で微熱も治まって、今日から復帰だとさ」
「……そうか」
素っ気無い反応どころか、顔も上げない男にツヴェルフは苛立ちを募らせていった。いつもなら報告が終われば、すぐさま踵を返して仕事に戻るのだが、今回ばかりはそんな気にはなれなかった。
「ヒユウ!」
とりあえず顔を上げやがれ、そうしないと殴りかかるぞといった脅しを込めて呼ぶと、ヒユウはペンを置いて顔を上げる。あからさまに不機嫌な面持ちで、鋭い視線は「まだいたのか」と訴えていたが、ツヴェルフはさっくりと無視して口を開いた。
「……いい加減に腹を括ったらどうだ?」
「何?」
「あのなぁ、まだ毒性の強くないやつで、なおかつ俺の発見が早かったからこそ、この程度で済んだんだぞ! んなくらいわかってんだろうが」
「その為の護衛だろうが。労いの言葉でも欲しいのか」
自分の言いたいことなどわかっているくせに、わざとずらした答えを返すヒユウに、ツヴェルフはがーと妙な叫びを上げながら、がしがしと頭を掻く。そういや相手を苛立たせることに関しては昔からこいつは上手かったよな、と思い出したツヴェルフは、何度か咳払いをして自分を落ち着かせた。
「……皇宮内で庇うには色々と限界がある。陰で護衛をつけてはいるが、最低限だ。それも軍縮命令のせいでうかつに城の中をうろつけなくなった。皇宮での女同士での争いに巻き込まれるとなると毒蛇だったり食事に毒を盛ったり、他にも様々な危険がある。事故に見せかけて殺すなんてことは容易いぞ。レヴァイン殿下のおかげで……ちっとはお前のせいもあるが、ますます皇宮内での敵意の的になっている。お前も俺も皇宮内では動きが制限される上に堂々と守ることも出来ない。いくらなんでも手に負えないね、こんな状況は。これ以上保つわけがない。限界だ」
「……」
ヒユウは黙ってそれを聞いていた。ツヴェルフの言っていることは正論だったのもあるし、そろそろ苛立ちを募らせた彼がこうしてぶちまけにくるだろうとあらかじめ予想していた。そして次に彼から紡がれる言葉も、それに対する自分の返答も。
「もういっそ、お前の城に連れて行って閉じ込めときゃいーじゃねーか」
「それは無理だ」
「何でだよ!? 記憶喪失っつっても説明すればいー話じゃねーか! 本人も知っておいた方が警戒できるし、効率がいいだろう? そもそも、なんでこんなまわりくどい方法をする。お前らしくない、何を躊躇っているんだよ!」
せっかく落ち着かせた気分も、ヒユウの呆気ない、無情にも取れる返答によって再び沸騰してしまった。いつも飄々としたツヴェルフがこんなに怒りの感情を顕にするのは珍しい、とヒユウは冷静な気分で眺めていた。それがますます彼の癪に障ったのだろう、今にも胸倉を掴みかねない勢いで、執務机に置かれた両手はぎりぎりと爪をたてていた。
ヒユウは背もたれに身を沈め、疲れたように溜息を吐いた。
「私の城に連れて行けば、エルカイル教会の暗殺部隊が動く。ゼノンも黙ってはいないだろう、帝国の上層部が動くとなれば、私の城どころか、もはやこの国にはいられなくなる」
「なっ……!?」
ツヴェルフは仰天した。相対する男が波紋一つない湖面のような雰囲気だったために、余計に彼の動揺は周囲の空気を揺り動かした。
「……なんだと……? エルカイル教会の暗殺部隊……それは、『聖なる手』か」
「そうだ。私も、奴らに常に監視されている」
何でもないというように淡々と返すヒユウの態度のせいか、ツヴェルフは俄かには信じられなかった。だが、こんな性質の悪い冗談など言わないことは彼が一番知っている。とにかく、もっと頭を整理する時間が欲しくて、もう一度確認するように問うた。
「……それ、まじでか? 俺でも気付かなかったぞ?」
「致し方あるまい。あちらのあれは並大抵でない暗殺術を叩き込まれた手練だ。正直、私でも手に余る」
「お、おい。仮にも帝国軍の最高幹部がそんなこと言うなよ……びびるだろうが」
引き攣った笑顔でツヴェルフはヒユウに突っ込みを入れた。
『聖なる手』とは簡単に言えば、エルカイル教会あるいは教皇の私軍のような存在だ。というか、それ以外の情報が一切ない。ただ、存在しているとしか知り得ない、不気味な集団だった。噂では内部の裏切り者を始末する隠密部隊だとも囁かれているが定かではない。それだけに、ヒユウの発言はさらにその不気味さを煽るもので、ツヴェルフの背筋に冷たい汗が流れるのも仕方ないことだろう。
そして、ツヴェルフにとってもう一つ引っかかることがあった。
「その口振りだと、奴らと対峙したことがあったのか……?」
「……まあな。その時に感じた感想だが、確実に相手をしとめる術は、奴らの方が段違いに上だろう、ということだ」
「……」
ツヴェルフは沈黙した。いつも鉄面皮で傲岸不遜なヒユウの口からこんな言葉を聞くのは初めてだった。ヒユウほどの男が認める実力をもった集団、それが敵対して今も監視していると聞けば、さすがのツヴェルフも陰鬱な気分になるのだろう。何か考え込んだように顔を伏せた彼に、落ち込んだのかと思ったヒユウは立ち上がった。
「案ずるな。暗殺術では、という意味だ。常に狙われているということを知ってさえいれば、防ぐ術はそれなりにある。左様な者共に負けはしない」
「……ああ」
頷きながらも、ツヴェルフの表情はどこか苦汁を嘗めたようなそれだった。それらの存在に気付けなかった己を悔やんでいるのだろうか。それとも、その存在自体に苦虫を潰したような思いを抱いているのか。机を挟んで立つヒユウは、そのまま少しの沈黙を置いてから、再び口を開いた。
「……お前はぬけていいんだぞ、ツヴェルフ」
「……お前も……、言うことが唐突だな」
「前から思っていたことだ。お前は好きなようにしてもいい。無理に私に従う必要も理由もないだろう」
淡々と話すヒユウの表情は冷めていて、たとえ今ツヴェルフが離反したとしても変えることはないのだろうと思った。それどころか、こうしてツヴェルフが従っていることの方に、不思議な思いを抱いているくらいなのだろう。
この、彼の執務室は、合理さを重んじる主の性格を如実に表したかのように質素で、調度品も必要最低限のものしか置いていない。寂寥すら感じる部屋の壁面には、申し訳程度に飾られた絵画が一つあるだけだ。ツヴェルフはそれを視界に入れながら、部屋というのは主の性格を、本質を、これほどまでに顕にするものなのかとぼんやりと思った。
「俺はお前の影だ。あの日、お前が、俺の実の父だった人間を謀殺した時に、ついていくと決めた」
きっぱりとそう宣言すると、明らかに不審そうに顔を歪めたヒユウがいた。当然と言えば当然の反応だろう。いくら、他人を斬って捨てるような言動や行動が多いために、よく周囲から酷薄と言われるヒユウといえど、こうあっさりと実の父の死の原因である人間に従うなどと言われても、疑惑の念しか抱けないというものだ。
たとえ、この言葉を聞くのが今初めてじゃないとしても。
「……初めて会った時も思ったが、やはりお前は変わった奴だな」
「はっ、変わってるに決まってるだろう。こう見えても、お前と同じ血が流れてるんだぜ。ほんの少しだけれどな」
「……どういう意味だ」
眉を顰めたヒユウに、ツヴェルフはくっと笑って「そのまんまの意味だ」と返した。
自分こそが、変わっている人間だと自覚していないのだろうか。
そう思うだけで、ツヴェルフはおかしい気分になった。心外そうなヒユウの返事と表情に、ツヴェルフはひとしきり笑ってから、昔……まだ、自分とヒユウが出会う前のことを思い出した。
当時は、自分はヒユウと同じ、士官学校に通う貴族の端くれとして、生きていた。
「……俺の親父は強欲な人間だった。リューシア家の傍系であることにいつも不満を抱いていた。リューシア家はフェニキア地方を代々治め、帝都にも多くの高官や上級騎士を輩出している名門貴族だ。帝国の上層部からの信頼も厚い。だからこそ、帝都への交易において重要な拠点であるフェニキア地方を領地として、維持できていた。親父はその全てを欲していた。だから、その為に自分の実の兄と義姉……お前の両親を暗殺することも躊躇わなかった。肝心のお前を暗殺するのは失敗して、あげくの果てに、自分が返り討ちにされたのは、痛快だったけれどな」
「当人が死しても尚、実の父親への恨みはまだ溶けないか」
実の父の死を嘆くどころか、死に追いやった自分に感謝していると語るツヴェルフの表情は、言葉通り、痛快そうな暗い笑顔だった。その表情は、見る者が見れば痛々しいのだろう。ヒユウは、実の息子にまでこう言われてしまう人間の人生はなんと虚しいものだと、客観的な感想を抱いた。口をついて出た言葉も、客観的なものだった。自分が死に追いやった人間にそんな感想を述べることに、酷く違和感を感じながら。
見ると、いつもの飄々とした雰囲気からは程遠く、暗い笑顔すら抜け落ちた無表情の彼がいた。
「……血の繋がりなんて、関係ない。そんなものは、俺にとっては幻想だ」
「……確かにお前の父親は強欲だった。野心を多く持った、まさに典型的な貴族だったさ。わかりやすいほどに、地位と名誉と金を欲していた。だが、強欲はまだいい。何を欲しているのか明確なのは、私にとってはわかりやすくていい。何より、扱いやすいしな。一番、厄介なのは、何も欲していない人間だ。何かを欲しているふりして、何も欲していない人間ほど、面倒な存在はいない。何にも執着していないから、身軽で、大胆だ。何でもできる、しようとする、そして破壊衝動に身を灼かれる。過ぎた欲望は人間を狂わせるが、それがなくとも人間は狂う」
「……誰のことを言っている?」
それには無言で返されてしまい、答えは望めないと悟ったツヴェルフは内心で「まわりくどい奴……」と愚痴っていた。しかしすぐに何かに思い至ったのか、表情はいつも以上に揶揄の含まれたものに取って変わって。
にやにや、と表現するに相応しい笑顔のまま、ヒユウを見た。
「しっかしなぁ……あの事件が起こるまではお前は、随分と今と違ったらしいじゃねぇか」
「どこがだ」
あの事件、というのは文脈から察するに、両親の暗殺の件か。
ツヴェルフの好奇心に満ちた表情から、碌な事を言われないとわかっていたくせについ返答してしまった自分をヒユウは後悔した。
「フィリアに聞いたことがあるんだが。お前の笑顔はまるでお日様のようだった、とな。それがまあ、こんな嫌味皮肉たっぷりの、くそ生意気な男になっちまいやがって。当時のフィリアが見たら、怖がって泣くんじゃねぇか」
「……余計なお世話だ」
ヒユウは嫌な話題を出されたと眉間に皺を寄せながら、椅子の背にかけられた上着を手にとった。そしてそのまま部屋を出てどこかへ行こうとしたので、ツヴェルフは慌てて声をかけた。
「おい、どこへ行くんだよ」
「……いつもの、姫君のご機嫌伺いだ。お前も行きたいのか?」
肩越しに振り返ったヒユウに、ツヴェルフは憮然として「……せいぜいお前一人で楽しんでこい」と返した。