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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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第13代貞致の謎①

伏見家3代目「貞成」(さだふさ)の代に、伏見宮は第1王子「彦仁」(ひこひと)を

「後小松上皇」(ごこまつじょうこう)の猶子として差し出した。

これが第102代「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)となり、

「貞成」の第2王子「貞常」(さだつね)は伏見宮第4代当主、伏見宮貞常親王となった。

伏見宮貞常親王は第1王子を次の伏見宮当主とし、

残りは全員出家させました。

第5代「伏見宮邦高親王」(くにたかしんのう)も第1王子を次当主とし、

残りは全員出家させました。

第6代「伏見宮貞敦親王」(さだあつしんのう)も第1王子を次期当主とし、

残りは全員出家させました。

第7代「伏見宮邦輔親王」(くにすけしんのう)は、2人の王子を各々当主としました。

第8代「伏見宮貞康親王」(さだやすしんのう)には子がいませんでした。

ゆえに弟の「伏見宮邦房」(くにのぶ)が次の当主になりました。

第9代「伏見宮邦房親王」(くにのぶしんのう)は第1王子を次期当主とし、

残りは全員出家させました。

第10代「伏見宮貞清親王」(さだきよしんのう)は、3人の王子を各々当主としました。(1654年8月没)


第11代当主「伏見宮邦尚親王」(くになおしんのう)には子がいませんでした。(1615年生~1654年1月没)

ゆえに弟(邦道)が次の当主となりました。


第12代当主「伏見宮邦道親王」(くにみちしんのう)にも子がいませんでした。(1641年生~1654年9月没)

ゆえに兄(貞致)が次の当主となりました。1649年に親王宣下。1651年に元服


第13代当主「伏見宮貞致親王」(さだゆきしんのう)ですが、この人が疑惑の多い人物なのです。(1632年生)


伏見宮の系譜を見ていくと、一人、血統に問題がある人物が登場する。

13代目伏見宮当主「貞致親王」(さだゆき)である。


伏見宮の血統かどうか怪しい。

「貞致親王」の母は、

伏見宮の諸大夫であった「三河守安藤藤原定元」の娘「安藤定子」(1603年生)であると言われている。

「邦尚親王」あるいは「貞清親王」に仕えた。

「三河守安藤藤原定元」の曾祖父は「邦茂王」だと言われている。(安藤家側の資料による)


第7代伏見宮当主「邦輔親王」(くにすけ)の第8王子に邦茂王というのがいた。

彼が安藤家の祖と言われている。(安藤家側の資料による)


邦茂王には安藤定実と安藤定元の2子がいたとされる。


定実の子・安藤了翁(りょうおう)(=安藤定明)は儒学者・藤原惺窩(ふじわらのせいか)に師事し、

伏見宮家に仕えた。


ゆえに了翁の紹介で、姪っ子の定子が伏見宮へ仕えたと思われる。


了翁の子・安藤朴翁(ぼくおう)(=安藤定為)もまた伏見宮家に仕えた。


定元の娘・安藤定子は貞清親王の手がつき、伏見宮第13代当主・貞致親王を産んだとされてる。

(安藤家資料による)


伏見宮邦輔ー邦茂王ー定実ー了翁(定明)ー朴翁(定為)

伏見宮邦輔ー邦茂王ー定元 ー 定子 ー 貞致


1651年『安藤略系』「長松軒惟翁傳」によると、定子は定明の養子となった。



つまり定子は父は伏見宮11代当主「伏見宮邦尚」10代当主「伏見宮貞清」のどちらかだというのである。


しかし「世襲親王家」の男子は当主になる男子以外は、公家に養子に入るか、仏門と決まっている。

なんで第7代当主・邦輔の第8王子「邦茂王」が分家することができたのだろう。

「定子」の祖父「邦茂王」は、またの名を「安藤惟実」(これみ)といった。

安藤家所伝の諸文献によると、

「伏見宮貞致親王」の母・定子は伏見宮7代当主「邦輔親王」の子「邦茂王」の孫であるとする。

この「邦茂王」は「長松軒惟翁」と号し、

安藤家を頼り丹波国桑田郡に隠遁し「安藤惟実」と称した。

とされている。


1651年に「安藤定元」の兄弟「安藤定明」(了翁)の子「安藤定為」(朴翁)が、

従姉「安藤定子」と生まれた「貞致」を預かった。


『安藤略系』「長松軒惟翁傳」によると「定子」は「定明」の養子となったとされているから、

この説明だと定子は定為(朴翁)の妹となる。


「貞致」は1652年に、21歳にして「邦尚親王派」の働きかけもあり、

第10代当主「貞清親王」の招きによって帰洛した。

しかし、まもなくして「貞致」の後ろ盾である

異母兄の11代当主「邦尚親王」が危篤となった(1654.1月死去)ことで「貞致」の立場も危うくなり、

1653年末には、再び讒言により出奔した。


「津田宗氏秘記」によれば「貞致親王」と対立していたのは、

伏見殿諸大夫の「生島右京亮盛勝」「内本左京亮吉泰」らと

12代当主「邦道親王」の母、

11代当主「邦尚親王」の母、であったという。


この際「貞致親王」を引き取ったのは、

かつての師匠である「明珍」であり、

1653年から1660年に「親王宣下」を受けるまで7年間「明珍」は「貞致」を保護した。

1654年1月第11代当主「邦尚親王」、

1654年8月第10代当主「貞清親王」、

1654年9月第12代当主「邦道親王」、

が立て続けに薨去し、伏見宮家は断絶の危機に直面した。


「邦道親王派」の諸大夫達は、

「貞致親王」の家督継承を阻止するために、

「後水尾法皇」の皇子を伏見宮家に迎え入れ、

「貞致親王」を出家させる計画を立て、法皇からも認められたという。


安藤定為(朴翁)は庭田雅純や三木冬仲に相談し、

武家伝奏であった「清閑寺共房」と「野宮定逸」が江戸幕府に訴えたところ、

幕府の命によって京都所司代「板倉重宗」が精察することとなった。


これにより「伏見宮」の落胤であると認められ、

「久我広通」の後見のもとに伏見宮を継いだ。(1660年貞致28歳)

万治3年(1660年)10月17日に「親王宣下」を行った。







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