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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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華頂宮

(19)【華頂宮】

(博経親王)(ひろつねしんのう)(1851~1876)・伏見宮邦家親王・第12王子、

知恩院門跡として「知恩院宮」と呼ばれていた博経親王によって創設された。

宮号は、知恩院の山号「華頂山」に由来する。

当初は博経親王一代限りの宮号であったが、特旨による宮号の継承を経て、明治22年(1889年)、皇室典範の制定とともに宮家としての世襲が認められる。

大正13年(1924年)3月19日、4代博忠王が嗣子を残さず薨去したことにより宮家としては断絶。

大正15年(1926年)12月7日、弟の博信王が臣籍降下し華頂侯爵家を創設。宮家の祭祀を継承した。

▪華頂宮博経親王(かちょうのみや ひろつねしんのう、嘉永4年3月18日(1851年4月19日) - 明治9年(1876年)5月24日は、日本の皇族、海軍軍人。官位は議定会計事務総督、海軍少将。徳川家茂の猶子。伏見宮邦家親王第12王子、母は堀内信子。宮家華頂宮創設者。

幼少時の称号は隆宮。嘉永5年(1852年)に出家。知恩院門跡となり、知恩院を相続。尊秀と号する。万延元年(1860年)に孝明天皇の猶子となり、同日に徳川家茂の猶子となる。万延2年(1861年)に博経の名を賜り、その翌日に親王宣下を受ける。翌月に落飾し、知恩院門跡・尊秀入道親王となる。

慶応4年(1868年)、勅命により復飾し博経親王に復名。翌月に宮家を創設し、宮号を華頂宮とした。宮号は、知恩院の山号「華頂山」にちなんでいる。その後は、和学校御用掛・弾正尹・議定・会計事務総督を歴任。

1870年(明治3年)よりブルックリンに留学。1872年(明治5年)から東隆彦の名でアナポリスの海軍兵学校に入学し、海軍について学んだ[1]。練習艦での訓練中の負傷後に肺病を患い、翌1873年に病気帰国。

帰国後に南部郁子と結婚し、1875年(明治8年)に第一王子の博厚王が誕生。同年、勲一等旭日大綬章に叙せられ、翌1876年(明治9年)に海軍少将となるも、同年5月24日に薨去。25歳没。

▪華頂宮 博厚親王(かちょうのみや ひろあつしんのう、1875年〈明治8年〉1月18日 - 1883年〈明治16年〉2月15日)は、日本の皇族。

華頂宮博経親王第一王子で伏見宮邦家親王の孫。母は伯爵南部利剛の長女郁子。

1876年(明治9年)5月24日の父王博経親王の薨去を受けて、華頂宮の家督を継承する。明治初年に皇族の範囲・賜姓皇族の方針を定めたが、それによると博厚親王は臣籍降下することとなっていたが、明治天皇の意向によって皇族の身分を保った。1883年(明治16年)2月15日付で明治天皇猶子となり親王宣下を受けるが、同日に薨去する。わずか満8歳であった。

親王は幼少であったため継嗣はなく、伏見宮家から博恭王が入り華頂宮を相続する。博恭王はその後、本流である伏見宮を継承するはずであった邦芳王が病弱であったため伏見宮に復籍し、家督を相続、華頂宮は博恭王の第二王子博忠王が継承することとなる。

なお、博厚親王は親王宣下によって親王の身位を授けられた最も若い人物である(親王宣下を受けた人物としては最後から2番目である)。

▪伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう、1875年〈明治8年〉10月16日 - 1946年〈昭和21年〉8月16日)は、日本の皇族、海軍軍人。

ドイツ帝国海軍兵学校・海軍大学校卒業(日本海兵18期相当)。栄典は元帥海軍大将大勲位功一級。伏見宮貞愛親王の第一王子(庶長子)。伏見宮第25代当主。議定官、軍令部総長を務めた。初め名を愛賢王(なるかたおう)といい、華頂宮相続に当たり名を博恭王と改めた。日露戦争では連合艦隊旗艦「三笠」分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う[注釈 1]。艦長や艦隊司令長官を務める等、皇族軍人の中では際立って実戦経験が豊富であった。

伏見軍令部総長宮殿下(ふしみぐんれいぶそうちょうのみやでんか)、伏見元帥宮殿下(ふしみげんすいのみやでんか)などとも呼ばれた。

貞愛親王とその女房の河野千代子との間に第一王子愛賢として生まれた。当時貞愛親王は満17歳であった。庶子であったことから、誕生当初は王の身位も与えられなかった。

公家社会の嫡庶の序を重んじる伝統に加え、一夫一妻制をとる西洋社会の影響から、伏見宮の継嗣の対象からは外された。邦家親王とその正妃親王妃景子との間に生まれた父の貞愛親王や伯父で先代伏見宮の貞教親王も、庶子であった数人の兄たちを飛ばして伏見宮家を継承している。当時の太政官布告によれば将来的に臣籍降下し華族に列せられる予定であった。

1876年(明治9年)に愛賢王の伯父にあたる華頂宮博経親王が26歳で薨去、博経親王の子博厚が皇族に列し、華頂宮家を継承した[注釈 2]。

その博厚も1883年(明治16年)に8歳で薨去。明治天皇の特旨をもって華頂宮の存続を決定し、まず博厚王[2] を猶子・親王宣下により博厚親王とした上で、華頂宮自体の継承に関しては、本家に当たる伏見宮から王子を充当し宮家を立てることとし、行先の決まっていなかった愛賢王が華頂宮を継承、同時に名を博恭と改めた。

華頂宮を継承して3年後の1886年(明治19年)4月5日、博恭王は海軍兵学校予科に入学し(16期)、海軍軍人としてのスタートを切る。3年後に海軍兵学校を中退してドイツに渡り、キール海軍兵学校、キール海軍大学校(Marineakademie und -schule)で学び、1895年(明治28年)まで滞在した。この間、1891年(明治24年)4月にはキール軍港の軍艦進水式に親臨したウィルヘルム二世と対面した[3]。1893年(明治26年)3月30日には海軍少尉候補生を命じられ、1894年(明治27年)4月20日に海軍少尉に任官した[4]。ドイツ海軍大学校を卒業した後には貴族院議員(皇族議員)に任じられた。

博恭王は、日本の海軍兵学校は「期外」である[5]。しかし、海軍史家の野村実は「日本海軍は明らかに、博恭王を海兵十八期生として待遇していたわけである。」[6]と述べている。博恭王の進級は、海軍中尉進級から海軍大佐進級まで、兵18期クラスヘッドの加藤寛治と同時であった(海軍少将進級は、博恭王が大正2年8月、加藤が大正5年12月)[6][7][8]。

日本への帰国後は巡洋艦や戦艦での艦隊勤務を重ね、このため後述する様に皇族とはかけ離れた行動様式や生活が身につくことになる。 帰国後、海軍少尉として海防艦「厳島」、「松島」に乗船、明治30年海軍中尉として戦艦「富士」に乗船。その後、海軍大尉として装甲巡洋艦「浅間」、同「出雲」、戦艦「朝日」、明治39年には海軍少佐となり戦艦「三笠」に乗船した[9]。

1897年(明治30年)1月9日、徳川慶喜の九女・経子と結婚した[10]。

1903年(明治36年)に海軍少佐に任官される。 戦艦「三笠」の第三分隊長として後部砲塔の指揮に当たる。

1904年(明治37年)日露戦争が開戦すると同配属のまま、司令長官・東郷平八郎、艦長・伊地知彦次郎、砲術長・加藤寛治らとともに同じ船で出征した。日本海軍が博恭王を海上第一線の最重要部門に配置していたことは明らかである[11]。

翌1904年(明治37年)、邦芳王の廃嫡に伴い、華頂宮から急遽伏見宮に復籍して後嗣となり、また第二王子で僅か2歳の博忠王が華頂宮を継承することとなった[12][注釈 3]。

▪華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治35年)1月26日 - 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の皇族、海軍軍人[1]。

博恭王が華頂宮当主であった時の王子。1902年(明治35年)1月26日に誕生した第2王子[1][2]。2月1日、博忠と命名される[2]。博恭王が実系である伏見宮を継承するにあたり、博忠王は僅か2歳(明治37年1月15日附)で華頂宮の家督を継承する[1][3]。学習院初等科時代は、裕仁親王(後の昭和天皇)と同級だった[1]。中等学科4年より海軍兵学校予科へ進む[1]。博忠王の海軍兵学校時代初期、校長は鈴木貫太郎海軍中将であった[4]。

海軍兵学校を卒業(49期)[3]した博忠王は1921年(大正10年)7月16日附で海軍少尉候補生となり、装甲巡洋艦八雲乗組を命じられる(同級の朝融王は出雲乗組)[5]。練習艦隊司令官斎藤半六中将の指揮下で遠洋航海に出発した。

1922年(大正11年)4月4日、練習艦隊は日本(横須賀軍港)に戻った[6][7]。翌日、博忠王、朝融王、斎藤中将ら118名は、宮城の鳳凰の間で摂政宮の裕仁親王(大正天皇皇太子)に拝謁する[6][7]。4月28日、成年式挙行[8][9]。5月25日附で博忠王は海軍少尉に任官した[10][11]。戦艦陸奥乗組を命じられる[11]。

1923年(大正12年)3月30日、海軍砲術学校普通科学生を命じられる[12]。7月12日、海軍水雷学校普通科学生を命じられる[13]。12月1日、海軍水雷学校普通科学生を卒業し、長良型軽巡洋艦五十鈴乗組を命じられる[14]。当時の五十鈴艦長は、のちに条約派として父の博恭王と対立する堀悌吉大佐であった[3]。

1924年(大正13年)3月3日、博忠王は五十鈴乗艦中に発病する[15][16]。当初は軽い頭痛で発熱も無かったが、翌日の4日に状態が悪化したため、3月6日より佐世保海軍病院に入院する[16][注釈 1]。皇太子で摂政宮であった裕仁親王(後の昭和天皇)は、博恭王・博忠王に対し、東宮侍従の土屋正直を見舞のため派遣した[15]。

同日附で、堀悌吉大佐(当時、五十鈴艦長)は軍令部出仕となり、市村久雄大佐(当時、軽巡龍田艦長)が五十鈴艦長に任命される[18][注釈 2]。

3月13日午前2時55分より意識が朦朧となり、やがて自然排尿もできず食事も摂れなくなった[16]。18日夜に昏睡状態となった[16]。

3月19日、博忠王は流行性脳脊髄炎のため[19]、危篤状態となる[20]。同日午後6時35分に薨去[1]。22歳没。同日附で博忠王は海軍中尉に進級、大勲位に叙され、菊花大綬章を授与された[20][21]。実父の博恭王(佐鎮長官)は、博忠王の臨終に立ち会ったという[3]。

博忠王の遺体は3月24日午後4時に帰京し、公式に薨去が発表された[1]。官報に掲載された宮内庁告示第15号では24日午後6時35分に薨去したとされている[22]。喪主は弟宮の博信王(博恭王第三王子)[16][1]。3月31日、豊島岡墓地にて斂葬の儀が執行された[23][24]。

博忠王は生涯独身だった為、博忠王の薨去をもって華頂宮家は断絶する。この2年後の1926年(大正15年)12月7日に弟宮の博信王が臣籍降下するにあたり、華頂の姓を下賜され華頂宮の祭祀を継承した[25]。

身長が六尺一寸(185センチメートル)という、当時としては異例の長身だったという[26]



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