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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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永世皇族の誕生①


1883年、世襲親王家の廃止を実質的に明記した皇族令(草案)に対して、

井上毅参事院議官は、

参議、山県有朋から依頼されて代筆した意見書で、

親王宣下と天皇の養子の制、廃止に反対し、

世襲親王家は継嗣を広め、

皇基を固くするものとしてその存続を主張し、

さらに皇親と皇族は別のもので、

五世(天皇の養子となり親王宣下を受けた皇族も一世とする)以下は、

叙位ノ皇族とし、

王号を除いて人臣となるが、

時に特旨により華族に賜姓降下することもあると規定すべきと論じた。

次いで起草された前述の制度取調局の調査を基にした「皇室制規」草案では、

皇子女を親王・内親王(第 17)、

親王の二代目以下を王とし世襲皇族とすること(第 18)、

親王・王の二男以下は華族の養子となることができ(第 19)、

成年に達した後華族に列することがあること(第 20)、

皇族の継嗣を実子孫・実弟に限ること(第 25)、

附録で1881年に断絶した桂宮を除く三親王家と小松宮を

世襲皇族(現在の宣下親王の継嗣から王とすること)、

山階宮と久邇宮と北白川宮を三代目から華族に列する二代皇族(同上)、

梨本宮と華頂宮を二代目から華族に列する一代皇族を規定した。

※「宮内省立案第一稿 皇室制規」 この案の修正案「帝室典則」では閑院宮載仁親王は二代皇族とされた

その後「伊藤博文」の命で皇室典範案起草の作業に当たった柳原前光が起草した「皇室法典初稿」を

井上毅の修正を受けて柳原自身がさらに修正した1887年 「皇室典範再稿」では、

親王・内親王を現行の一世の皇子女から四世の皇玄孫まで拡大し、

五世以下を王・女王とすること(第 28 条)

世数は実系により(第 113 条)、

すでに親王宣下を受けている皇族は旧による(第 110 条)、

支系から皇位継承した場合には皇兄弟姉妹は親王宣下を受けること(第 29 条)、

皇族の「養子の制」の廃止(第 84 条)を規定し、

代々その当主又は継嗣が天皇の猶子又は養子となり「親王宣下」を受ける世襲親王家の制度を廃止した。

さらに皇位継承権者が十員以上いるとき

五世以下で疎遠の皇族から逓次臣籍に列することがあること(第 105 条)を規定した。

柳原は「世襲親王」という「親王の家格」があるときは「皇位継承法」と両立できないとして

「世襲親王家」の制度を廃止し、

また、皇族数が増加すると十分な皇族費を賄うことができなくなること、

伏見宮の血統が皇位から遠く、伏見宮家よりも皇位に近い華族がいること、

五世以下は皇親でないとする「祖宗の制」などを理由に、

「臣籍降下」を可能とすべきという考えであった。

※霊元天皇から四世の有栖川宮幟仁親王が1886年1月に薨去し直宮の嘉仁親王(大正天皇)以外の皇族は全て五世以下であった。

これに対し井上は欧州諸国では王族の子孫はいつまでも王族で人民に降ることはないとして、

プロイセンの王家の2分家の例を挙げ、両家は家格も王家と同じで世襲親王家に粗似しているとして、

親王家廃止に疑義を呈し、五世で皇親でなくなるという原則と皇族世襲の原則を両存させて、

天皇の特旨による処分に任せてはどうかという考えであった。

※ 欧州諸国の王公家の分家は、世襲親王家とは異なり、王公家とは別の家とされている。

例えば、デンマークでは1863年にオレンボー家が絶えたとき、

16 世紀のオレンボー家の王子を始祖とする分家グリュックスボー家(現デンマーク王家)の

男系の公子がクリスチァン 9 世として王位を継承したが、王朝が交替したとみなされている。

1887年3 月20日に伊藤の高輪別邸で「伊藤博文」「井上毅」「柳原前光」「伊東巳代治」

(内閣総理大臣秘書官)が出席して、前述の「皇室典範再稿」を基にした皇室典範草案の検討会議

(いわゆる高輪会議)が行われた。

柳原前光はその場で「世襲皇族の制度は往古になく封建時代の因習である」として、

四世までを親王、五世以下を王とし、五世以下の皇族は皇系疎遠なるものから、

逓次臣籍降下させる案を伊藤に問い、伊藤の賛成を得た。

会議後に「十員以上」は削除され「皇族増加スルニ従ヒ五世以下疎属ハ逓次臣籍ニ列スヘシ」となった。

ところが1888年に枢密院諮詢案を作成する段階で伊藤の指示で賜姓降下の規定は削除されてしまう。

伊藤は枢密院審査において、原案には五世以下の賜姓降下の規定があったが

「種々穏かならざる所ありて遂に削除した」と述べている。

この段階になって考えを変更した理由は史料的には明らかになっていない。



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