桂宮、聖護院宮
⑰【桂宮】
桂宮は、天正年間に創設された四世襲親王家の一つである桂宮、および昭和年間に創設された宮号の2家が存在した。本項目ではそのうち、天正年間に創設された桂宮について解説する。
安土桃山時代の天正17年(1589年)に創設され、明治時代に断絶した。主な所領が平安京近郊の桂周辺にあった。石高3000石余は宮家中最大。八条宮→常磐井宮→京極宮の流れをくむ。
八条宮
正親町天皇の第一皇子の誠仁親王の第六王子の智仁親王を祖とする。
智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため豊臣家を離れてあらたに秀吉から邸宅と知行地を献じられ、一家を立てた。
智仁親王が作った別邸が桂離宮である。本邸跡は今も今出川通に面してあるが、その別邸である桂離宮が京都八条通の沿線上にあったことから八条宮と呼ばれた。
智仁親王(誠仁親王(陽光太上天皇)の王子で、後陽成天皇の弟)
智忠親王(智仁親王の王子)
穏仁親王(後水尾天皇の皇子)
長仁親王(後西天皇の皇子)
尚仁親王(後西天皇の皇子で、長仁親王の弟)
常磐井宮
5代の尚仁親王に継嗣がなく、霊元天皇の皇子である作宮が継承して常磐井宮に改称したが夭折。
作宮(霊元天皇の皇子)
京極宮
兄の文仁親王が跡を継いで京極宮に改称した。9代公仁親王の没後にいったん空主となる。
文仁親王(霊元天皇の皇子で、作宮の兄)
家仁親王(文仁親王の王子)
公仁親王(家仁親王の王子)
桂宮
光格天皇の皇子の盛仁親王が継承して桂宮に改称した。盛仁親王の没後再び空主となった。盛仁親王の兄の仁孝天皇の皇子の節仁親王が継ぐが夭折して空主となる。1862年(文久2年)に姉の淑子内親王が継いだが1881年(明治14年)に薨去、ここに桂宮は断絶した。
※1988年(昭和63年)、三笠宮崇仁親王の第二王子の宜仁親王が新宮家を創設し、同名の桂宮を称した。
ただし2代智忠親王の弟の広幡忠幸が興した桂宮家の分家の「広幡家」(源氏・華族)は宮家ではないが現在も続いている(男系子孫はこれも断絶している)
盛仁親王(光格天皇の皇子)
節仁親王(仁孝天皇の皇子)
淑子内親王(仁孝天皇の皇女で、節仁親王の姉)
(盛仁親王)(1810~1811)光格天皇・第4皇子、
「盛仁親王」( たけひとしんのう)文化7年6月27日(1810年7月28日) - 文化8年5月17日(1811年7月7日))は、江戸時代後期の日本の皇族。
世襲親王家の桂宮第10代当主。
光格天皇の第四皇子。
母は東坊城益良の女の菅原和子。
幼称は磐宮。
文化7年(1810年)9月に父の光格天皇の命で京極宮を継承し、桂宮の宮号を賜る。
文化8年(1811年)5月16日親王宣下を受け、盛仁と命名されるが、5月17日薨去。
1歳。法名は正覚院。
(18)【聖護院宮】
「聖護院宮」(しょうごいんのみや)の創設は1868年(慶応4年・明治元年)伏見宮邦家親王の第二王子である「嘉言親王」(よしことしんのう)が還俗し、名乗ったのに端を発する。
由来は親王が出家した聖護院。
親王が薨去したのちは、弟の「智成親王」(さとなりしんのう)が宮号を継承したのち、北白川宮に改称。
聖護院宮嘉言親王(しょうごいんのみや よしこと しんのう)(1821年 -1868年)幕末の日本の皇族。
伏見宮邦家親王の第2王子。幼称は多嘉宮 (たかのみや)
天保2年(1831年)に聖護院で出家し、雄仁法親王と名乗った。
同年、光格天皇の猶子となり、天保3年(1832年)には親王宣下を受けて、嘉言と命名される。
同年、京都山科の門跡寺院曼殊院に入室した。
王政復古の大号令を契機に慶応4年(1868年)聖護院宮を称して還俗し、再び嘉言親王を名乗る。
園城寺長吏を止められ、一品に昇叙されて、内国事務科内国事務総督となるが、直後に薨去。47歳。
弟宮の智成親王が聖護院宮を継承した。
長吏は、元は中国における官名であったが、日本では僧職に用い、座主、別当、検校の異称として寺院の長官たる僧侶に用いられる。
寺院においては三井寺園城寺、勧修寺、延暦寺楞厳院の長吏が著名であるほか、神社においても、近代以前の神仏習合時代において、祇園社(八坂神社)や白山比咩神社(白山権現)の長官としての長吏職があった。
園城寺の長たる僧を園城寺長吏といい、あるいは三井長吏ともいう。貞観元年(859年)に天台寺門宗の宗祖である円珍が三井寺別当に補任されたのに始まる。




