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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
39/105

日本最古の世襲宮家



「源氏と平家」抗争の果てに、

日本最古の宮家、岩倉宮が誕生します。

宮家とは、ウィキペディアでは

日本において、宮号を賜った皇族男子(親王又は諸王)を祖とする皇族の一家のこと、

と書かれていますが、

現代の法律では、何の定義もされておらず、

皇族費も、その支払対象は、あくまでも皇族個人に対してであり、

そこに宮家が介在する必要性はない、

にもかかわらず、最近の三笠宮家の相続に関してもそうですが、

何かにつけて、宮家の新設や創設や継承にこだわるのは、

なにやら裏の意味がありそうだと勘ぐってしまいます。

ただ、日本では、歴代35の宮家があったとされています。

その最初の宮家が「岩倉宮」です。

以前ここで「南北朝時代」を解説したとき、

常盤井宮が世襲親王家の第一号だと書きましたが、

世襲宮家として考えると常磐井宮は5番目で、

第一号世襲宮家は「岩倉宮」だとされています。

(1)「岩倉宮」

(2)「四辻宮」

(3)「早田宮」

(4)「五辻宮」

(5)「常盤井宮」

(6)「木寺宮」

(7)「花町宮」

(8)「土御門宮」

(9)「聖護院宮」

(10)「玉川宮」

(11)「小倉宮」

(12)「小川宮」

(13)「八条宮」

(14)「有栖川宮」

(15)「常磐井宮」

(16)「京極宮」

(17)「桂宮」

(18)「聖護院宮」

(19)「華頂宮」

(20)「東伏見宮①」

(21)「小松宮」

(22)「伏見宮」

(23)「閑院宮」

(24)「山階宮」

(25)「北白川」

(26)「梨本宮」

(27)「久邇宮」

(28)「賀陽宮」

(29)「東伏見宮②」

(30)「竹田宮」

(31)「朝香宮」

(32)「東久邇宮」

(33)「秩父宮」

(34)「高松宮」

(35)「桂宮」

岩倉宮忠成王は、

鎌倉時代の皇族で、後鳥羽上皇の孫であり、順徳天皇の第五皇子です。

御称号は六条宮、岩倉宮、広御所宮等、

1222年生まれ、

父の順徳上皇は前年の承久3年(1221年)、

「承久の乱」に敗れたのち、佐渡国へ配流されており、

祖母の修明門院の四辻御所の一角で暮らしていた。

1242年、又従弟の四条天皇が崩御する。

僅か12歳での崩御であったことから皇太子が定まっていなかった。

「忠成王」は土御門天皇の皇子の邦仁王とともに皇嗣候補として名が挙がり、

忠成王には縁戚の前摂政の九条道家が、

邦仁王には前内大臣の土御門定通が付いて、

それぞれ鎌倉幕府に働き掛けを行った。

一時は、朝廷では忠成王の皇位継承はほぼ確定的なものとされ、

新しい天皇が着用する装束も忠成王の身体に合わせたものが製作されるなど、

忠成王の即位に向けた準備が進められていたという。

しかし、幕府執権の北条泰時は、

「忠成王」の即位に伴って幕府に強い敵愾心を持つ順徳上皇が帰京することを懸念したらしく、

一時は軍事介入を仄めかしながら、

鶴岡八幡宮の神意(籤を引いた結果)であるとして、

邦仁王を推す。

結局、邦仁王が践祚、

後嵯峨天皇である(仁治三年の政変)。

その後は、既に南北朝時代で記述したとおり、

第89代後深草天皇→第90代亀山天皇と続き、

皇統が2つに交互に代わる両統迭立の時代となる。


①【岩倉宮】(1247~1264)

忠成王は順徳天皇の第5皇子

第84代・順徳天皇の皇子・忠成王の御称号として創設された。

忠成王は幼少期は六条宮の称号を名乗り、

第87代・四条天皇の夭折時は一時次期天皇と目されていた。

宮騒動において自らを皇位に担ぐ陰謀が露見して失脚。

1247年

元服と前後して洛外の岩倉に移住し岩倉宮また広御所宮と称号を改める。

岩倉宮の宮号が存在した時代は個々の皇族が「諱」にかわって「御称号」を名乗っていた。

1264年の修明門院の没後に四辻御所を含むその遺領は忠成王ではなく

異母弟の善統親王・四辻宮に継承された。

「所領とともに称号を相続する宮号へと変わる過渡期」にあった。

②【四辻宮】(1251~1407)

善統親王は順徳天皇の第6皇子

第84代・順徳天皇の皇子・善統親王を初代として創設された。

宮号の由来は「善統親王」を養育した義祖母「脩明門院」(しゅうめいもんいん)

「藤原重子」(ふじわらじゅうし)の邸「四辻御所」である。

「善統親王」の皇統は「脩明門院」の所領を伝領して「四辻宮」の宮号を継承した。

元々、傍系の皇族は在所からとった「御称号」を名乗ることが通例であり、

その名称は個々人により異なったが、四辻宮においては、特定の所領に付随する形をとった。

初めて「同一称号」が直系卑属に継承される形がとられた。

これは「構成宮号」と「継承宮家」の初例であると言える。

宮内庁も「宮家」の「端緒」(たんしょ)であるとみなしている。

3代「善成」の子「松蔭常宗」が応永14年(1407年)に没して以後は

子孫、邸宅・所領の相続など不明であり「四辻宮」を名乗る人物も未詳である。


<宮騒動>

1242年、順徳上皇が佐渡で没した知らせを受けて、

忠成王は悲嘆にくれました。

しかし、忠成王は皇位への望みを捨てず、

1245年、平経高を召して数時間に亘って密事等を語った。

1246年、鎌倉幕府において「名越の乱」が起こる。

一般的に「宮騒動」と呼ばれているこの乱は、

北条(名越)光時の反乱未遂です。

結果、前将軍・藤原頼経(九条頼経)は、

鎌倉から追放され、

北条氏内部の主導権争いは、

第5代執権・北条時頼の勝利と終わりました。

得宗(北条家嫡流)の専制権力への道を開いたとも言えるでしょう。

宮騒動と称される理由は

「鎌倉年代記裏書」で「宮騒動」と号すとあるためだが、

「宮」を用いる由来は不明です。

事件の背後にいた

「九条頼経」は九条家、

「摂家」と称されることはあっても、

「宮家」と称されることはあり得ないからです。

ただ、九条家の大殿である九条道家の内心はわかりません。

当時、後嵯峨天皇即位が1242年、上皇1246年

後深草天皇即位が1246年ですので、

後深草天皇を廃して「六条宮」を擁立する計画であったとする説は、

十分説得力があります。

結果的に、六条宮は即位することはなく、

宮騒動の6年後、

鎌倉の摂家将軍の追放、親王将軍の誕生へとつながりました。

1242年、第3代執権・北条泰時が死去すると、

北条経時が執権職を嗣ぐこととなった。

しかし、北条家は庶流が多く分立しており、

経時の継承に対して、

不満を持つ者も多かった。

特に庶長子であった北条泰時に対し、

正室腹の次弟・北条朝時を祖とする名越家は、

北条氏嫡流(のち得宗と呼ばれる)への対抗心が強く、

名越光時らは不満を募らせていた。

一方、4代将軍・藤原頼経も成年に達し、

反執権勢力の糾合を図っていた。

これに危険を感じた北条経時は、

1244年、将軍・頼経を将軍の座から降ろし、

子の頼嗣を擁立した。

しかし、頼経はその後も鎌倉に留まり、

大殿、と称されて、

なおも幕府内に勢力を持ち続けた。

1246年、後嵯峨天皇が後深草天皇に譲位して、

治天の君として院政を開始する。

その際、太閤・九条道家(藤原頼経は道家の三男)は、

不仲であった次男の二条良実を関白から降ろし、

寵愛する四男の一条実経を新天皇の摂政にした。

その直後、鎌倉では北条経時は弟・時頼に執権職を譲り、23歳の若さで死去した。

経時の死を好機と見た名越光時は、

大殿・藤原頼経や頼経側近の評定衆・後藤基綱・千葉秀胤・三善康持ら、

反執権派御家人と連携し、

時頼打倒を画策する。

しかし、時頼の情報網は緻密で、反執権派の機先を制した。

名越光時は出家し、

伊豆国に配流されて、

時幸は自害。

千葉秀胤は本国に追放された。

大殿・藤原頼経は幽閉され、

京の藤原道家は恐怖に陥った。

大殿・藤原頼経は鎌倉を追放、京都へ送り返され、

鎌倉幕府内における北条時頼の権力が確立された。


<宝治合戦>

仁治3年(1242年)、

合議制によって幕府を主導し、

有力御家人の間を調整してきた3代執権北条泰時が死去し、

その嫡孫で19歳の北条経時が跡を継いだ。

北条得宗家主導の政治に不満を募らせていた御家人達は、

泰時時代には幼少だった将軍藤原頼経が成人すると、

その元に集って北条執権体制への反対勢力を形成していた。

鎌倉幕閣は、

北条執権派と将軍派に分裂して対立を続け、

寛元4年(1246年)、

経時の病死と同時に宮騒動が勃発し、

急遽5代執権となった弟の北条時頼により、

前将軍頼経が京都へ送還され、

将軍派であった御家人達が処分された。

この騒動の際、

三浦氏は将軍派の背後にありながらも動かず、

処分を受けなかったが、

頼経の送還は大きな打撃であった。

三浦氏は、

鎌倉の地元相模国を本拠とする、

幕府創設以来の大族で、

有力御家人が次々と排斥されていった中で、

生き残った北条氏に比肩しうる最大勢力であり、

北条得宗家とは縁戚関係を結びながらも、

常に緊張関係にあった。

三浦義村死後家督を継いだ三浦泰村は、

北条氏への反抗の意志はなかったが、

弟の三浦光村は反北条の強硬派であり、

前将軍頼経の京都送還に同行し、

頼経の前で「必ず今一度鎌倉へお迎えします」と涙ながらに語り、

その様子は北条時頼に報告されていた。

執権北条時頼は、

1246年、前将軍頼経を京都に送還した後、

九条頼経の父で、

将軍派の背後にいた九条道家の関東申次職を罷免し、

代わって西園寺実氏を任命する。

九条道家という後ろ盾を失った将軍復権派は、

実力行使するしか手は残されておらず、

三浦光村は鎌倉に帰着すると、

反北条の勢力を集結すべく動いた。

一方、北条時頼は、

三浦氏当主である泰村に対して、

六波羅にあった北条重時の鎌倉帰還を打診している。

宿老重時の帰還によって、

三浦氏の執権外戚の地位からの、

引退を穏便に運ぼうとしたものと考えられる。

しかし、泰村はこれを拒否。

幕府内の序列が投影される1247年正月の将軍家垸飯では、

北条氏に次ぐ権門は変わらず三浦氏であり、

時頼政権の外戚として、

本来得宗家に次ぐ席次が与えられるべきであった安達氏は、

大いに憤懣を募らせていた。

1247年、鎌倉に不穏な噂が流れ始める。

・羽蟻の大群が鎌倉を埋め尽くしたり、

・北条時盛の館の上空を得体の知れない「光る物体」が飛行したり、

・由比ヶ浜の潮が赤く血のように染まったり、

・大流星が東北より西南へ流れたり、

・黄色の蝶が鎌倉中を飛び回ったり、

・津軽の浜に人の死体のような大魚が打ち上げられたりetc.

黄蝶については平将門の乱や、

前九年の役の直前にも飛び交う現象があり、

大魚については奥州合戦や源頼家失脚の直前や、

和田合戦の最中にもやはり漂着していることから、

それぞれ「兵革」の予兆とされ、

北条氏と三浦氏の対立が深まる中、

心理戦となって流言飛語が乱れ飛んだ。

鎌倉中が異常心理に陥る中、

打倒三浦の強硬派である幕府宿老の安達景盛が、

25年ぶりに高野山を下りて鎌倉へ戻ってきた。

景盛は外孫でもある執権時頼の邸に参上し、

長時間話し込み、

時頼に三浦攻撃を説いたものと見られる。

また景盛は三浦氏の風下に甘んじる我が子の安達義景や、

孫の泰盛を激しく叱責した。

幕府は数々の怪異は

「後鳥羽上皇の怨霊が引き起こしたもの」として、

鶴岡八幡宮の山嶺に、

怨霊を鎮める御霊社を建立し、

三浦泰村の次男駒石丸を時頼の養子に迎えるなど和解を図った、

しかし、

強硬派の弟光村によって和平ははねのけられた。

結局、合戦の末、

三浦一族と与党500余名はそれぞれに自刃して果てた。

忠成王は宝治3年(1249年)平経高の取り計らいにより元服する。

ところが、

それを知った幕府は宝治合戦への忠成王の関与を疑い、

二階堂幸泰を、

後嵯峨上皇への徳政を進言することを口実に兵を率いて上洛させ、

修明門院を詰問している。

その後、四辻御所を離れて洛北郊外の岩倉に住み、

石蔵宮(岩倉宮)と呼ばれた。

1264年、修明門院の没後に四辻御所を含むその遺領は、

忠成王ではなく、

異母弟の善統親王(四辻宮)に継承されたため、

後に岩倉宮・四辻宮間の紛争の原因となった。

生涯、官位や親王宣下を受けることはなく、

1281年卒去、享年59。


<宮将軍▪摂家将軍>

宮将軍は、

鎌倉時代後期に征夷大将軍に任じられた

宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王、

の4親王を指す言葉です。

彼らを総称して鎌倉宮家と表現することもあります。

後醍醐天皇の建武の新政期に、

鎌倉統治を任じられた護良親王と成良親王も

宮将軍と呼ぶことがありますが、

前者の4親王は鎌倉政権の形式上の長で、

実権を持たないのに対し、

後者の2親王は建武政権において、

短期間ではありながら、

重要なその一翼を担った実務者だったことが根本的に異なります。

鎌倉幕府の基本的な主従制構造は、

武家の棟梁である鎌倉殿と

御恩と奉公の御家人で成り立っていました。

しかし、3代目・源実朝に子がなかったことから、

「皇族から武家の棟梁を」

と考えた北条政子とその弟・北条義時により、

1218年、朝廷側に宮将軍が提案されました。

しかし、

1219年に起きた実朝暗殺により、

後鳥羽上皇の拒否に遭い頓挫。

代わりに源頼朝の7つ下の妹、坊門姫の孫・西園寺掄子と、

同じく坊門姫の孫の九条道家の間に生まれた子・九条頼経が

頼朝の女系血統を継いでいるということで4代目鎌倉将軍に選ばれました。

1226年、将軍職を相続することになった頼経だが、

成長するにつれ、独自の政権運営を指向し、

北条執権に反抗的な態度を取るようになった。

1246年、宮騒動により追放。

その後、

頼経の子「頼嗣」が将軍職を継承することとなるが、

1252年に北条時頼らの

「やっぱり皇族の男子が欲しい」という奏請により、

後嵯峨天皇の第1庶皇子である「宗尊親王」が、

将軍として鎌倉に迎え入れられることとなった。

6代将軍・宗尊親王は正真正銘の天皇の子で、

1257年、北条時宗を烏帽子親として元服した。

その後鎌倉幕府による「得宗専制」が始まった。

宮将軍としては2代目となる「惟康王」は、

第6代将軍・宗尊親王の嫡男として相模鎌倉に生まれる。

1266年、父が廃されて京都に送還されたことに伴い、

3歳で征夷大将軍に就任した。

親王宣下がなされず惟康王と呼ばれていたが、

1270年、臣籍降下して源惟康と名乗る。

1287年、皇籍復帰する。

鎌倉に宮将軍として赴任した4人のうち、

臣籍降下、皇籍復帰、したのは惟康親王だけである。

鎌倉幕府が朝廷より征夷大将軍としての任命を受けて成立している以上、

摂家将軍では安定性を欠いた。

実際、頼経は成長すると幕府の実権を北条氏から奪取しようとした。

北条氏は摂家将軍に懲りて、天皇の皇子を欲しがった。

宮将軍ならば幕府の存在自体を正当化させる上で非常に大きな意義を持つ。

しかし、

宮将軍が成立した背景には、

朝廷側の事情も存在していた。

これまで宮騒動及び摂家将軍の終焉は、

九条頼経と北条氏の対立という、

幕府側の問題だけで語られる傾向があったが、

近年になって、

順徳上皇の生母の修明門院や皇子の忠成王らが

後嵯峨天皇を廃して皇位を自己の系統に奪還するため、

九条道家に接近していた。

土御門系の後嵯峨天皇と、

順徳上皇系の忠成王の確執が浮かび上がる。

後嵯峨上皇は忠成王を押さえるために、

幕府との連携を強化する必要があった。

宮将軍の構想は渡りに船であったと言える。

最初の宮将軍には、

後深草天皇の異母兄である宗尊親王が選ばれた。

宗尊親王は承明門院(土御門上皇の生母)に育てられ、

断絶した後高倉院の皇統に残されていた所領

(室町院領・式乾門院領)の未来領主に指定されるなど、

後深草・亀山両天皇に次ぐ存在として扱われていた。

それは将軍就任後も変わらず、

正室は摂関家の近衛家から選ばれ、

将軍在任中に一品親王・中務卿に任じられるなど、

その立場に変化はなかった。

鎌倉幕府も宗尊親王の皇族としての立場を重要視しており、

京都への送還直後に武藤景頼を派遣して、

後嵯峨上皇と宗尊親王の関係を取り持ち、

更に宗尊当人にも所領5か所を献上するなど、

宗尊との関係維持に努めている。

宗尊親王の後を継いだ息子

「惟康親王」の就任にあたっては、

幕府は二階堂行忠・安達時盛を使者として上洛させて、

惟康王の次期将軍就任の奏請を行い、

これを受ける形で、

「治天の君」である後嵯峨上皇が、

従四位下征夷大将軍に任じており、

「治天の孫王」としての礼遇を受けている。

しかし、

その4年後、

従三位左近衛中将に任ぜられて臣籍降下した。

この問題も、

幕府内部の問題だけでは論じることが出来ない。

同時進行的に南北朝問題が絡んでいる。

惟康の将軍就任から2年後、

1268年、後深草上皇の皇子熈仁親王を差しおいて、

弟である亀山天皇の皇子世仁親王(後宇多天皇)が立太子された。

つまり後深草上皇の弟の亀山天皇が、その子、世仁親王を皇太子にした事で、

兄の後深草上皇から皇統を奪った形となったのだ。

後深草上皇は怒り、亀山天皇との対立を深めた。

1272年、後嵯峨法皇が治天と皇位の決定権についてすべてを鎌倉幕府に委ねる形で崩御すると

完全に皇統は亀山天皇の子孫による皇位継承の方針が打ち出された。

宗尊親王は後深草上皇の第一皇子である。

皇位継承に関わる可能性が失われたゆえに、朝廷からも、

宗尊親王の子の惟康の源氏への臣籍降下が求められた。

1275年、後深草上皇は太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明し、執権北条時宗と折衝した。

後深草上皇は皇子熈仁親王(伏見天皇)を同年中に立太子させることに成功した。

しかし、

伏見天皇の践祚の1か月前、

亀山院政(後宇多天皇)最後の決定として、

惟康の皇族復帰・親王宣下が決定された。

猶子関係もないままに、

後深草の孫王である惟康に、

親王宣下が認められたのは、

後深草上皇の系統の復権が確実になった中で、

亀山上皇系が宗尊親王系を、

自己の皇統に取り込むためと考えられている。

しかし、2年後に伏見天皇は

皇子・胤仁親王(後伏見天皇)の立太子を幕府に認めさせる。

その結果、

後深草上皇系の皇位継承権が確立される。

後深草上皇は、

大覚寺統と密着した宗尊親王系に代わって、

自己の皇子を将軍に就けるように鎌倉幕府に求めるようになり、

胤仁の立太子から5か月後、

1289年、大覚寺統の惟康親王は京都に送還されることになった。

代わって送り込まれた後深草上皇の皇子である久明親王は第7皇子である。

持明院統と鎌倉幕府の関係強化のために将軍職に就けられたが、

その一方で正室として、

惟康親王の娘を迎えた。

これによって義理とは言え、

大覚寺の惟康と持明院の久明は父子関係が結ばれることになり、

後嵯峨天皇の第一皇子であった宗尊親王以来の世襲が維持される形になった。

そして、惟康親王の娘は守邦親王を生んだことで、

宗尊-惟康=久明-守邦という継承が成立する。

最後の将軍となった久明親王の息子の守邦親王は、

後深草上皇の孫王にあたるため、

本来であれば「守邦王」である筈であるが、

将軍宣下の翌日に親王宣下を受けている。

天皇や院との猶子関係の無い孫王が親王宣下を受けることは、

惟康親王の先例によるものと思われるが、

守邦の場合は孫王身分のまま親王宣下を受けており、

極めて特殊な事例であった。

また、孫王でありながら鎌倉で生まれ、

幕府滅亡後に恐らく鎌倉で没したと推定され、

京都の地に一度も足を踏み入れることなく生涯を終えたという点でも極めて特殊な存在であった。

前述のように惟康と久明を、

婚姻を介した義理の父子と理解した場合、

宗尊親王から守邦親王まで、

父子による将軍職と親王の品位の世襲が実現していたことになり、

宗尊親王を祖とする「親王将軍家」という

家系の存在が認識可能となる。

親王と将軍職が不可分で、

猶子関係のない孫王であっても親王宣下を受けられたという点では、

後世の宮家とは性質は異なるものの、

その先駆的な性格は持っていたと言える。

また、最後の将軍となった守邦を例外として、

歴代の宮将軍は、

鎌倉幕府によって一方的に将軍職を解任されて京都に送還されているが、

いずれも帰洛後も親王の身分を剥奪されることもなく、

皇室の成員の1人として遇されている点でも特別な待遇を受けていたと言える。

宮号の世襲というものは、

順徳天皇の皇子「忠成王」が「岩倉宮」を名乗り、

「善統親王」が「四辻宮」を名乗ったときから始まった

子孫に宮号が世襲されると、

身位と財産が引き継がれるのであるが、

鎌倉の場合は「将軍」という職も引き継がれた

宮号は称していないものの、

鎌倉宮将軍とはそういうものであった。

第7代将軍・惟康親王の娘が、第8代将軍・久明親王の正室となって、

第9代将軍・守邦親王という後継者を儲けたように、

初代の宮将軍・宗尊親王(後嵯峨天皇の皇子)(第6代鎌倉殿)から、

最後(4代目)の守邦親王まで、

代々征夷大将軍の「職」と「親王の身位」を世襲して、

宮内庁は宮とは認めてないが、これも世襲宮家だろう。

宮将軍となった宗尊親王、惟康親王、久明親王、守邦親王、のうち

最後の守邦親王は鎌倉最後の将軍でもあり、

最後は出家したあと、すぐ亡くなった。

ゆえに臣籍降下し皇籍復帰したのが惟康親王だけである。




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