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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
49/105

③早田宮④五辻宮⑤常盤井宮⑥木寺宮⑦花町宮⑧土御門宮⑨聖護院宮⑩玉川宮⑪小倉宮⑫小川宮⑬八条宮⑭有栖川宮⑮常磐井宮⑯京極宮、


③【早田宮】(はやたのみや)

(円助法親王)「後嵯峨天皇」第7王子

嘉禎2年(1236年)10月に誕生した「後嵯峨天皇」の第七皇子「円助法親王」(えんじょほうしんのう)が

「早田宮」あるいは「金龍寺宮」と称したことが史料上の初見である。

「円助法親王」は宝治3年(1249年)1月に円満院で出家し、

翌建長2年(1250年)2月に法親王宣下を受け円満院門跡となる。

正嘉元年(1257年)には園城寺長吏に、

弘長2年(1262年)9月には四天王寺別当に補せられ、

文永10年(1273年)に牛車を許され、

翌文永11年(1274年)3月に二品に叙せられている。

父「後嵯峨法皇」の崩御時にはその遺言書を開き、

弟にあたる亀山天皇を治天の君に決定する時の立会人となった。

『増鏡』には、文永10年(1273年)に「円助法親王」が宮中で尊星王の修法を勤めたところ

間もなく火災が起こり「亀山天皇」が故「後嵯峨院」の遺産処分状の入った小唐櫃を

救出したというエピソードが紹介されている。

弘安5年(1282年)8月12日薨去。享年47。

「円助法親王」の弟にあたる鎌倉幕府第6代征夷大将軍「宗尊親王」の

次男の「真覚権僧正」が「早田宮」を称して「円満院門跡」となる。

「早田宮僧正」とも呼ばれたらしい真覚は、

父「宗尊親王」の晩年にあたる文永7年(1270年)に中将「堀川具教」の女を母として生まれ、

同母妹には後に永嘉門院となる瑞子女王があった。

真覚は元応元年(1319年)以降還俗しており、

円満院門跡の寺伝によれば「早田中務卿」とも称した。

真覚には元応元年(1319年)生まれの王子「早田宮宗治王」と一名以上の女子があった。

「宗治王」は「後醍醐天皇」の猶子となるが、その後「源姓」を賜り「臣籍降下」し、

「非参議従三位左中将宗治」あるいは「宮三位中将」とも呼ばれた。

「宗治」は「後醍醐天皇」の皇子で「南朝征西将軍宮」となった「懐良親王」と

同じく九州に赴任した模様で、貞和元年(1345年)鎮西で没したという。享年27。

宮号の起源は、文永9年(1272年)『後嵯峨上皇処分状案』の「円満院宮」の項に豊後稙田庄があることに関係している可能性がある。

後述する『太平記』の現存する諸本のうち成立当初の内容に一番近いとされる古態本『西源院本太平記』(重要文化財)では「早田宮」を「はやたのみや」と読ませている。


④【五辻宮】(いつつじのみや)

(守良親王)「亀山天皇」第5皇子

「亀山天皇」第五皇子「守良親王」が初代。

鎌倉時代から南北朝時代にかけて存在した。

「持明院統」と「大覚寺統」の争いに加えて鎌倉幕府の介入にも翻弄された宮家である。

宮号は初代「守良親王」(もりよししんのう)が外祖父「藤原実仁」(ふじわらのさねひと)

より相続した館が上京五辻(現:京都市上京区)にあったことに由来する。

その後所領を鎌倉幕府の介入により、

実子ではなく「久明親王」(ひさあきしんのう)(持明院統)の子(後の深草宮)に譲らされた。

一方「守良親王」(もりよししんのう)の実子も「五辻宮」(いつつじのみや)を名乗り、

同時期に同名の2つの「五辻宮家」(いつつじのみや)が存在していた。

このような例は、明治時代 - 昭和時代に存在した「久邇宮家」(くにのみやけ)の他には例がない。

「大覚寺統」

前述のように「守良親王」(もりよししんのう)は鎌倉幕府の介入により

屋敷を実子ではない人物に譲らされた。

これは当時の将軍「守邦親王」(もりくにしんのう)と

「深草宮」(ふかくさのみや)(煕明親王)(ひろあきらしんのう)が兄弟であったことによるものと考えられ、

「守良親王」(もりよししんのう)の本意ではなかったと思われる。

正慶2年/元弘3年(1333年)「足利高氏」の軍に追われ「光厳天皇」らを連れて東国へと落ち延びようとした

「六波羅探題」の軍勢を討ち取った。

近江国の野伏たちが「先帝第五宮」を擁したと伝えられている。『太平記』第9巻「番場自害事」

この「第五宮」は「守良親王」であるとされている。

また、この頃に「南部氏」や「多賀大社」に対して討幕への助力を求めたとされている。

その後、経緯不詳ながら五辻の館のみは「守良親王」(もりよししんのう)に返却されたらしく、

「守良親王皇子」「宗覚」は後にこの屋敷を「大徳寺」に寄進した。

宗覚も「五辻宮」と呼ばれていた(二代目五辻宮)。

その後また「五辻宮」なる人物が「後醍醐天皇」により九州に派遣されたという。

この「五辻宮」は「守良親王」の子孫と思われるが詳細は不明である。

「持明院統」

鎌倉幕府の介入により二代「五辻宮」となった「深草宮」は、

元徳元年(1329年)9月には「北条守時」によって五辻の館と備前国草部郷の領地を安堵されたが、

その後、五辻の館のみ元の所有者であった「守良親王」に戻された。

建武の新政が失敗に終わると「足利尊氏」により、

建武3年(1336年)8月に再び所領を安堵された。

貞治6年(1367年)の頃には「久明親王」の孫「祥益」が「五辻親王家」と呼ばれている

(『天竜寺重書目録』)が、

「深草宮」や「祥益」が親王宣下を受けた記録は残っていない。

その後は暫時衰微したらしい。

永享4年(1432年)「後崇光院」の元に「五辻入道宮」なる人物が訪れ、

九州の所領について斡旋を要請した。

そこで後崇光院は大内氏に宛てて添状を書き、

更に、宮の子息に偏諱を与えて「成煕」を名乗らせたという『看聞日記』永享4年8月22日。

「五辻入道宮」と成煕は添状を持って九州に下向したが、

その後の二人の消息は不明である。


⑤【常盤井宮】

始祖「恒明親王」(つねあきしんのう)

「亀山天皇」第14皇子「恒明親王」 ( -1552)

常盤井宮は、日本の皇室における宮家の一つ。

鎌倉時代から室町時代にかけて存在した。

始祖は亀山天皇(法皇)の第14皇子・恒明親王。


長期間にわたって宮号が直系で継承され、

代々親王宣下を受けるなど、世襲親王家の体裁を最初に備えた宮家であると規定される。

恒明親王は父・亀山法皇の最晩年に生まれた皇子で、

母が当時権勢を誇った西園寺家の出であることもあって寵愛を受けた。

恒明親王は亀山法皇の「遺詔」(ゆいしょう)により、

後二条天皇の後、大覚寺統を継ぐ儲君と定められ、また、亀山法皇の遺領の大半も譲与された。

だが、亀山天皇の嫡男である後宇多上皇は、

遺詔を認めれば皇統が分裂してしまうことになると主張して鎌倉幕府に働きかけた結果、

亀山法皇の遺詔が実現を見ることはなく、恒明親王が天皇に即位することはなかった。


恒明親王の子孫はその後も続き、

亀山法皇から伝領した遺領と御所の常盤井殿にちなんで常盤井宮と称し室町時代後期まで続いた。

第4代直明王以外は、親王宣下が確認されている。


南北朝の争いにおいては一部の法親王が南朝に従ったものの、

嫡流は京都の北朝側に留まった。

常盤井宮家は亀山法皇の遺詔を根拠にして潜在的に皇位継承の可能性を秘めた存在であったが、

現実には同家を擁立する政治勢力は存在せず、

大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)、

あるいは後光厳天皇流と崇光天皇流(伏見宮家)の対立の中で、

バランサーとしての機能を果たすことになった。


第6代恒直親王の後は子孫が確認されていないが、

「常盤井宮雑掌」の活動が永禄年間(1558年〜1570年)まで確認されているため、

この頃までは子孫が存在したと考えられる。


⑥【木寺宮】

始祖「邦良親王」(くによししんのう)

「後二条天皇」第1皇子「邦良親王」


「木寺宮」(きでらのみや)は、日本の皇室における宮家の一つ。

鎌倉時代から室町時代中期にかけて存在した。


常盤井宮家に次いで、世襲親王家の体裁を備えていた初期の宮家にあたる。

始祖は後二条天皇の第一皇子である皇太子邦良親王、

初代はその嫡男の「康仁親王」

称号の由来は「邦良親王」以下の代々の殿宅が洛西の葛野郡木寺(仁和寺付近)

にあったことによる。

経済的に衰微した後は、遠江国に移ったともいわれる。


「後宇多法皇」は、早世した子息「後二条天皇」が遺した孫の「邦良親王」を、

「大覚寺統」の正嫡として所領を譲与し、

「尊治親王」の所領も将来は邦良親王に譲与すること、

「尊治親王」が即位しても本人一代に限り、

その子孫は世襲親王家にとどめることと定めた。


1318年「尊治親王」が即位(後醍醐天皇)すると、

「邦良親王」が皇太子に立てられたが「後醍醐天皇」はひたすら譲位を引き延ばし、

生来病弱であった邦良親王は1326年に皇位につくことなく薨御した。


邦良親王の子「康仁親王」は、

本来は父の後継者として「大覚寺統」の正嫡たる身であるが、

「後醍醐天皇」の在位中は徹底的に冷遇された。

「後醍醐天皇」が元弘の乱に敗れて廃位されると、

後継の「光厳天皇」(持明院統)は「康仁親王」を皇太子に立てたため、

「大覚寺統」の皇統でありながら「持明院統」(北朝)と深い結びつきを有するようになる。

しかし1333年に鎌倉幕府が滅亡し、

「後醍醐天皇」が復権すると「光厳天皇」の即位は取り消され「康仁親王」も皇太子を廃された。


『康富記』によると「康仁親王」の後の「木寺宮」は、

邦恒王 ─ 世平王 ─ 邦康親王と3代を経て、室町時代中期まで存続した。

ただし、邦恒王と世平王は早世したため、親王宣下を受けた記録がない。

邦康の子には、師煕親王(静覚入道親王)などがいる。


宮家は天正年間(1573年-1592年)まで存続したことは確認でき、

邦康親王の曾孫と推定される「木寺宮」は後奈良天皇の猶子となり、

親王宣下を受けたと推定できる。

また、この木寺宮は、江戸幕府の高家旗本となった大沢基宿の外祖父であり、

法名を「龍雲院」と号したという。

ただし、この木寺宮の実名は不明である。

康仁について、南朝方荘園の遠江国入野(静岡県浜松市)に下向して龍雲寺を興し、

そこに落ち着いたという伝承があって、

親王の屋敷跡・墓所・真影とされるものが同寺内に伝存している。

康仁が京都付近で没したことは『園太暦』に見えているので、

伝承は事実を伝えたものではない。

ただし、木寺宮の縁者が遠江と所縁があった可能性はある。

その時期は、中央の記録から消えた邦康以降ということになろう。

ただし、これらを具体的に裏付けるような史料は存在しない。


『龍雲寺文書』によれば、永禄から天正のころ、

当寺に「大宮様」が住んでいたが、武田方の軍役を務めていたため、

1580年に徳川家康に攻められ、寺を焼いて信州に逃走している。

「大宮様」とは赤津中務少輔のことで、

木寺宮(康仁親王)8世との寺伝があるが、これも具体的な裏づけはない。

なお『寛政譜』には、大沢基宿の母や知久則直の母を「木寺宮」出身と伝えている。


龍雲寺の 「略系図」では、戦国期の木寺宮(龍雲寺殿)の子は、

木寺宮(赤津中務少輔)、

女子(大沢左衛門佐基胤室)、

女子(信州河島知久監物室)、

某(龍雲寺住職瑞椿和尚)と記される。

他方、『遠江国風土記伝』の大宮様の子は、

長男・佐兵衛輔、中男・宗察公(明庵察公首座禅師)、三男・右兵衛輔であった。

「略系図」では、

「風土記伝」にある大宮の子を『本朝皇胤紹運録』にある康仁親王の子に対応させている。

西田かほるはこれを、康仁親王と戦国期の「木寺宮」そして「大宮」が混同された結果であり、

様々な情報を系図に反映させたことによる錯乱であるとした。

また、龍雲院と大宮を同一人物としても矛盾があり、

例えば「略系図」 の瑞椿は「風土記伝」では「明庵宗公」と記されていることを指摘している。


木寺宮家臣の堀江家に伝わる文書によれば、

8世孫の「木寺宮(大宮)」について、

「木寺之宮者正親町第一之宮也、月蝕之日依有御誕生不能継王位、忍出宮中携幾江ノ局ヲ一人到尓 遠州入野村空送歳月」とあり、

木寺宮が正親町天皇の皇子であり、

月蝕の日に誕生したことにより王位を継ぐことができず、

局1人を連れて宮中を出て入野村で空しく時を過ごしたとする。

さらに、徳川家康が入野を通りかかった際に紫雲が立っていたことから宮の存在を知り、

朱印状を出したことや、木寺宮の3人の子のうち、

姉は大沢氏へ、次女は知久氏へ、三男は入野で剃髪して「龍門」と称したとする。

ここでは武田家も登場せず、赤津の名もない。

また僧になった木寺宮の子は龍門という。

そして、木寺宮は康仁親王の後胤ではなく、正親町天皇の皇子となっている。

康仁親王とのつながりは、わずかに「不能継王位」宮という点に残されているのみである。

西田かほるは、堀江家にとって、木寺宮は戦国期の貴種ということ以上のものではなかったとしている。


明治初期に龍雲寺によって編纂された『康仁親王御墓其外明細書上帳」』によれば、

「大宮様」は龍雲寺の末寺・長楽寺へ薬師堂、大円寺へ大日堂を建立したという。

また、大宮様は天正8年(1580年)の戦乱の際に、嶋勘兵衛を船頭として浜名通りまで行き、

それ以降は消息不明だが、その発足日を忌日として供養しているという。

地方に下った宮家の例としては他に五辻宮が挙げられる。


⑦【花町宮】

(邦省親王)「後二条天皇」第2皇子

「邦省親王」(くにみしんのう)後二条天皇・第2皇子、

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて存在した「世襲親王家」?

後二条天皇の第 2皇子「邦省親王」(くにみしんのう)を祖とする。

「邦省親王」は病弱であった「後醍醐天皇」の皇太子「邦良親王」(くによししんのう)の実弟であり、

同親王の没後は「邦省親王」が自らを大覚寺統の正統と主張して、

鎌倉幕府や室町幕府に立太子を訴えたが阻まれた。

「邦省親王」(くにみしんのう)あるいはその子「廉仁王」(かどひとおう)の代で断絶した。

「邦省親王」は永和元年(1375年)に薨去しているが、

「廉仁王」(かどひとおう)の薨去の時期が不明であるため、どちらが先に没したのかが確かではない。

ただし「廉仁王」の子孫の存在は伝えられていない。


⑧【土御門宮】

(邦世親王)(1322~1365)木寺宮邦良親王・第2王子、元徳2年2月11日(1330年3月1日)

(邦世親王) 「木寺宮邦良親王」第2王子 ( -1442)

後深草天皇の二世孫源久良は、花園上皇の猶子として親王宣下を受けて皇籍復帰をし、土御門親王と称するようになる。この「土御門」が、実質的に久良親王の皇統に継承される宮号となった。

久良親王の子・宗明は再び臣籍降下するが、降下後も「宮」と称されており、皇族と臣下の立ち位置にあったと思われる。宗明以降の系譜は明らかになっていない。


⑨【聖護院宮】

(惟成親王)(△△△~1423)後村上天皇・第3皇子、(惟成親王) 「後村上天皇」第3皇子 ( -1434)

旧南朝系の世襲宮家の一つ。後村上天皇の皇子で、後亀山天皇の東宮(皇太弟)であった某親王を家祖とするが、近年の研究ではこれを惟成親王に比定する説が有力である。南北朝合一の後、皇位回復を目指して反幕姿勢を崩さなかった小倉宮家とは対照的に、概ね幕府体制に順応的な態度を取っていた。

宮号は、比叡山延暦寺の有力坊院である護正院(護聖院)に隠棲していたことに由来すると考えられている。同院は建武期から梶井門跡の筆頭門徒として室町幕府の政治的・軍事的な信頼が厚かったため、幕府が敵対を懸念する南朝皇族を託す先として適当だったらしい。「護聖院」の表記には、護正院・護生院・護性院・五常院などの字が宛てられることもある。


⑩【玉川宮】

長慶天皇・皇子、(不明)「長慶天皇」皇子

旧南朝系の世襲宮家の一つ。一般には、長慶天皇の皇子(諱不詳)を家祖とすると考えられている。南北朝合一後、皇位回復を目指して反幕姿勢を崩さなかった小倉宮家とは対照的に、概して幕府体制に順応的な態度を取っていたが、史料が少ないために系譜に関してはあいまいな点が多い。玉河宮とも。

宮号は、長慶天皇が晩年を過ごしたとの伝説がある紀伊国伊都郡玉川(和歌山県九度山町)に由来するとされるが、この玉川の地と宮家との直接的な関わりは明らかでない。


⑪【小倉宮】

(恒敦)(△△△~1422)後亀山天皇・皇子、(恒敦)「後亀山天皇」皇子( -1443)

旧南朝の系統に属する宮家で、初代は南朝第4代後亀山天皇の皇子・恒敦つねあつ。嵯峨小倉山下に住したので小倉宮と呼ばれた。

皇位継承や幕府の権力闘争に翻弄され、自らも皇位を競望して兵事に参画するなど、後醍醐帝以来の流儀を貫いた末に絶家した。


⑫【小川宮】

(1404~1425)後小松天皇・第2皇子、(不明)「後小松天皇」第2皇子(1404-1425)

室町時代の日本の皇族。後小松天皇の第2皇子。母は日野西資国の娘・光範門院日野西資子。同母兄弟に、兄の称光天皇、妹の理永女王がいる。諱は伝わらず『本朝皇胤紹運録』はただ「皇子」とのみ記す。追号は竜樹寺宮

称光天皇の儲君[注釈 2]に治定され、その後継者とされていた(『本朝皇胤紹運録』『薩戒記』)[1][2]が、元服を待たずに死去した。

中世の皇族が諱を命名される契機としては、元服と親王宣下がある。親王宣下に際して命名されるのは、皇后を母とする皇子など、将来の天皇として嘱望されている皇族の場合が多い。極端な例としては、生後16日で親王宣下を受けた後深草天皇、生後26日で親王宣下を受けた安徳天皇などがある。この場合は乳児であっても親王宣下と同時に諱が命名され、その後10歳から15歳ほどで元服する。親王になれる見込みのない皇族の場合は、元服の際に諱が命名される。23歳になって元服し諱を命名された後嵯峨天皇、40歳で元服した後崇光院などの例がある。

事実上の皇太子。正統性に問題があった後光厳天皇の子孫の天皇がいずれも皇太子を経ずに即位した結果、この時代には皇太子はそもそも冊立しないのが常態となっていた


⑬【八条宮】

(智仁)(1579~1629)正親町天皇・第1皇子、(智仁)「正親町天皇」第1皇子(1589-1689)

桂宮かつらのみやは、天正年間に創設された四世襲親王家の一つである桂宮、および昭和年間に創設された宮号の2家が存在した。本項目ではそのうち、天正年間に創設された桂宮について解説する。安土桃山時代の天正17年(1589年)に創設され、明治時代に断絶した。主な所領が平安京近郊の桂周辺にあった。石高3000石余は宮家中最大。八条宮→常磐井宮→京極宮の流れをくむ。

八条宮

正親町天皇の第一皇子の誠仁親王の第六王子の智仁親王を祖とする。

智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため豊臣家を離れてあらたに秀吉から邸宅と知行地を献じられ、一家を立てた。

智仁親王が作った別邸が桂離宮である。本邸跡は今も今出川通に面してあるが、その別邸である桂離宮が京都八条通の沿線上にあったことから八条宮はちじょうのみやと呼ばれた。

智仁親王(誠仁親王(陽光太上天皇)の王子で、後陽成天皇の弟)

智忠親王(智仁親王の王子)

穏仁親王(後水尾天皇の皇子)

長仁親王(後西天皇の皇子)

尚仁親王(後西天皇の皇子で、長仁親王の弟)

常磐井宮

5代の尚仁親王に継嗣がなく、霊元天皇の皇子である作宮が継承して常磐井宮ときわいのみやに改称したが夭折。

作宮(霊元天皇の皇子)

京極宮

兄の文仁親王が跡を継いで京極宮きょうごくのみやに改称した。9代公仁親王の没後にいったん空主となる。

文仁親王(霊元天皇の皇子で、作宮の兄)

家仁親王(文仁親王の王子)

公仁親王(家仁親王の王子)

桂宮

光格天皇の皇子の盛仁親王が継承して桂宮に改称した。盛仁親王の没後再び空主となった。盛仁親王の兄の仁孝天皇の皇子の節仁親王が継ぐが夭折して空主となる。1862年(文久2年)に姉の淑子内親王が継いだが1881年(明治14年)に薨去、ここに桂宮は断絶した。

ただし2代智忠親王の弟の広幡忠幸が興した桂宮家の分家の広幡家(源氏・華族)は宮家ではないが現在も続いている(男系子孫はこれも断絶している)。

盛仁親王(光格天皇の皇子)

節仁親王(仁孝天皇の皇子)

淑子内親王(仁孝天皇の皇女で、節仁親王の姉)

昭和創立の桂宮(昭和桂宮)

1988年(昭和63年)、三笠宮崇仁親王の第二王子の宜仁親王が新宮家を創設し、同名の桂宮を称した。

「桂宮 (宜仁親王家)」を参照

その他

明治期の内閣総理大臣を務めた桂太郎はその功績により、1911年(明治44年)4月21日に公爵に叙されたが、日本の公爵の英対訳は「prince」であるため、偶然にも英訳が桂宮家当主と同じ「prince Katsura」となってしまった。ただし英訳の場合、皇族は他の華族と違いをつけるため、敬称として「H.I.H(His Imperial Highness)」をつけて区別する。


⑭【有栖川宮】

(好仁親王)(1603~1638)後陽成天皇・第7皇子、(好仁親王)「後陽成天皇」第7皇子(1625-1923)

寛永2年(1625年)、後陽成天皇の第七皇子、好仁親王を初代として創設された。

当初の宮号は高松宮といった。

宮号の由来は、好仁親王の祖母の新上東門院の御所高松殿である。

江戸時代の所領の石高は1000石。

好仁親王には嗣子がなかったため、甥にあたる後水尾天皇の皇子の良仁親王が養嗣子として正保4年(1647年)に第2代として同家を継承し[1]、花町宮(花町殿)を名乗った[4]。

承応3年11月28日(1655年1月5日)、良仁親王が後西天皇として践祚することになるが、これは先代後光明天皇の養子の識仁親王(後の霊元天皇)が幼少であったための中継ぎであり、正統しょうとうは識仁親王の血統に移る見込みであったことから、後西天皇は自分の皇統には宮号を継承させるべく、皇子の幸仁親王に高松宮を継がせた。しかし、幸仁親王は「高松宮」の宮号は後水尾天皇の叡慮ではないとして宮号を有栖川宮に改めた[1]。「有栖川宮」の宮号の由来は明らかではない。

以降、有栖川宮歴代は書道・歌道の師範を勤めて皇室の信任篤く、徳川宗家や水戸徳川家をはじめ、彦根井伊家や長州毛利家・広島浅野家・久留米有馬家などとも婚姻関係を結び、公武ともに密接であった。また代々、次男以下の子弟を門跡寺院に法親王・入道親王として入寺させていた。

第5代・職仁親王以降は霊元天皇の皇統に移り、明治期に至る。

明治維新後、8代・幟仁親王は、國學院大學の前身である皇典講究所や神道教導職の総裁に任ぜられ、明治天皇の書道師範をつとめた。また、9代・熾仁親王は王政復古当初は新政府の総裁の座に就き、戊辰戦争に際して東征大総督を務め、西南戦争でも征討総督となった。元老院議長、左大臣を歴任し、1894年(明治27年)の日清戦争では参謀総長の在任中に病死。10代・威仁親王は元帥海軍大将となったほか、皇太子時代の大正天皇をよく輔導するなど、三代にわたり朝廷を支えた。

大正2年(1913年)、10代威仁親王が薨去。一子の栽仁王が先に早世しており、皇室典範では非直系への宮号の継承が認められなかったため、断絶が確定する。しかしこの時、有栖川宮歴代の勲功に鑑み、大正天皇は親王の臨終に際し特旨をもって第三皇子の光宮宣仁親王に、有栖川宮の旧称である高松宮の称号を与え、有栖川宮の祭祀及び財産を継がせる。宣仁親王と後に婚姻する徳川喜久子は、威仁親王の外孫(威仁親王の第二王女の實枝子女王が喜久子妃の母)である。



⑮【常磐井宮】(作宮)(1689~1692)霊厳天皇第・10皇子、

作宮さくのみや) は、江戸時代中期の日本の皇族。

世襲親王家の常磐井宮(桂宮)第6代当主。霊元天皇の第10皇子。母は五条為庸の女の菅原経子。

幼少は最初、正宮まさのみやで元禄4年(1691年)作宮に改称した。

元禄2年8月八条宮尚仁親王が継嗣となる王子のないまま薨去したため、

父帝の命によって、親王の継嗣として同年10月宮家を相続し、常磐井宮の宮号を賜る。

元禄4年上述のように作宮に改称するが、元禄5年4月23日薨去。4歳。法名は浄功徳院。

作宮については、宮家を継承しているが、宮家の屋敷に入っていなかったため、

桂宮歴代に加えない場合もある。


⑯【京極宮】

(文仁親王)(1680~1711)霊厳天皇・第7皇子、

「文仁親王」( あやひとしんのう)は、江戸時代中期の日本の皇族。

世襲親王家の京極宮(桂宮)第7代当主。霊元天皇の第六皇子。

母は内大臣松木宗条の女の藤原宗子(敬法門院)。

幼称は富貴宮ふきのみや、または茶々ちゃちゃまる

貞享5年(1680年)に有栖川宮幸仁親王の養子となるが、

幸仁親王に実子が誕生したことに加え、

元禄5年(1692年)作宮の夭折によって常磐井宮(桂宮)が空主となっていたため、

元禄8年(1695年)幸仁親王との養子縁組を解消し、

元禄9年(1696年)7月常磐井宮家を相続し、新たに京極宮の宮号を賜った。

元禄10年(1697年)5月11日親王宣下を受け、文仁と命名される。

同月16日元服し、兵部卿に任ぜられる。宝永6年(1709年)4月一品に叙せられる。

東山天皇の同母弟であるが、それゆえに皇位継承を巡って警戒の対象とされていた。

元禄12年(1699年)には母の藤原宗子が側近の議奏中御門資熙と結んで東山天皇を退位させて文仁を擁立するという風説がきっかけとして中御門が逼塞を命じられ[1]、

元禄13年(1700年)には東山天皇の三宮(後の公寛法親王)の実父が文仁だという噂が流され[2]、

これを疑った天皇が三宮を出家させて、

異母弟の長宮(後の中御門天皇)を後継者にする方針を立てたとされている。

宝永8年(1711年)3月6日薨去。32歳。法名は智恵観院。



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