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黄昏人  作者: はるハル
Lost Sheep
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13/93

12


 聖祭の真っ最中である帝都の生き生きとした雑踏の中をフィリアは歩いていた。昨日のように使いで城を出てきたのではない。少女にしては珍しく、無断で仕事を抜け出して出てきてしまったのだ。


 勿論、生真面目で責任感の強い彼女が自らさぼろうと思ったわけではない。いつも通り、彼女は仕事をしていた。書簡を届け終わった後に渡り廊下を歩いていて、その時に視界に城門が入ってきて。その先の人ごみの中に、懐かしい人影を見たと思った瞬間、彼女は駆け出していた。城門に見張りはいたが、フィリアの格好から見て使いだと思ったのだろう。止められることはなかった。幸運にも、女官長や他の女官にも見咎められることはなかった。


「……はぁ……っ、はあっ」

 全速力で飛び出してきて、すぐに呼吸が乱れてきた。運動不足だと思いながらも、足を止めることなど出来なかった。

「……ぁ……って、待って……!」

 足が縺れそうだ。喉の奥が引き攣る。口の中が渇いて、声が掠れてしまった。目の奥がつんとなって、何か熱いものがこみ上げてくるのがわかった。下唇を噛んでそれを必死に抑える。

「待って! あ、きゃぁ……っ!」

 どん、とぶつかって、石畳の上でフィリアは転んでしまった。砂埃が舞い上がる。反射的に地面についた掌と膝に鋭い熱が走った。

「ってぇーな! あぶねえだろうが!」

「ごめんなさい!」

 フィリアは上半身を起こして、すぐに頭を下げて謝る。少女の必死な形相と声に圧倒されたのか、それとも急ぎの用があるのか男は舌打ちだけ残して足早に去っていった。すぐに起き上がって、スカートについた砂を払う。膝をすりむいてしまったのか、少し血が滲んでいたが全く気にならなかった。気にしている余裕などなかった。

 すぐに顔を上げて、辺りを見渡す。いつのまにか大通りに入ってしまい、フィリアの視界は半分以上が人だ。

「あ……」

―― 見失ってしまった……。

 フィリアは再び、胸の奥が苦しくなった。急激に色んな感情が込み上げてきて、どうしたらいいのかわからなかった。小さな子供なら素直に泣き叫んでいただろう。フィリアも誰もいなかったら正直にそうしたかったのだが、寸でのところでぐっと我慢した。

 女官の制服姿のまま出てきてしまったおかげで視線が集まる。フィリアはそれを避けるようにして、大通りから逸れた脇道へと足を踏み入れた。大通りと比べると極端に少ないが、それでも普通の街よりも多く出店が立ち並んでいる。しかし、それに目もくれず、フィリアは再び石畳を蹴って走り出した。

 目的地などわからない。どこに向かっているのかもわからない。ただ立ち止まってしまったらもう駄目だ、という恐怖にも似た焦燥が背後から襲ってくるような気がしたのだ。探すというより、逃げているという方が正しいのかもしれない。


「……ハデスさ……っ」

 城の前の通りの人ごみの中に、彼を見たような気がした。

「……ハデス様!!」

 そんなわけがない。彼なわけがない。あれは、彼と同じ司祭の服装で、同じくらいの背格好で、同じ白髪と白い髭だっただけで、全くの別人だ。そうわかっていても、フィリアは自分が作った幻影を信じたかった。

「ハデス様、どこ……っ? どこにいるのですか……!?」

 嗚咽混じりの声。唇が震えている。呼んでも届くわけがないとわかっていたけれど。

 流れるような周りの景色など一欠けらも目に入ってはこない。フィリアはひたすらに走っていた。端から見れば、誰もが彼女を迷子だと思っただろう。親とはぐれて必死に助けを求める幼子のようにも見えた。

 混乱している。そう、自分は混乱しているのだ。一部分で冷静な自分が客観的に今の状況を判断していた。そして、その一部分だけでは恐慌状態に陥った自分を制御することなど不可能だとも判断していた。

 とりあえず、このままでは城へは帰れない。というより、帰りたくなかった。このままハデス司祭を探しに行きたい衝動に駆られた。帝都の地理や事情に詳しくない自分ががむしゃらに探したところで無駄だとも思ったがもう待つのは嫌だった。

―― 待つのがどれほど辛くて苦しいか。

 彼がいないと途端に自分の心は不安定になる。記憶が無くて、自分の過去が無くて、彼しかフィリアは知らないのだ。時折、不安で眠れない夜が訪れても、彼が「大丈夫」と優しく背中を擦ってくれれば不思議と眠りにつくことができた。少女にとって唯一の安らぎであり、精神安定薬のようなものだった。

 ハデス一人いないだけで、こんなに弱くなってしまうなんて―――自分はどれだけ脆いのだろうか。己の不安定さをフィリアは嘆いた。



 さすがに長時間全速力は体力的に無理だったので、自然と速度は落ちる。肩で息をしながら、フィリアは奥へと進んでいった。

 どうか、私をハデス様のところへ……。

 心の中で必死にお祈りをする。会いたい。何でもするから、彼に会いたかった。無事を確かめたかった。

 祈りに夢中になっていたのか、フィリアは今自分がどこにいるのか全く把握していなかった。大通りから随分離れたところだとはわかる。裏道のようなところで、幾分太陽の差し込む範囲が狭く、薄暗い。なんだか湿気も上がったような気がするほど、じめじめとしたものを感じた。あんなにあった出店も見かけなくなった。白亜の建物が多かったのに、赤茶に綻びた壁が多く、石畳も欠けたり崩れたりして下の土が見えている。道も真っ直ぐではなく、曲がりくねったようになってきた。微かに異臭が混じって、決して快いものでないそれにフィリアは眉を顰めた。そこら中にごみが積もっていて、おそらくそれが原因なのだろう。華やかで経済の中心地である帝都にもこんな薄汚れた場所があるなんて、と驚いた。


 無我夢中で走ったので帰り道など当然わからない。フィリアはどうしようかと思ったが、城に戻る気などもう殆ど無くて、とりあえず足早に歩きつづけた。少し先に曲がり角があってそこへ入ろうとしたとき、唐突に腕を掴まれ背後に引っ張られた。

「わっ」

 予期していなかった為に、がくんと後ろに体勢が崩れてしまう。しかしすぐに、とんと頭が何かにぶつかった。振り向くと、厚めの漆黒の生地に金糸で施された緻密な刺繍が目に入った。

 諌めるような低い声が、上から降ってくる。


「ここから先はお前が入れるような場所ではない」

「……っ!?」


 雪のように輝く髪と蒼穹の瞳が少女を見下ろしていた。いつもの黒い軍服を着てその上に外套を羽織っている。騎士姿の彼の瞳は怪訝そうに細められていた。

―― どうしてこんなところにいる、と問い詰めるかのように。

 彼こそ、どうしてこんな場所にいるのかと疑問に思われるのだが、今のフィリアにそんなことを考える余裕はなかった。

「ハデス様はっ? ハデス様は何処にいるのですか……!」

 軍服を掴んで、逆に問い詰めるように叫んだ。フィリアが平静ではないと男は気付いたのだろう、冷静な、ともすれば冷たく感じるほどの響きで答える。

「司祭の行方はまだわかっていない」

「嘘! 本当はわかっているんでしょう!? 隠さないで教えて下さい!ハデス様は、ハデス様は」

 ―― 彼は、もう……。

「……落ち着け、フィリア」

「お願い、ハデス様に会わせて……っ!」

「フィリア!」

 向かい合うように、両肩を強く掴む。濁流に呑まれてしまっただろう少女の意識を引き戻す為に、語調を荒げて名前を呼んだ。

 華奢な肩がびくりと揺れる。それを見下ろす青の双眸には少しの苛立ちの色が混じっていた。

「ハデス司祭は今捜索中だ。だが、まだ生きている。死体も見つからず、行方を隠されているのはそういうことだ」

「……っ……」

 死体という単語にフィリアは息を飲み込んだ。強くはっきりした口調。確信したように告げられて、不安に揺れながら、見上げる。

「私を信じろ、必ずハデス司祭を見つける」

 真っ直ぐに射抜かれて、フィリアは瞬きすることを忘れてしまった。

 先程までの奔流が嘘のように静まり返っている。猛々しい嵐が去って、凪のように穏やかになった心にその言葉がゆっくりと染み込んできた。同時に、肩を掴む強い力に小さく身じろぎして、それに気付いたヒユウがそっと手を放した。


「……落ち着いたか」

「……はい、……申し訳ありません……」


 どうしよう。今すぐここから逃げ出したい気分だ。穴があったら入りたい。

 フィリアは先程の自分の言動を振り返って、顔から火が出るほど真っ赤になった。よりにもよって、とんでもない相手にとんでもないことを叫んでしまった。自分の取り乱した姿を思い出して、今すぐ消えたいと思った。無かったことにしたい。とても目が合わせられなくて、俯いて謝った。

 相変わらずヒユウの口調は無感情で、何を考えているのか掴めない。でも、内心呆れているんだろうと思って、フィリアはこのまま回れ右をして逃げたくなった。

 ……私は逃げてばっかりだ……。

 胸中で自嘲する。

 城に戻る気になれなかったのも、あそこにいると四六時中、逃げている自分を感じなければならないのが苦痛だったからだ。街に出ても、行くところなんてなくてただひたすら走るしかなかった。


「本当に申し訳ありませんでした……」

 またぐるぐると回り出した思考の渦の底から、じわりと熱いものが込み上げる。それをこのままずっと堪える自信がない。情けないと思ったが、目の前の人物に頭を下げて逃げようとした。しかしすぐにまた腕を掴まれて、その場に引き留められてしまう。

 ヒユウは呆れたような溜息を吐いた。全然、落ち着いてないな、とぼやいて。

「だから、そこから先は入るなと言っただろう。貧民街に女一人で入るなんて自殺でもする気か」

 ぴたり、とフィリアの思考が止まった。

「……貧民街?」

「そうだ、この辺りも既に含まれているがな」

 さあっと血の気が引くのを感じた。

 貧民街といえば、平民の中でも低所得で日々の暮らしにさえ困窮するような人から、犯罪者といった表の世界では生きられない者達の住む闇の世界ではないか。貧困と犯罪の巣窟だと聞く。ハデス司祭からも「決して足を踏み入れるな」と散々言い含められている場所だ。

 既にこの場所もそうだと言われて、ようやくフィリアは今の自分の状態の危うさを自覚した。今まで自分のことで一杯一杯で周りに意識を移すことが出来なかったのだが、確かに陰気な空気が漂っていていつ自分が襲われても文句は言えない通りだった。よく途中で襲われなかったものだと、フィリアは己の幸運に感謝すると同時に慄いた。そして、今頃になって不思議に思ったことを口にする。

「あ、あの……どうして、ヒユウ様はこんなところに」

 こんな入り組んだ路地裏、しかも貧民街に何の用があるのだろう。もしかして、自分を追ってきてくれたのだろうか。フィリアは冷や汗を垂らしながら男の様子を窺った。

「……城に戻る途中で、女官の制服を来た娘が路地裏に入っていくのを見た。不思議に思って追いかけると、どんどん貧民街に入っていくお前がいた」

 淡々と事実のみを述べられて、心の中で悲鳴を上げた。

「本当にごめんなさい……」

 出来るなら、耳を塞ぎたい。今日何度目になるかわからない謝罪に溜息を吐いた。己の不甲斐なさを改めて突きつけられた気分だ。

「別に大したことではない。とにかく城に戻るぞ」

「は、はい」

 身を翻して歩き出したヒユウに遅れないように、小走りでついていった。さっきまであんなにも城には戻りたくないと思っていたのに、驚くほど素直に返事をしていた。

 自分は単純なのだろうか。彼に城に戻るぞ、と言われて嬉しかった。彼にとっては何気ない一言でも、フィリアにはまだあの城にいてもいいと許されたように感じたから。

 日が沈みかけているのか、赤茶の壁がますます濃く染まる。来た時より周辺を観察する余裕のできたフィリアはちらちらと視線を散らしながら歩いていた。


「あ……」

―― そういえば。どうして彼は自分の名前を知っていたのだろう。

 尋ねようかと思ったが、女官になった初日に迷子になってマライアに叱られそうになったことを思い出した。マライアが大声で自分の名前を呼んだから、おそらくそれで覚えていたのだろう。

「あの、ありがとうございます。ヒユウ様」

 前を歩くヒユウからは見えないというのにフィリアはわざわざぺこりと頭を下げた。肩越しにヒユウが視線を寄越す。

「今日のこともそうですけれど。つい先日も、迷子になった私を送って下さって……ヒユウ様が庇って下さったおかげでマライア様に叱られずに済みました」

 なんだか、こうしてみると彼にはみっともないところばかりを見られている気がする。気恥ずかしい思いだったが、そんなことよりまず礼を言わねばと思っていたので、今日は最後の最後で僥倖だった。言いたかった一言を言えてフィリアはこの日初めての笑みを浮かべる。

 ヒユウはそれには何も応えず、それきり会話が途切れてしまった二人は黙々と歩き続けた。




 まるで夜行性の生き物のように、日が沈むにつれて裏通りの端々から不穏な気配がぽつぽつと浮かび始める。

 ……誰かが、いる……? 何だかずっと見られているような。

 真っ暗な隙間から少なくない視線を感じて、フィリアはどくどくと心臓が煩く鳴り始めた。

 ねっとりするような、絡みつくような視線。鈍いフィリアでも感じ取れるほどということは相当強いということだ。明らかにこの場に不釣合いな二人を見定めている。少しでも隙を見せれば襲い掛かられそうで、フィリアは緊張した面持ちで足を動かしていた。全身隈なく値踏みされている居心地の悪さを感じながら、どうか何事も起こりませんように、と祈っていた。でもやっぱり、その祈りは天には届かなかったようだ。


「……煩わしい」

「え?」

 ともすれば聞き逃してしまいそうな低い呟きにフィリアはびくりとした。目の前のヒユウが急に立ち止まってしまったのだ。フィリアも立ち止まるしかなかった。

 その時、周りの視線が一段と強く、鋭いものになってフィリアは、「ひえ」と心の中で小さな悲鳴を上げた。

 もしかしてこんな狭い、逃げようのない場所で戦闘が始まるのだろうか。戦闘になったら、自分は役立たずどころか、足を引っ張るだけのお邪魔虫だ。彼もさぞや戦いにくいに違いないだろう。それより、そもそも自分がこんな場所に迷い込んでしまったのが原因だ。ヒユウは自分のせいで、こんな厄介ごとに巻き込まれてしまったのだ。

 ど、どうしよう。きっと先程の彼の「煩わしい」発言は、自分に対しても含まれているかもしれないと思った。恐々とヒユウを見ると、彼は右奥の路地裏の隙間に向かって睥睨の視線を投げつけている。

 その視線の鋭さに、圧力に、フィリアは慄いた。自分ではない別のものへぶつけられているのはわかっているが、それでも硬直したように足が動かなくなった。彼の青い瞳は、綺麗だけれど、恐ろしい。眸の奥に静かに揺らめく青い炎が、恐怖を感じるほどに美しい。もし、あれを自分に向けられたらどうなるのだろうと思った。この世には、殺気だけで、相手を絶命させることができる恐ろしい人間がいるというが彼もその部類に入るんじゃないかと思った。まるで死神に魅入られてしまったようにヒユウを凝視していると、彼は何事かを呟いた。

 呟いたといっても、それは音にならない音。

 ただ、一点を睨みながら、暗闇の中に身を潜めているだろうその存在に向かって、何か言葉をぶつけたようだった。

 フィリアは読唇術を身につけていないので、彼がなんと言ったかはわからなかった。ただ、彼が何事か言葉を伝えただけで、奇妙なほどに、今まで二人に絡み付いていた視線が忽然と消失したのはわかった。

 煙のように、ふっと。

 フィリアは唖然とした。いつのまにか、元通りの路地裏の雰囲気に戻っている。先程まであんなに殺意とか敵意とか、もっと……言葉に表せないほどのねばっこい悪意に満ちていたというのに。まるで一瞬で別の世界へ移動してしまったかのようだ。

 いつのまにか歩き出していたヒユウは、まだぼんやりと立ちすくんでいるフィリアに焦れたのか、振り返って「行くぞ」と告げた。その声に慌ててフィリアが追いつこうと、小走りになる。

「え……っと、ヒ、ヒユウ様……今の」

 釈然としなくて、つい口にしてしまったが、どう言えばいいのかわからなくてフィリアは言葉に詰まった。ヒユウは振り返りもせずに、淡々と答える。

「おそらく、人買いか強盗の類だろう」

 いや、それは自分でもなんとなくわかっていたんですけどね。その、聞きたいことはそこではなくてですね……。

 フィリアは彼がどのようにして、あれを遠ざけたのかを知りたかったのだ。どのように、というか、一体、犯罪者の巣窟である貧民街の、人買いとか強盗達に向かって、どのような言葉で追い払うことができるのかを、知りたい。

 でも結局、好奇心よりも、恐怖が勝ってしまったので、それ以上聞くのはやめにしたのだった。








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