第13代貞致の謎②
「貞致親王」(さだゆきしんのう)の母は伏見宮家の諸大夫であった三河守安藤藤原定元の娘・安藤定子である。
慶長8年(1603年)生まれであり、
伏見宮第11代当主「邦尚親王」あるいはその父第10代当主「貞清親王」に仕えた。
定子はその後出家して、号は仙寿院と名乗ったが、 寛永13年(1636年)5月3日に死没した。
法号は慈眼院心和光清大姉であり、京千本浄光寺に墓があるという。
一次史料である『忠利宿禰記』によると「貞致親王」(さだよししんのう)は
「下戚腹(身分の低い女性との間に生まれた子供)」と記されており、
『伏見宮系譜』や同系譜に引用された二次史料である「津田蔵書安藤家系」によると
「家女房(少納言局 安藤氏、名定子)」
「伏見殿諸大夫参河守安藤藤原定元の女定子」が母親であるとされる。
「赤坂恒明」は「安藤定子」の名前は
「貞致親王」が「伏見宮家」を継承したのちに遡及して付けられたとしている。
また『伏見宮系譜』で「家女房(実質的な側室であり下戚腹と呼ばれるほど低い身分ではない)」
とされたのも後世の遡及であるとしている。
同じく『忠利宿禰記』には「丹波國□□ト云所ヘ養子ト成給」とあり、
これは貞致が「十二三ノ時」より以前の幼少期のことであるから、
「貞致」(さだゆき)が母の実家である丹波国尾口村の安藤氏宅で出生した後、
「伏見宮家」から認知されない落胤として処遇され、
幼少期を丹波国で過ごしていたことがわかる。
一説では「貞致親王」(さだゆきしんのう)は寛永9年(1632年)に
第10代当主「伏見宮貞清親王」(ふしみのみやさだきよしんのう)の庶子として生まれたとある。
母親は「安藤定子」といい「伏見宮邦茂王」の子孫。
幼名を「峯松君」と称した。
『忠利宿禰記』によると、12~13歳の時に、丹波国から上洛し、
京都西陣の刀鍛冶である埋忠(明珍とも)の弟子となり、
18歳の時まで長九郞と称した。
『津田蔵書安藤家系』によると「貞致」(さだゆき)の母の妹は「埋忠明珍」(うめただみょうじゅ)の妻であったという。1649年には「明珍」(みょうじゅ)の弟子を辞めて、
丹波国の伯父「安藤定実」(安藤定次とも)の邸宅に戻ったとある。
この頃「伏見宮」では後継者をめぐって争いが起きており、
第10代当主「貞清親王」(さだきよしんのう)の2人の息子、
第11代当主「邦尚親王」(くになおしんのう)と第12代当主「邦道親王」(くにみちしんのう)のどちらを後継者にするか揉めていた。
1649年に「邦道親王」(くにみちしんのう)が「親王宣下」され継嗣となった。
しかし「邦尚親王」派は「貞致親王」(さだゆきしんのう)を担ぎ上げ巻き返しをはかろうとした。
「赤坂恒明」は「邦尚親王」派は「貞致」を子のいない「邦尚親王」の継承者と擬することによって、
「邦道親王」派の台頭を抑えようとし、
これが『伏見宮系譜』等において、
「貞致親王」(さだゆきしんのう)が本来は異母兄である
「邦尚親王」(くになおしんのう)の子とされた背景であるとしている。
「安藤定子」は「伏見宮」に「女房」として入った。
「女房」とは貴族社会において「使用人」の事をさす。
そこで第10代当主「貞清親王」か第11代当主「邦尚親王」(くになおしんのう)の子を身籠った可能性はある。
しかし、そうならば「伏見宮貞致」は伏見宮の男系であることは確実となるので、
母方の実家「安藤定元」が「邦茂王」の孫であるという、あやふやな設定は必要ない。
ゆえに、本当は定子の父は伏見宮ではないのではなかろうか、
ゆえに、母系の系譜を伏見宮「邦茂王」と設定したのではなかろうかと思う。
ところで「安藤家」とは何者かが大事である。
伏見宮第7代当主「邦輔親王」(くにすけしんのう)の第8王子「邦茂王」が、
果たして、本当に、丹波の山奥で「安藤氏」を名乗ったのか?
こともあろうに「永世世襲親王家」の第8王子である。
いったいどんな事情で伏見宮を出奔したのか。
普通「世襲親王家」の男子は後継者以外は「臣籍降下」して公家の家へ養子で入るか、
出家して寺院に入るかとなる。
丹波の山奥で分家を構えるなど、果たして可能なのか。
おかしな事に「貞致」(さだゆき)は、母の身分の低さゆえ丹波に養子に出されたのだという説がある。
「定子」が邦茂王の曾孫なら、身分は低くない。
つまり「安藤惟実」が「邦茂王」だというところが疑問だということだろう。
「伏見宮」へ「家女房」を出せる家ゆえ、貧しい家ではないだろう。
しかし、生まれたはずの伏見宮の落胤「貞致」(さだゆき)を山城国西陣の鍛冶屋(元々は公家が兼業していた刀工の家系)へ徒弟に出した。
名家「伏見宮」の「落胤」が、普通、鍛冶屋に徒弟で入るのか、全く謎である。
「長九郎」(ちょうくろう)と称したらしいが、もし「貞致」が伏見宮の「落胤」なら酷い扱いだ。
この辺りが本当によくわからない。
1654年、伏見宮本家の3人の男子
「貞清親王」(さだきよしんのう)
「邦尚親王」(くになおしんのう)
「邦道親王」(くにみちしんのう)が、立て続けに薨去した。
「伏見宮家」は断絶の危機に直面した。
そこに「安藤家」の働きかけにより「長九郎」が「伏見宮家」に帰ってきた。
伏見宮の血統かどうか「京都所司代」に吟味してもらったところ、
伏見宮の「落胤」と認められ「久我広通」(くがひろみち)の後見のもと「長九郎」は「伏見宮」を継ぐこととなった。いったいどうやって鑑定したのか?
伏見宮第7代当主「邦輔親王」(くにすけしんのう)の第8王子「邦茂王」(くにしげおう)が丹波にて
「安藤惟実」を名乗ってたとして、一つ仮説をたてた。
「安藤定元」が娘「定子」を伏見宮へ「家女房」として入れようと、系図を細工した。
第10第伏見宮当主「貞清親王」(さだきよしんのう)かその息子
第11代伏見宮当主「邦尚親王」(くになおしんのう)の子を身籠った。
しかし「邦道派」の虐めにあい、
丹波の実家へ帰って生まれたのが「長九郎」である。
当時「安藤定為」は「長九郎」の「ご落胤認定運動」を盛んに京都でおこなったということである。
「定元」の甥「安藤定為」は最終的に「長九郎」を伏見宮の落胤だと「京都所司代」に認めさせたというから金と政治力はあったのだろう。
しかし重ね重ね思うが「京都所司代」は、いったい何を根拠に「落胤」と認めたのか?
また「安藤定為」は別名「朴翁」と名乗っていたらしいとの説がある。
くだらない妄想だが「朴」という字は韓国風である。
「安藤定為」は渡来人であったのか?
丹波は韓半島に近い。
丹波地方の渡来人集落に「朴」という裕福な人がおった。
自らを和名「安藤定為」(あんどうさだため)と名乗り、
伏見宮第7代当主の第8王子「邦茂王」(くにしげおう)の曾孫として家系図を作った。
そんなおり、従兄弟の「定子」が伏見宮本家へ女中(もしくは家女房)として入り、帰ってくると
誰かの「子」を孕んでいた。
伏見宮の当主2人のどちらかの手がついたのは事実らしいが、落胤かどうかはわからない。
しかし、その後、伏見宮の当主3人がバタバタと亡くなり、
伏見宮が断絶の危機となると、長九郎に運が巡ってきた。
京都所司代に「長九郎」こそ伏見宮家の血統だと「安藤定為」は名乗り出た。
「伏見宮本家」も、このまま断絶になるよりは、
「安藤定為」の企みに乗って
「長九郎」を正当の伏見宮の落胤だとして認可させた方が都合がよいと考えた。
こうして伏見宮は存続した。
このような妄想が膨らんでしまう。
さて、第13代「貞致」(さだゆき)まで見てきましたが、伏見宮の謎はまだ続く。




