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黄昏人  作者: はるハル
Lost Sheep
14/93

13


 一方、その頃。

 帝国軍本部の、奥に設けられた一室。

 ここは帝国軍全てを掌握している男――ゼノン・サティス・グローリーの執務室であり、部屋の主である彼は黙々と、窓際の執務机で次々とやってくる膨大な書類を捌いていた。

 こんこんこん、と扉を叩く音が響く。書類に目を通しながら誰何すると、扉の向こうから事務的な男の声が返ってきた。


「帝国軍魔法技術研究部の最高責任者、ノエルです」


 「入れ」というゼノンの言葉に従って、一人の男が扉を開けた。

 顎先に沿って切り揃えられた深緑の髪はきっちりと真中で分けられて、見るからに顔色の悪い男。丸い眼鏡の奥には細めの瞳が覗き、皺一つ寄っていない白衣も手伝っていかにも神経質そうな印象を周囲に齎していた。


「相変わらず、研究施設の野郎は揃いも揃って顔色悪いよなぁ……。もっとちゃんと食って身体でも鍛えたらどうだ? 見ているこっちまで不健康な気分になっちまう」

 部屋の中央、ちょうど執務机を挟んでゼノンの向かい側にあるソファに腰掛けていた男が、ずけずけと言い放った。

 太陽に晒されますます色が抜けた金髪は短く、粗野な口調のせいで、彼が騎士の名門である大貴族とは初見では見抜けないだろう。しかし、鼻筋の通った整った顔をしていて、不屈な精神を体現したかのような均整のとれた逞しい体つきと眼差しを持っている。優雅さの代わりに持ち合わせたその野性的なところが、多くの貴族の娘達に人気だった。


「クラーヴァ殿、いらしてたのですか」

 彼のあけすけに物を言う態度には慣れているのか、ノエルは別段腹を立てることもなくソファにいる男に視線を移した。金髪の男―― クラーヴァはソファに深く腰掛けて足を広げた不遜な恰好のまま、「おうよ」と返す。


「辺境の民族紛争の解決、おめでとうございます。さすがは『聖印騎士団』を率いる将軍ですね。見事な手腕だったそうで」

「……なんだかお前に賞賛されても含みがあるみたいで、素直に喜べねぇな」

 僅かに口の端を上げたノエルにクラーヴァは露骨に眉を顰めてみせた。

「言いますね。僕とて凄いと思ったことを素直に褒め称えることはしますよ」

「ああ、悪かったよ。それより、報告があるんだろ? 俺まで呼び出して、一体何だ。こっちは夜明けに帝都入りしたばっかりでまともに寝ちゃいねーんだよ。これから聖祭の最終日の“龍託”に向けて警備の見直しもしなくちゃなんねーし」

 右横からゼノンの視線を感じて、クラーヴァは無駄話から本題へとっとと入ろうと思った。しかし、ついつい愚痴めいた口調になってしまうのは睡眠不足だからだろうか。眠気覚ましの為に紅茶をぐい、と飲み干した。

「そういえば、一昨日に大神殿に賊が侵入したようですね」

「……正しくは、侵入しかけた、だ。おそらく、エルカイル教会か帝国に反体制を掲げる組織の者だろう。祭りの賑わいに乗じて取り逃がしてしまったせいで今も調査中だがな」

 ゼノンは溜息を吐いて口を挟んだ。いつものことながら、クラーヴァがいると話は脱線してしまうな、と思いながら。

 ノエルはそれに大した興味も動かされなかったのか無表情のまま、広い室内にくまなく視線を散らした。

「……そうですか、それにしても帝国軍を支える三雄をお呼びしたつもりなのですが」

「ヒユウは遅れるってよ。後で伝えとくから先に報告してくれや」

 とりあえず俺は一眠りしてーんだよ、とクラーヴァは強く促した。ゼノンを見ると、彼も賛同するように頷いている。ノエルは彼の方に身体を向けて、背筋を伸ばして口を開いた。



「『召喚士』の低下率がここ最近、顕著に表れはじめています」


「へぇ、そうかいそうかい」 

 どこか重たいノエルの物言いをクラーヴァは限りなく冷めた一言で一刀両断した。さすがにその一言には気を悪くしたのか、ノエルはクラーヴァに鋭い一瞥を投げる。微かに非難めいたものも混じっていた。

「……物凄く他人事ですね」

「俺は『召喚士』でねーからな。悪いが、魔法とかさっぱりわかんねーし、興味もねえし、正直言うと奴らが大嫌いだ。だから逆に減ってくれた方が嬉しいね。まあ客観的にいうとこの国は『召喚士』に頼っているから、やばいんだろうがな」

 帝国だけではない。この世界の戦争の勝敗は、『召喚士』の質で決まるといっても過言ではなかった。一騎当千ともいわれる彼らの力無くして、帝国が大陸を支配し、君臨することは不可能なのである。

 しかし、“聖印騎士団”を率いる彼は『召喚士』ではない。剣や槍の扱いに長けた、騎士のトップである。だから、『召喚士』についてはよく知らない。そもそも召喚とはどのような仕組みになっているのかさえ、彼は理解していなかった。面倒なのでしようとも思わなかった。


「原因はなんだ」

「まだ不明です。しかしこのままですと、軍事力の低下が懸念されます」

 ノエルの答えにゼノンは考え込むように、顎先に手を添えたまま黙った。

 現在の情勢で軍部の力が低下するというのは危険なことであった。今の軍部の力はあらゆる抑止力となっていて、水面下で蠢く様々な存在を底に抑えつけていることが出来ているのである。このまま軍事力が低下すれば、力の拮抗が崩れる。力の拮抗が崩れるということは、今の冷戦状態が解けるということに繋がってしまう。それだけは食い止めねばならない。

 かつての暗黒時代を繰り返さない為には ―――


「軍事力低下うんぬんが問題なら、それ以外の育成に力をいれりゃいーじゃねーか。そもそもあんな力、反則みたいなもんだ」

「……気持ちはわかりますがね」

 あっけらかんと別の方法を探せば良いと主張するクラーヴァにノエルは苦笑した。

 彼が召喚士というものに良い感情をもっていないことは知っていた。確かに普通の人間にとって召喚士とは脅威にしかならない存在である。しかし、だからこそ戦争の勝敗に強く影響し、軍の主力となりうるのである。そう簡単に代わりの力を育成できるものなら苦労はしない。


「とくに“黒印魔法騎士団”の連中は、なんだありゃ、化け物か? 資格が上級召喚士であると同時に、正騎士級の実力なんてよ」

 帝国軍の要である“黒印魔法騎士団”は、騎士であると同時に『召喚士』であった。故に騎士団名に『魔法』という単語が入っているのである。

 ただでさえ、『召喚士』というのは帝都にある学術院から年に数十人(場合によってはゼロの例もある)しか成就しないという、難関中の難関の資格なのである。その中でも上級、中級、初級に分けられる。これは大半が『召喚士』の操る『召喚獣』の質によって決まるのだが、その中でも上級召喚士というのは、細かい規定があるのだが、わかりやすくいうとたった一人で一つの連隊(数百人の規模)を一夜で壊滅させることが出来るレベルである。

 その上、剣や槍に長けた正騎士級の実力を身につけなければならないという“黒印魔法騎士団”というのは、まさに筆舌し難いほどの強さだった。見る目も扱いも明らかに他の軍団とは別格であり、帝国民の尊敬と信頼も厚い。


「クラーヴァ殿は反魔法主義者()《アンチ・ツァオベラスト》ですか」

「あ? おいおい、反魔法主義者ってーと反帝国体制の奴らがよくなる病気のようなもんじゃねーかよ。別に自然の理うんぬんとか、んなこたぁどうでもいい。というかお前、すぐにそうやって他人を枠に当て嵌めるのをやめろよな。俺はな、魔法を嫌ってるわけじゃない。だが、あんな不確かな力には頼りたくねぇ……というか信頼できねぇんだ。こう、あやふやというか、“契約”っつーのが虫唾が走る言葉っつうか」

 それを嫌いというのでは……とノエルは思ったが、突っ込むとやかましく反論してくるのは目に見えていたので、内心で思うだけにしておいた。代わりに思ったことを口にする。


「……召喚魔法は、厳密に言えば、魔法ではありません」

「あ? 何言ってんだ」

 あれを魔法と呼ばなきゃ、何を魔法と呼ぶんだよ、とクラーヴァは不審そうに言った。そもそも『召喚魔法』と後ろに魔法という文字がついているじゃねーか、研究室に篭もりっ放しで疲れてんのか? と失礼なことを言いたい放題である。

 直情径行で思ったことがそのまま口に出るクラーヴァに対して、ノエルも我が道を突っ走るタイプであり、自分に不要な言葉は都合よく受け流してしまえるタイプのようだった。眼鏡の縁を人差し指でくいと上げると、淡々と話を続ける。

「いいえ、その前にまず魔法がどういうものかを定義しなければなりませんね」

「なんだ、その定義って」

「まず、魔法というのは、天災、治癒等の超常現象を個の意思によって起こすことを指すとします。これは一般的に捉えている魔法の定義で、クラーヴァ殿が抱く魔法のイメージと同じでしょう。火や水を起こしたり、雷を発生させたり、爆発を起こしたり……」

「ああ、まあそうだな」

 魔法と聞くと、真っ先に浮かぶのはそういった現象だ。火元もないのに突然燃えたり、水が出てきたり。どうやってあんなものを起こすことが出来るのか。原因がわからない、未知なものは全て『魔法』に直結させていた。クラーヴァだけではなく、こうした魔法に対するイメージが世間一般の常識である -―― 『召喚士』やそれに携わる彼らを除いて。


「ですが、そう定義すると、召喚魔法は魔法には当たりません。人間に出来るのは、精霊といった『召喚獣』を現世に再構成することだけだからです」

「再構成?」

 『召喚獣』とは、召喚士が契約を交わした精霊のことを指し示す。それぐらいは知っていたが、訳のわからない単語にクラーヴァは眉を顰めた。


「全の領域 ―― 全ての個の共通する場所である無意識の領域に直接働きかけて、通常時であるならば第四元素以下のみしか知覚できない脳を活性化させる。それによってそれ以上の元素を知覚することが可能となり、高位元素の塊である彼らと接触することが可能になるわけです。これが召喚の第一歩」


「……意味がわからん」

 仮にも上流階級出身であり、士官学校も出たクラーヴァの頭が悪いわけではない。ノエルの説明に端から素人に理解させようとする気が無いというのが問題なのである。彼は、頭を抱えているクラーヴァの手助けをする気などなく、それ以上の説明を止めた。


「とにかく、召喚魔法というのは、魔法という超常現象を起こす存在――召喚獣を呼び出すことを指しているのであり、魔法ではない。人間には魔法は使えないのですよ」


「……ふーん、まあでもよ、そいつらと契約することによって魔法を使うことが出来るんだろ? じゃあ結局のところ、魔法を使えると一緒じゃねぇか。そんな難しく考えなくても」

 どうでもいいじゃねぇか、とクラーヴァは付け加える。自分は召喚士ではない。彼らが魔法を使えようが使えまいがどうだっていいことなのである。ノエルの理論に途中で考えるのが面倒臭くなった彼は投げやりにそう答えた。


「……いいえ」


 ノエルは首を横に振って、クラーヴァの言葉を否定した。


「いいえ、とても大切なことですよ。……我々が魔法を使えないということは、とても大切な現実なのです。我々人間には魔法を扱えない。様々な精神・身体の鍛練を繰り返したといえど、出来るのは真の“魔法”を扱える存在 ―― 召喚獣 ―― と契約してやっと……未知の力を起こすことが出来るのです。間接的にしか、人間は魔法を使えない……」


 これだけは譲れないのか、眼鏡の奥の黒の瞳はますます鋭く細められている。どこか思いつめたその様子をクラーヴァは黙って凝視していた。


「……お前は不満なのか? お前は召喚士じゃない。どっちにしろ魔法を使えねーってのに」

「不満……というより、不可解なのですよ。何故、人間には使えないのだろう、とね。僕自身が使えようが使えまいがそんなことはどうだっていいんです」

「ふ~ん……」

(そんなもんなのかねぇ……理屈好きな人間の考えは心底わかんねぇ……)

 ソファに深く身を沈めると眠気がやってくるので、クラーヴァは前屈みになって手を組んだ。まだ何やら考え込んでいるノエルを見上げる。


「俺は、人間が魔法を使えなくて、当たり前だと思うけどな。そもそも『召喚士』自体が胡散くせぇよ。どんな召喚獣かわかるまで迂闊に手も出せねーし、ヒユウの奴のを見てからは、より一層そう思うようになったよ。あんなのは、反則としか思えねぇ……そう思わなきゃやってらんねぇ」

 どこか不貞腐れたようにクラーヴァは頬杖を突いて悪態をつきだした。

「そもそも“契約”っつーのが気にいらねーよ。何が選ばれた者しか使えない、だぁ? そうやってお前ら周囲が召喚士を大層に扱うから、鼻持ちならねぇ選民思想の人間が増えやがるんだよ」

「ですが、彼らが一騎当千の力を持っているのは事実です。……その前に、あなたの上官であるゼノン殿も、同僚であるヒユウ殿も、その召喚士ですが」

「ふん、俺はな、いかにも帝国は俺たちが守ってますって傲慢な態度を取る奴が嫌いなんだ。そういう奴が召喚士にとくに多いからな。それに召喚魔法なんて、いまだ解明されていないあやふやでわけわかんねー力じゃねぇか。契約して得た力を自分のものだと思い込んで、酔って、制御に失敗すれば精神崩壊という副作用付き。ま、一種の麻薬みてーなもんだな」

「麻薬……言い得て妙というところですね。

 召喚魔法で大切なのは、認められること、許されること。認めぬ者に名を呼ばれることを酷く嫌悪する。契約の折に、召喚獣は術者に媒介を渡します。媒介……すなわち己の名を呼ぶことを許すこと。召喚獣は自らの意思で主人を決めます。たとえ『召喚の第一歩』に成功しても『契約』を失敗すれば、意味が無い。契約に関しては相性であったり、本人の器量の問題です。決めた相手以外には決して従わぬ気位の高いものが召喚獣には多いようです。召喚獣を従える為には、とてつもない障害を乗り越えねば到達できない。だからこそ、術士の選民意識は高まるのでしょう」


「ちっ、ますます胡散くせーな。『召喚士』になる奴の気が知れねーわ」

 『召喚士』になると本人が存命する限り―― 一代のみではあるが一族の繁栄を約束される。名誉と地位が与えられ、人々から賞賛と尊敬の眼差しを受ける。何が何でもその資格を得たいという者は五万といるというのに。

 妬みからではなく、心の底からそう思っているクラーヴァにノエルは苦笑した。


「やれやれ……」

 理論派と直感派、水と火のような反対の性質を持つ二人ではあるが、真逆であるが故の意見の衝突などは度々起こるものの相性的には悪くないらしい。二人の噛み合っているのかわからない会話を聞きながら、ゼノンはそう分析していた。クラーヴァが部屋から去った後も、本当に個性的な輩ばかりで疲れるよ、と独りごちていた。


「……どうやらクラーヴァ殿も、ヒユウ殿のあの龍の力には、不服なようですね」

 部屋に残ったノエルが、ふと思い出したように呟いて、同意を求めるようにゼノンを見た。ゼノンはというと、複雑そうに口元を歪めて首を横に振る。

「……お前とは、台詞に隠された感情がまるで違う。あいつのは、感情的なようでいて、実は冷静だ。自然と、受け入れている。先ほどのは単なる愚痴だろう……ヒユウを己のライバルと認めた上でのな」

 静寂が落ち、ノエルは静かに、膝に置かれた手の甲に視線を落とした。


「……僕は、恐ろしい。貴方も、感じている筈です。確かに帝国軍部の権力は貴方による軍革を発端に、ヒユウ殿の龍召喚によってこれ以上ないくらいに盛り上がっている……それはいい。しかし、僕はどうしても、あの龍の力だけは我慢がならない……本来あれはあってはいけない力です」

「勿論、重々承知しているよ、ノエル。お前が何に気を病み、恐れているのか……お前は私が、そこまで頭が回らない人間だと思っておるのかね?」

「……いいえ、まさか」

 ノエルがかぶりを振ると、ゼノンは満足そうに頷いた。

「ならば、良いだろう。お前の心配するようなことにはならん。……私が、させん」









「そういや、確か人間でノエル曰く真の魔法とやらを使えるっていう奴がいると聞いたことがあったんだが……。あーっ、思い出せねぇや。なんだっけ、ギルベルト」

 廊下を歩きながら、自分の副官 ――- すなわち“聖印騎士団”副官である -―― ギルベルトに向かって思いついたようにクラーヴァは振り返った。


「……『黄昏人(たそがれびと』のことですか。言っておきますが、人間ではありません。彼らは亜種です」


 歩きながら書類を整えていた黒髪碧眼の副官・ギルベルトは、諌めるような声で上官の言葉を訂正した。クラーヴァは蚊を追い払うような面倒そうな顔で手をひらひらと振る。

「そーそれだ。見かけは人間なんだから、いーじゃねーか。いちいち細かく突っ込むな」

「クラーヴァ様……『黄昏人』と人間が同種などとは、間違っても公言しないで下さいよ。仮にも帝国軍の最高幹部ともあろう方が。方々から一体どれだけの非難がくるか……」

 考えただけでも頭痛がする、と若き副官はこめかみを押さえた。ただでさえ生真面目な彼はいつも大胆不敵な上官に振り回されていた。そんな気も知らないでクラーヴァは豪胆に笑う。ギルベルトの仕草を大袈裟だと取ったらしい。


「まあ、過去に帝国に歯向かって逆に狩られちまった絶滅種なんだからいーじゃねぇか」

「……完全に絶滅してはいませんよ。見つかれば即座に処刑や終身刑の身ではありますが」

 無駄だとは思うものの、間違いを見つけたら即座に訂正しないと気が済まないギルベルトの声には、覇気というものがなかった。


「お前は本当に細かい奴だな。その内、禿げるぞ」


 どこまでも大雑把な上官に、彼は今度こそ頭痛が発生したような気がした。









◇  ◇  ◇






 少女を皇宮に戻ったのを見届けたヒユウは帝国軍本部施設へと足を向ける。しかし、すぐに足を止めたい衝動に駆られたかのように、眉間に皺が寄せられた。


「あら、ヒユウじゃない」

「……ケイトか」


 ヒユウの気を知ってか知らずか、前方にいた女性 ――- ケイトはかつかつと靴音を鳴らしてやってくる。紫紺色の髪と若草の瞳を持つその女性は菫の花のような気品と凛とした美しさを持っていた。髪を高い位置で団子にしてすっきりと纏め、ブラウスの上に厚手の生地でできた緋色の上着、その胸元には帝国軍所属を意味する龍の紋章が施されている。脚衣の上から膝丈の長軍靴を履き、腰には剣を下げている。一般的な騎士の正装姿だ。彼女は帝国軍でも貴重な女性騎士の一人だった。

 ヒユウの隣に並び立つと、背の高い男を見上げる。


「なあに、こんなに城に留まるなんて珍しいわね。いつも、城内での噂に辟易してすぐに出ていってしまう貴方が。そのおかげで城内の貴族の娘や女官の中で格好の噂の的となっているわよ」

「相変わらず、暇なことだな」

 面倒な相手が来た、というような視線を向けられても、ケイトは気にせずに颯爽と歩くヒユウの隣を食いついた。彼女はいつもこうだ。元々好奇心旺盛な女性のようだが、ヒユウに対しては殊更それを発揮しているようで、彼は随分と辟易していた。

「それだけ、あなたに関心があるってことなのよ。ふふ、新しい噂は本当かしら?」

「噂?」

「少女を、しかも平民の娘を懸想されているんですってね」

「懸想? 私がだと?」

 好奇心いっぱいに弾ませた声に、ヒユウは嘲るように口の端を歪めて、否定した。

「……あら、違ったかしら。でもまあ嘘臭いわよね。あと平民の娘につきまとわれてるっていう噂も聞いたのだけれど、そっちはどうなの? とにかく女の影が出来たとか言って、すごい騒がれてるわよ」

「……」

 どうやら噂は色んなしっぽをつけて広まっているようでいちいち返事をする価値もないと判断したのか、ヒユウは次々と不躾な質問をしてくるケイトを見事に無視していた。しかし相手も慣れているのかそんな態度にめげることなく、己の好奇心を素直にぶつけ続けている。近寄りがたい雰囲気を醸し出しているヒユウにこれほどずけずけ踏み込める彼女はとても貴重だった。そういった意味で女性騎士という点を除いても、ケイトは周りから一目置かれていた。

「庇ってあげたり、気にかけたりしているらしいじゃない。女性に冷たい貴方が、珍しいこと」

 揶揄するようにケイトが言うと、ヒユウは眉を潜めて見下ろしてきた。まるで、心外だなと訴えるように。

「あら、だって確かに貴方って表面上ではとても紳士だけれどね。特に貴族のお姫様達には。けれど、それは全て計算尽くでしょう。自分の目的に添うもの……利益に繋がる相手しか選ばないじゃない」

 温室育ちのお姫様の目は騙せても私の目は騙せないわよ、とケイトは挑戦的な目でヒユウを見返した。権力に媚びるような男ではないとわかっていたが、彼の紳士的な態度も穏やかな微笑もあまりに完璧すぎて。それが全て計算されたものだとケイトは気付いていた。彼は自分の微笑が強力な武器となることを十二分に知っているのだ。だから、計算だと気付いているケイトには決して笑顔を向けない。向ける必要もないからだ。

 そして、いつもは貴族の高貴な姫君としか噂に上らない彼が、女官……しかも平民の娘とだなんて、初めてのことである。何の目的があるというのだろう、ケイトは疑問に思った。


「それにしても、あなたと付き合う女性は気苦労が耐えないわよね。こんな、噂の耐えない男なんだもの。……そういえば、これをかの姫君達が聞いたらどう思うかしら? とくに妹君の方は、倒れてしまうかもしれないわね。深窓のお姫様ですもの、ふふっ」

「随分と楽しそうだな」

 呆れのこもった低い声だったが、口を開いてくれたことにケイトは素直に嬉しく思った。

 愛想というものをどこかに置き忘れたような彼の声は突き放すように冷たい。ケイトは慣れていたので今更びくついたりはしないが、普通の娘がこれを聞けば怯えて逃げてしまうだろうなと思った。

「あらぁ、だってよく言うじゃない。他人の絡まりあった恋路ほど見てて楽しい演目はないって」

「性質の悪い趣味だ」

「知ってるわ。それよりあなたの女性の趣味こそ知りたいわね」

「他人の不躾な好奇心を満たしてやるほど私も親切ではない。……そんなことより、お前が知りたいのは別の人間のそれだろう?」

「な、何を……」

 思いも寄らぬ反撃に、ケイトは声が上ずった。いつもだったら綺麗さっぱり聞こえないふりで無視するか始終呆れたような顔で無言を貫くかなので、こういった切り返しをしてくるとは夢にも思わなかった。ヒユウは横目でたじろいだ彼女を見て、ふっと口元を歪ませる。


「クラーヴァは剣と結婚したような、鈍感な男だからな。はっきり言わないと伝わらんぞ」


「な!? 何言ってるのかしら!」


 ヒユウの声を掻き消すようにケイトは叫んだ。それを見たヒユウは、からかうかのように薄く笑う。明らかにケイトを小馬鹿にしたような表情だった。

「……意外と素直なようだな。顔が赤いぞ、第三騎士団副官殿」

「……~~っ!」

 耳朶まで真っ赤にして言葉も出ないケイトを尻目に、ヒユウは外套を翻してそのまま去ってしまった。彼の鳴らす靴音が先程よりもゆったりとした間隔で響く。まるで靴音までもが自分を馬鹿にしているように感じた。人の靴音がこれほど耳障りに感じたことはない。廊下の真中で取り残されたケイトはわなわなと拳を震わせた。


―― 弱みを握って楽しもうとしたのに逆に自分の弱みを握られたあげく、盛大な厭味を残していかれたなんて。



「二つも年下のくせに、本当に生意気……っ」



 負け犬の遠吠えとわかっていたが、それでも叫ばずにはいられなかった。





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