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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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第19代貞敬の謎③


第119代天皇の候補として「伏見宮貞敬」(ふしみのみやさだよし)と「閑院宮師仁」(かんいんのみやもろひと)の2人がいたと言われているが、これは可能性のある皇族の名を挙げただけで「伏見宮貞敬」(ふしみのみやさだよし)が、実際の候補だったと述べているわけではない。

(『近世の朝廷運営』)。

そもそも先代天皇が、このような「呪詛」で死んだのではと疑われてる状況下で、

その殺人容疑のかかっている「伏見宮邦頼」の王子である「貞敬」(さだよし)が、皇位継承の候補などになり得るのだろうか、普通の常識で考えたらあり得ないだろう。

男系維持論者は「伏見宮家」が「天皇家」と近しい関係にあったことを強調するため、「天皇家」からの嫁入りも盛んであったとも述べる。

しかし「天皇家」から「伏見宮家」に嫁いだ例は、1698年の「福子内親王」(ふくこないしんのう)(霊元天皇の皇女)、1719年の「秋子内親王」(あきこないしんのう)(東山天皇の皇女)、の2例だけである。

「伏見宮家」(ふしみのみやけ)は江戸中期に事実上断絶し、

「桃園天皇」(ももぞのてんのう)の皇子「貞行」(さだもち)が跡を継ぎ、

伏見宮第17代当主「貞行」(さだもち)となった。

「伏見宮家」と「天皇家」は、男系の近い関係に復したというわけだ。

しかし「貞行」(さだもち)が13歳で亡くなると

「伏見宮家」(ふしみのみやけ)は「天皇家」(てんのうけ)の反対を押し切って、

仏門に入っていた「寛宝」(かんぽう)を無理やり「還俗」(げんぞく)させ宮家を継がせた。

1774年、伏見宮第18代当主「邦頼」(くにより)である。

この件をめぐり「天皇家」と「伏見宮家」(ふしみのみやけ)との間には、わだかまりが残り、確執のなかで今度は天皇の方が断絶の危機に陥った。

それが「伏見宮邦頼」に「呪詛」(じゅそ)の疑いが掛けられた事件の裏事情だ。

もし、この時「閑院宮師仁」(かんいんのみやもろひと)がいなければ、「伏見宮貞敬」(ふしみのみやさだよし)が第119代天皇になっていたかもしれないが、そもそも「貞敬」(さだよし)は呪詛で天皇を呪っていたかもしれない親をもつ子である。

天皇家が「貞敬」(さだよし)を養子にしようと思うだろうか。

1779年「後桃園天皇」(ごももぞのてんのう)が崩御した。

皇子がいなかったため「世襲親王家」から新帝を迎えることになった。

しかし「呪詛事件」の最中である。

「伏見宮」だけは勘弁という空気ではなかったかと思う。

確かに理屈としては後継候補者として

伏見宮「邦頼親王」(くによりしんのう)第一王子「嘉禰宮」(かねのみや)(5歳)、

閑院宮「典仁親王」(すけひとしんのう)第一王子「美仁親王」(はるひとしんのう)(23歳)、

閑院宮「典仁親王」(すけひとしんのう)第六王子「祐宮」(さちのみや)(9歳)

の3人がいた。

先帝の唯一の遺児女「一宮」(欣子内親王、1歳)を新帝の「妃」にするという構想から、

既婚の「美仁親王」(はるひとしんのう)が候補から消えた。

残り2人のうち

「近衛内前」(このえうちさき)と「後桜町上皇」は「嘉禰宮」(かねのみや)を

「九条尚実」(くじょうひさざね)は「祐宮」(さちのみや)を推薦した。

結局「世襲親王家」の中で創設が最近であった「閑院宮」(かんいんのみや)が選ばれた。

「後桃園天皇」(ごももぞのてんのう)の「再従叔父」(はとこおじ)にあたる「祐宮」(さちのみや)が

養子として迎え入れられたのだ。

これが第119代「光格天皇」(こうかくてんのう)である。

この話については成城大教授・森暢平氏が最近サンデー毎日(2024,5,6)に詳しく書いてるので下記にそのまま載せておく・・・・・・・・・・・・

・・・・・>1779年「後桃園天皇」(ごももぞのてんのう)が「継嗣」(けいし)をもうけないまま21歳で亡くなったときのことについて、著述家「谷田川惣」(やたがわおさむ)は、一代前の女性天皇「後桜町上皇」(ごさくらまちじょうこう)と「近衛前久」(このえさきひさ)が「伏見宮貞敬」(ふしみのみやさだよし)を、関白「九条尚実」(ひさざね)が「閑院宮師仁」(もろひと)を、それぞれ推していたと書いている。

「谷田川」は「10日間」の議論の末、「閑院宮師仁」(かんいんのみやもろひと)が選ばれ、「光格天皇」(こうかくてんのう)として即位したと続けて書いている。

▪『入門「女性天皇」と「女系天皇」はどう違うのか』参照

「谷田川」が書く「近衛前久」(さきひさ)は1612年に亡くなっており、「近衛内前」(うちさき)(前太政大臣)の間違いであると思うが、確かに、明治元年の『十三朝紀聞』という俗書に「後桜町上皇」と「近衛内前」(このえうちさき)が「貞敬」(さだよし)を推し、ひとり「九条尚実」(くじょうひさざね)が反対したと記載されている。

しかし、典拠が不明なうえ、この説は戦前、東京帝大史料編纂掛の歴史学者「和田英松」によって

実証的に否定されている。

(「後桃園帝崩御について」、のち『国史国文之研究』所収)。

すなわち「後桃園天皇」が亡くなる2日前(安永8年10月27日)に、彼の女御(正室)「近衛維子」(このえこれこ)と「後桜町上皇」(ごさくらまちじょうこう)が参内し、次期天皇は「閑院宮師仁」(かんいんのみやもろひと)とすることを内定したことが分かっている。

九条尚実(くじょうひさざね)は「後桜町上皇」(ごさくらまちじょうこう)の正式な裁可を得たのち、崩御の当日(安永8年10月29日)京都所司代を通じて、幕府に伺いを立てた。

江戸までの物理的距離から、返事が来る11月8日まで待たなければならなかったが、

幕府の答えは「師仁」(もろひと)の即位(践祚)容認である。

後継をめぐって「10日間」議論したわけではない。

跡継ぎは「後桃園天皇」(ごさくらまちてんのう)と親等が近い

「閑院宮家」から出すことは、

当初からの構想であって

「伏見宮貞敬」(ふしみのみやさだよし)が継承候補に挙がったという事実は、

まったくない。


・・・・・・・・・・・・以上・・・・・・・・・


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