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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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宮家の謎


宮家とは、日本において、宮号を賜った皇族男子(親王又は諸王)を祖とする皇族の一家のことである。

(1)「岩倉宮」(2)「四辻宮」(3)「早田宮」(4)「五辻宮」(5)「常磐井宮」(6)「木寺宮」(7)「花町宮」

(8)「土御門宮」(9)「聖護院宮」(10)「玉川宮」(11)「小倉宮」(12)「小川宮」(13)「八条宮」

(14)「有栖川宮」(15)「常磐井宮」(16)「京極宮」(17)「桂宮」(18)「聖護院宮」(19)「華頂宮」

(20)「東伏見宮①」(21)「小松宮」(22)「伏見宮」(23)「閑院宮」(24)「山階宮」(25)「北白川」

(26)「梨本宮」(27)「久邇宮」(28)「賀陽宮」(29)「東伏見宮②」(30)「竹田宮」(31)「朝香宮」

(32)「東久邇宮」(33)「秩父宮」(34)「高松宮」(35)「桂宮」

歴代35の宮家が誕生し断絶した。

宮とは、元々、天皇および皇族の邸の事を指し、

転じて邸宅に住んでいる皇族の尊称となった。

さらに、親王の身位とともに

○○宮との称号を世襲することが認められる例が生じ、

これが「宮家」と呼ばれるものとなった。

個別には宮号に応じて

○○宮家と呼ばれることがある。

ただし、現行法上は、

いずれも法的な根拠を持つものではない。

また、宮号の授与と、

宮家の創立は必ずしも同時でもない。

明治33年(1900年)に賀陽宮が諸王家に列せられたが

賀陽宮邦憲王への宮号の授与は、

1892年(明治25年)12月17日である。

○○宮の称号は個人の称号であり、

その家族は用いない。

宮号を保有するのは、

皇族男子が原則であるが、

唯一、桂宮淑子内親王が宮号を継承し、宮家を維持した。

宮家のうち、

特に天皇の子や兄弟が創設した宮家を直宮家という。

幕末になると伏見宮邦家親王の皇子達が複数の宮号を立て、

1889年(明治22年)に施行された皇室典範により、

永世皇族制が確立され、

宮号の増減が起こるようになる。




基本的に、各宮家の継嗣が宮号を継承し、

他の男子は新たに宮家を創設するか、

あるいは臣籍降下する。

継嗣は基本的に第一男子だが、

旧皇室典範では嫡出の男子を優先していた。

皇室典範では新旧ともに養子を認めていないため、

宮家に嗣子が不在の場合は、

他宮家の皇族への宮号継承は行えず、

宮家は断絶する。

嗣子がいない場合は、

たとえ旧世襲親王家であっても、

断絶は回避されない。

また、嗣子に不治の病がある場合、

廃嫡が行われたが(例:伏見宮家の邦芳王)、

宮号継承後に発病した場合は弟が健在でも、

宮家存続の措置は取られなかった(例:山階宮家の武彦王)。

最後の宮号保有者が薨去した後も、

配偶者や未婚の女子等が皇族として留まっている間は、

宮家としては存続する。

宮家に所属した最後の人物が薨去した後、

1年後の命日に一周年祭の儀が執り行われる。

最後の人物に対する葬儀としては、

これで終了する。

その2日後、最後の人物の御霊に通常の食事を供え

「権舎の儀」を執り行い、

皇居内の皇霊殿に霊魂を移す。

すなわち、最後の人物は、

宮家の御霊舎には祀られない。

そして、当該宮家の御霊舎で、

御霊舎に残っていた御霊(過去に薨去した皇族の分霊)に対し

「神昇の儀」を執り行う。

この儀式(神事)を経て、

宮家は正式に絶家となる。





上述のように、旧・現皇室典範下では、

宮家自体を他家の皇族が継承することはできないが、

宮家の祭祀については他家の皇族が継承した例がある。

有栖川宮家は、

1908年(明治41年)嗣子の「栽仁王」が早世し絶家が確実になったのち、

有栖川宮威仁親王(たけひと)は、

伊藤博文に「有栖川宮先代ノ系統ヲ思ヘバ、先例ニ倣ヒ、皇子孫ノ入ラセラレンコトヲ希望スル他意ナシ」と皇子孫による継承を強く希望した。

1913年(大正2年)、

重篤となった威仁親王に、

後継者問題の内諭が伝達された。

大正天皇の第三皇子「光宮宣仁親王」に「高松宮」の称号が与えられた。

高松宮は有栖川宮の旧称であり、

また威仁親王の外孫徳川喜久子と宣仁親王の婚約も内定した。

1923年(大正12年)、有栖川宮家は

「威仁親王妃慰子」の薨去をもって断絶すると、

高松宮はその葬儀で喪主を務め、

高松宮家が有栖川宮家の祭祀を継承し、

また、同家にまつわる資料を刊行した。

祭祀の継承により、

宣仁親王を実質的に有栖川宮家の後継に疑したことは、

伊藤による「超法規的措置」として受け止められた。




この他、皇族男子が臣籍降下して断絶した宮家の祭祀を継承した例に、

侯爵「伏見宮博恭王」の第3男子「華頂宮博信」や

伯爵「久邇宮邦彦王」の第3男子「東伏見慈洽」がある。

平安時代末期から鎌倉時代初期に掛け、

皇族ゆかりの神官が、

特殊な舞や神事を継承した際に

「宮」の名を持たせる習慣が生まれる。

そしてこの習慣は、

親王宣下の制度以降、

特に皇族の慣習として顕著となり、

本来その資格のない2世王以下の皇族が、

天皇・太上天皇の養子縁組・猶子となって、

代々親王宣下を受けることで、

親王の身位を保持し続けるようになり、

後世「世襲親王家」と呼ばれるようになった。

鎌倉時代中期、

順徳天皇の皇子「忠成王」が「岩倉宮」、

「善統親王」が「四辻宮」を名乗り、

子孫に宮号が伝わると、

宮号は称していないものの、

親王将軍(宮将軍)も

惟康親王の娘が久明親王の正室となって、

後継者を儲けたように、

初代の宗尊親王(後嵯峨天皇の皇子)から、

最後(4代目)の守邦親王まで、

代々征夷大将軍の職と、

親王の身位を世襲した親王将軍家とみなすことが出来る。

考えようによっては、

これも「宮家」とみなすこともできる。






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