宮家の謎
本格的な世襲親王家の嚆矢とされるのが、
室町時代に成立した亀山天皇の皇子「恒明親王」を始祖とする「常盤井宮」と、
後二条天皇の皇子「邦良親王」を始祖とする「木寺宮」である。
両親王とも、皇位を継承する可能性があったが、
当時の持明院統と大覚寺統の両統迭立の情勢に翻弄され、
実際には皇位に就く事がなかった。
これらの親王には所領があり、
子孫に代々経済的基盤として伝えられた。
常盤井宮、木寺宮両家は、
室町時代の後期頃には断絶したと考えられるが、
この2つの宮家に次いで創設され、
以後、
約550年間の長きに渡って続いたのが「伏見宮」である。
さらに、室町時代には、
旧南朝の末裔である「小倉宮」「玉川宮」のような例も見られる。
いずれにしても、
皇位継承争いに敗れた皇族が、
皇位を確保した本家に、
政治的に対抗するかたちで、
分家を創立するというパターンである。
しかし、応仁の乱以降は、
朝廷の極度の衰退により、
世襲親王家の創設は、
朝廷外部からの経済的支援がなければ不可能になり、
朝廷にとってむしろ歓迎すべき事態へと変わってゆく。
統一政権の成立以降に、
桂宮、有栖川宮、閑院宮の3家が創設され、
伏見宮とあわせて、
4つの世襲親王家「四親王家」が生まれた。
中世における宮家を見ていくと、
その成立には、
中世における王家の変容が関係深いことがわかる。
また、近世以降の世襲親王家という概念は、
中世の宮の家には、全く存在しない事も、意外ではあるがわかる。
伏見宮は、北朝第3代崇光天皇の第一皇子栄仁親王が始祖である。
第3代貞成親王の第一王子彦仁王が
傍系にあたる称光天皇が後嗣なく崩御したことにより、
1428年に第102代後花園天皇となって皇位を継承した。
この後花園天皇が現在の皇室の男系の祖となっている。
一方、貞成親王の第二王子貞常親王の
男系子孫は代々伏見宮を継承し、
特に第20代・23代邦家親王からは、
多くの子孫が宮家を創設した。
しかし敗戦を経て、
1947年、現行の皇室典範下で臣籍降下するに至った。
伏見宮は、
世襲四親王家の中では最古で、
現在の皇室並びに、
桂宮・有栖川宮・閑院宮も、
全て伏見宮家が始祖である。
▪桂宮は正親町天皇の第1皇子・誠仁親王の第6王子・智仁親王によって創設された。
智仁親王は豊臣秀吉の猶子であったが、
1589年、秀吉に実子鶴松が生まれたために縁組が解消された。
秀吉の奏請により、
智仁親王に所領が与えられ八条宮の宮号を賜ったのが始まりである。
以後、常盤井宮→京極宮→桂宮、と改称し、
1881年、第12代当主・淑子内親王の薨去まで存続した。
▪有栖川宮は後陽成天皇の第7皇子・好仁親王によって創設された。
初めは高松宮と称した。
好仁親王には後嗣が無く、
後水尾天皇の第6皇子で親王の甥に当たる良仁親王が第2代を継承し
花町宮、または桃園宮と称した。
ところが
1654年、兄の後光明天皇が没したため、
良仁親王は第111代・後西天皇として皇位を継承した。
宮家は後西天皇の第2皇子・幸仁親王が継承し有栖川宮と改称された。
1913年、有栖川宮威仁親王が薨去し断絶した。
▪閑院宮は、皇統の断絶を危惧した新井白石の建言で創設された。
東山天皇の第6皇子であり中御門天皇の同母弟にあたる直仁親王が、
幕府から1000石の所領を献上され、
1718年、祖父の霊元法皇から閑院宮の宮号を賜った。
新井白石の危惧は現実のものとなり、
中御門天皇の曾孫にあたる後桃園天皇が、
1779年、後嗣なく崩御した事により、
第2代・典仁親王の第六王子祐宮が第111代・光格天皇として皇位を継承した。
先帝の傍系にあたる宮家から皇位を継承したのは光格天皇が最後であり、
光格天皇の皇子・仁孝天皇以後は、その男子(皇太子)が次代天皇に即位し、
現在の皇室まで連なっている。
一方で宮家としては、
典仁親王第一王子・美仁親王が第3代として継承するが、
その孫の第5代・愛仁親王が子孫なく薨去した為、一度途絶える。
その後明治時代になって、
伏見宮邦家親王の王子・載仁親王が第6代として継承するも、
その子である第7代・春仁王に再び子孫なく、
臣籍降下後、
1988年、死去により絶家。
以上、宮家出身の皇族が皇統を継いだのは、3例である。
第102代・後花園天皇:伏見宮貞成親王の第1皇子。
第111代・後西天皇:有栖川宮第2代当主。
第119代・光格天皇:閑院宮典仁親王の第6王子。




